2013年12月7日土曜日

真冬なのに 桜が咲いている

冬真っ盛りの気温13℃の中、近所の桜が咲いている。下の写真は、今日、12月7日(土)の14時頃に写したもの。この桜の木は、満開というわけではないが、1年中花をつけている奇妙な木だ。ここに越してきてから17年になるが、毎年のことだから、きっと、特殊な遺伝子を持っているのではないかと思う。




 
下の写真は、ほぼ同じ場所で紅葉している木
 
 
 
 以下は、きのう撮った冬景色。
 


 

2013年12月3日火曜日

道徳を特別教科に「格上げ」するそうだ

 報道によると、12月2日に、文部科学省の有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」」(座長・鳥居泰彦慶応義塾学事顧問)が、小・中学校で現在は正式教科ではない道徳を特別教科に格上げして検定教科書の使用を求める最終報告書案をとりまとめたという。

道徳が授業時間割に載るようになったのはいつ頃からだろうか。おぼろげな記憶では、たしか、そんな古いことではなかったと思う。そして、一時期、授業から外されたこともあったように記憶している。

道徳教育って何だろうと思って、文部科学省のウェッブサイトを覗いてみたら、「 文部科学省では,このたび,道徳教育の一層の充実に資するため,平成25年度使用分から,小・中学生等への「心のノート」の配布を再開することとしました。また,より使い方の幅を広げることができるよう,「心のノート」のデータを文部科学省ホームページに掲載しています」とあって、小学生の低学年用、中学年用、高学年用、中学生用の4種類の「心のノート」の全文が読めるようになっている。どれも絵や写真をふんだんに用いていて、所々は漫画チックで、といった凝ったデザインのページで埋め尽くされている。

中学生用の「心のノート」を見てみると、次のような著名人が残した文章の一端や言葉などが紹介されている。内村鑑三、和辻哲郎、国木田独歩、吉行淳之介、サン・テグジュベリ、朱子、オルテガ・イ・ガゼット、夏目漱石、ゲーテ、ラルフ・エマーソン、ウィリアム・スミス・クラーク、井上ひさし、梅田晴夫、福永武彦、モーム、野上弥生子、ボールドウィン、伊能忠敬、志賀直哉、阿部次郎、折口信夫、久保田万太郎、ラ・ロシュフコー、ジョージ・ワシントン、キケロ、福沢諭吉、緒方貞子、ワーズワース、八木重吉、バーナード=ショー、山本有三。そして、会津藩士としての心構えを定めた「什(じゅう)の掟」の抜粋や世界人権宣言の抜粋なども掲載されている。

時代を超えた「名言」ということなんだろうが、私の小中学校時代によく聞かされた名前が並んでいるという印象が強い。つまみ食い的に、ちょこっとずつ紹介するのは、日めくりカレンダーにある名言・格言を見るようだ。そういえば、中学生用の「心のノート」に載せられている「志を立てるのに遅すぎるということは決してない」というボールドウィンの言葉を私が知ったのも、高校時代に家にあった日めくりカレンダーからである。毎日一つずつ書かれていた名言・格言の中で、この言葉だけが青春時代の多感な時期の私に強烈な印象を与えたことを覚えている。



むかし、道徳と倫理の違いについて論じた文章を読んだ記憶がある。ある大学の入試問題だったかもしれない。なるほど、と感心したというか、そうなんだと納得したことを覚えているから、相当印象が強かったのだろう。

その文章では、倫理は人の道という普遍的な原理であるが、道徳は権威者が振るう支配の原理というようなことを述べていたように記憶している。そういえば、夏目漱石は、「断片」(漱石全集第11巻 日記及断片、大正8年、漱石全集刊行会、109頁)で、「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらわれる。考は親の権力の強きところ、忠は君の権力の強きところ、貞は男子の権力の強きところにあらわれる」と述べている(原文には句読点がなく、「あらわれる」は「あらはれる」、「ところ」は「處」と書かれているが、ここでは、現代風に書いておく)。検定教科書を使うというのも、いま進めようとしている道徳教育のなんたるかがわかるというものである。

有識者会議のメンバーがどのような面々か知らないが、「心のノート」には、漱石の『それから』から「人間の目的は、生まれた本人が、本人自身につくったものでなければならない」という一文を紹介している。有識者会議のメンバーが、この一文をどう読んで(解釈して)、何を伝えようとしているのか興味あるところであるが、上の「断片」の一節を併記していたら中学生にも道徳教育のなんたるかが理解できるのではないだろうか。

それにしても、「心のノート」の作成に携わった者や有識者会議のメンバーが、大人の世界、政治の世界、はたまた教育の世界が、小・中学生用に作成された「心のノート」に書かれていることと、どれほどかけ離れたものであるかを知った上で道徳を口にしているとしたら、彼らがいかに図太い神経の持ち主であることか。そうした厚顔無恥な人間になりましょうということで道徳教育を教科に「格上げ」するのであれば、まあ、筋は通っていると言うべきかもしれないが、道徳教育を強化しようとする教育政策は、そんな皮肉を言って済まされない危険な政治的潮流の一環と認識するべきだろう。

教科であれば評価が伴う。5段階評価のような数値評価をしないというが、どのような形式にしろ評価は優劣を判定するものである。客観的基準がない下での評価は、評価する側の主観にゆだねられることになる。それは、多くの場合、好みや共感の程度の表明という形になって現れる。そうした“評価もどき”で人格の優劣を判定するようなことが教育の世界でまかり通るようになることは恐ろしいことである。

「心のノート」に目を通すと、わざわざ道徳教育と銘打って取り上げなければならないような内容とは思えない。これまでの教科で十分に扱うことのできるものばかりである。それらを精神訓話調に仕立て上げているだけである。とくに中学生用の「心のノート」の内容は、社会学や心理学、哲学、倫理学、歴史学、文学など、オーソドックスな学問領域の成果をしっかりと教えればすむことばかりである。いま進められている道徳教育“改革”に関して、それらの学問領域の教師や研究者が真正面から批判的検討を行わなければ、自らの専門的学識を貶めることになるだろう。