2013年11月16日土曜日

大学入試改革?

 文部科学大臣の諮問を受けて、中央教育審議会(中教審)が大学入試制度の改革を審議しているということで、いろいろ論議されている。共通一次試験も大学入試センター試験も経験したことのない世代には、何を大騒ぎしているのか理解できない。

 中教審というのは、昔から胡散臭い審議会で、中教審答申というと、何かと物議を醸すことが多いという印象が強いが、中教審答申で教育制度や教育内容が大いに改善されたという話を聞いたことがない。おまけに、今回は、「教育再生実行会議」とやらますます胡散臭い組織が介在していて、大学入試センター試験に換えて「基礎」と「発展」という二種類の達成度テストを導入することを提言している。教育再生実行会議の提言 こちらも覗いてみようか。「人づくりは、国づくり。教育再生への取組み始まる~教育再生実行会議」

 うーん、「基礎」と「発展」ねー。これまでの教育や入試制度は、「基礎」と「発展」をぜんぜん考えてこなかったということなんだ。それにしても、頭のいい人たちが考え抜いて(と思いたいが、大して考えもしなかったのかな)出した提言が、とくに目新しくもなければ、さすが、というほどのものでもないところに、日本の教育レベルが現れているとも言えるのかな。再生というのだから、今の教育は死んじゃっているということなんだろうな。おー、怖いことだ。

 提言を読むと、いろんなことを言っていて、益々わけがわからなくなってくる。「若者の力を引き出していく上で重要なこの時期に知識偏重の1点刻みの試験のみによる選抜や、逆に、学習への意欲や努力の減退を招くような学力不問の選抜によって、本来伸びるはずの若者の能力を損ねることがあってはなりません」という一文がある。1点刻みがダメなら何点刻みならいいというのだろうか。

 入試は定員内の合格者数を高点順で決めていくのがふつうだろう。その場合は、1点刻みでも10点刻みでも変わりがない。マラソンでもゴルフでも同じで、1秒差だろうと10分差だろうと、1打差だろうと10打差だろうと順位には変わりがない。要するに、入試の成績は比率尺度ではなくて順位尺度ということである。実際の合否判定では、小数点以下の数値も用いられるそうだが、100m競争で0.1秒差だから同順位にしようなんて誰も言わないのと同じで、順位を決める際には差の大きさは関係がないということである。そのことを知識偏重と言うのなら、教育再生実行会議のメンバー全員は「基礎」学力を欠いているとしか言いようがない。まずは「基礎」レベルの「達成度テスト」を受けてほしいものである。
 

 「各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する」ということも書かれている。

 何でもいいから色々やることが「丁寧な選抜」方法ということらしい。色々やらないと知識偏重ということでお咎めがあると大学側が受けとめるように仕向けているとも言える。
 もっとも、上の提言に添えられた資料を見ると、いままでも各大学は様々な入試を行っているようで、平成24年度の国公私立全入学者594,358人のうち、一般入試による入学者数は333,889人(56.2%)である。学力で大学に入学している学生は半分しかいないというのは、ちょっとビックリするのは古い人間だからか。そんな状況では教える側は大学教育の水準とか専門教育とかを真剣に考えて教育に取り組むことができないんじゃないだろうか。アカデミズムなんていうのは、いまの大学には関係ないんだろうか。
 一般入試での入学者数の割合を設置主体別に見ると、国立84.1%、公立73.3%、私立49.1%となっているから、一般入試以外の方法による入学者割合の増加を図るというのは、国公立大学に関してのようである。

 こんなことも言っている。
 「国は、メリハリある財政支援により、以上の取組を行う大学を積極的に支援する。国及び大学は、大学入学者選抜の改革について、その成果を検証し、継続的な改善に取り組む。公務員の採用においては、特に平成14 年度以降、人物評価の重視に向けた見直しが図られてきており、引き続き能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用が行われることが期待される」

 一般入試ばかりやっていると補助金を減らすぞ、と脅かしている。各大学は、おそらく、無節操に右へ倣えで、あれこれとつまらないことを真面目くさってやることになるになるのだろう。そして、わかったようなわからないような基準を立てて、「人物評価」をしたり顔でやることになるのだろう。「学力評価」に比べて「人物評価」の方が価値ある評価方法と錯覚しているのは、実は大学の教師なのかもしれない。評価とはいうものの、「人物評価」は、得てして単なる「好み」になってしまう。ごくごく一般的で誰もがあまり考えずに下せる評価の基準は「明朗快活」であったり「人付き合いの良さ」であろう。それらは、「人柄の良さ」とも言い換えることができる。

 個人のそうした資質は訓練や努力によって「向上する」こともあるかもしれないが、「学力」のように到達基準が明確ではないし、「人生経験」によるところもおおきいであろう。高校を卒業したくらいの年齢の人間が「人物評価」で高い評価を得るほど成熟しているとすれば、かえって気味が悪いのではないだろうか。それに、大学の教師がまともに「人物評価」できるとも思えない。理由は二つある。一つは、研究に夢中で、専門的知識や技術を教えることに熱心な、まさに大学教師と言える教師に今流の「人物評価」まで求めることは難しいのではないかということである。もう一つは、残念なことではあるが、的確に「人物評価」ができるほどの教師が大学に大勢いるだろうか、ということである。派閥まがいの徒党を組んだり、その中に取り入ろうとして事の是非を考えもしない教師が少なくないと聞く。そうした教師が行う「人物評価」がどのようなものか想像するに難くない。

 推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試の際に課せられる小論文などは各大学が公表していて、ウェッブサイトや受験用の問題集などから見ることができるが、こんな問題でどのように採点しているのか疑問に思うものも少なくない。おそらく、10点刻みとかA、B、Cとか大雑把な点数付けをしているのだろうなと想像する。まあ、好い加減なんだろうな、と素人は思う。

 ましてや、面接や「生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動」など、あれやこれやを勘案するとなれば、もう、何でもありで、どういう基準で評価されるのか/するのか、受験生も評価する側もさっぱりわからないのではないだろうか。

 学力以外で入学してくる学生に大学らしい高度の専門的知識・技術を身につけようとする意欲を期待することは難しいだろう。「もっと易しく、わかりやすく教えて欲しい。そうでないと息子は大学嫌いになってしまいます」と母親から要求があった例を知人の国立大学教授が話していた。「へっ!?」と口に出てしまったが、恐ろしい時代になったものだと思った。そんなことが、これからはもっと起きるのだろう。

 国を挙げて大学を歩行者天国(ちょっと古いか?)というかストリート・パフォーマンス場というか、群衆で溢れかえる雑踏にしようとしているのだから、「教育再生」も「人づくり」も何もあったものではないだろう。そんな中で4年間も過ごさせて大卒の肩書きを与えることが「人づくり」であり「国づくり」というのでは、学費を負担する親や税金を負担する国民はバカを見るだけではないだろうか。あー、ヤダヤダ。