2015年7月2日木曜日

ギリシャの経済危機と日本の債務残高-財政健全化計画と安保法案は矛盾する政策

ギリシャの経済危機が報じられている。

NHK News Web によれば、ギリシャが抱えている債務残高は、今年3月末時点で、日本円にして約42兆円(3130億ユーロ)に上る。債務の内訳は、IMF(国際通貨基金)に210億ユーロ余、ヨーロッパ中央銀行に270億ユーロ余、EU=ヨーロッパ連合に約1840億ユーロだ。

債務残高が大きいことに加えて、返済期日が迫っていることも、ギリシャ経済を危うくしている。これもNHK News Web によれば、IMFへの15億4000万ユーロ余(2070億円)の返済は期日の30日になっても実行されずに、債務「延滞国」扱いとなった。来月13日にも約4億5000万ユーロを返済しなければならない。加えて、14日には、およそ8400万ユーロ分の円建て国債、いわゆる「サムライ債」の償還期限を迎えるほか、20日には、ヨーロッパ中央銀行が保有する国債の償還で、およそ35億ユーロを返済しなければならない。さらに、来月中旬から下旬にかけて合わせて8億ユーロに上る国債の利払いも控えているほか、8月にもヨーロッパ中央銀行に対し、およそ32億ユーロの支払いもある。

要するに、ギリシャは借金まみれの国ということだが、日本も債務残高が1,000兆円を超えているのだから、借金まみれということでは同じだ(下の表:財務省資料)。


ギリシャと違うところは、債務のほとんどが国債と地方債で、それらを購入しているのがほとんど日本国内の金融機関であるということだ(下の表:日本銀行調査統計局2015年6月29日発行の参考表から抜粋して作成)。

(注1) 国債等は、「国庫短期証券」「国債・財融債」の合計。また、国債等は、一般政府(中央政府)のほか、公的金融機 
    関(財政融資資金)の発行分を含む。
(注2) 金融仲介機関は、預金取扱機関、保険・年金基金、その他金融仲介機関から構成されるが、*ではその他金融仲
    介機関のうち公的金融機関を除いている。
(注3) その他は、「非金融法人企業」「対家計民間非営利団体」「非仲介型金融機関」の合計。
中でも、中央銀行(日本銀行:日銀)の購入比率が26.5%と大きい。日本政府が国債を発行して、それを日銀が購入して、日本政府が日銀に金利を支払う。素人には、その仕組みがイマイチ理解できないが、政府が支払う金利は税金だから、結局は国民が金利を負担することになる。何か、他人の金を貸したり借りたりして政府と日銀がマネーゲームをして遊んでいるような感じだ。まあ、他人の金だから気にしないで動かせる、という感じかもしれない。本当は身内の大切な金を預かっているんだが、そういった感覚は全くないんだろうな。

外国や国際金融機関から多額の借金をしていれば、ギリシャのように返済期日までに約束通りに返済しなければ大事になるし、借金返済のために借金をするということも、そう簡単には許してくれないだろうが、国内で政府と貨幣を製造する中央銀行が、ナアナアでやっているから、多額の返済をしながら多額の借金をするという自転車操業が可能になっているのだろう。

財政健全化計画とやらで、2020年までに赤字から脱却すると大見得を切ったが、せいぜいそれくらいか、という感じだ。確実にできることは、消費税増税と社会保障費の削減だけで、経済成長戦略などは期待だけだから、債務残高が激減するわけでも国民生活が豊かになるわけでもない。

いつでも戦争ができる国にすることを熱望している内閣なら、当然のことながら軍事関係に予算をつぎ込もうとするだろう。艦船や航空機、車両、それらの燃料、諸々の軍事システム、人員等々にかかる費用は莫大になる。

エコだ省エネだとか何だかんだといっても、軍用の艦船や航空機、車両などに費やされる燃料が少しばかりでも増えれば、高度な技術を用いたハイブリッドや電気自動車で燃費を競い合っていても、それで節約できる石油の国内消費量などは何の効果もなくなる。常に臨戦態勢を整えておくということは、膨大な量のエネルギー源を消費することであり、究極の反エコ、反省エネであるということだ。

こう考えると、財政健全化計画と安保法案は、本来なら真っ向から対立する政策ということになる。そのことに知らんぷりして政策を進めようとする安倍内閣は国民を愚弄しているということである。そして、そのことに気づかない国民は、全くもっておめでたい、と言わざるを得ない。

2015年7月1日水曜日

安倍首相の戦後70年を記念する談話への関心

安倍首相の戦後70年を記念する談話に関心が高まっているが、たまたま興味深い記事を見つけた。米国の学者8人、「私なら70年談話をこう語る」と題されたネット上の記事だ。その中で、『太平洋戦争終結70周年に考える-8人のスタンフォード研究者による終戦の日の談話-』という出版物が紹介されている(上記書名をクリックすれば全文が読める)。

これは、スタンフォード大学ショーレンスタイン・アジア太平洋研究センター とフリーマン・スポグリ国際研究所 に所属する8人の日本研究者が、自分が日本の首相だったら、どのような談話を発表するか、という観点から書かれたものだ。その中には、村山談話(1995年<平成7年>8月15日の戦後50周年記念式典に際 して、内閣総理大臣の村山富市が閣議決定に基づき発表した声明)と小泉談話( 2005年<平成17年>8月15日の戦後60周年記念式典に 際して、内閣総理大臣の小泉純一郎が閣議決定に基づき発表した声明)も収録されている。

詳細は上記の出版物に直接当たって欲しいが、私は、その内容もさることながら、これを企画した編者の星岳雄(ホシ・タケオ)氏とダニエル・スナイダー氏、そして、その求めに応じて“談話”を書いた8人の日本研究者(編者らを含む)のこのような希有と思われる試みに感心する。

首相談話で議論になることは、かつての日本の行為に対する反省と謝罪(お詫び)に関してである。戦後生まれの人間にとって、正直なところ、戦後50年も、60年も、そして70年も経って、なお、反省と謝罪が首相談話の重要課題になることにはとても違和感を覚える。もちろん、日本が犯した過去の不始末に目を瞑(つむ)るとか、反省や謝罪が必要ではないと言うのではない。これまで長い間、過去の不始末に決着をつけずに、いつまでも後世の人間に付けを残し続けるのか、ということである。

30年ほど前(戦後40年を経ていた)のことだが、仕事でマレーシアの開拓農村に滞在していたことがある。ゴムや油椰子(オイルパーム)の林に囲まれた方々(ほうぼう)の集落を回ったが、ある日、村の集会所のような所で昼食休憩をしていたときに、どことなく古めかしい小銃を持った中年の警備員が親しげに話しかけてきて、テーブルの向かいに座った。外国人が珍しかったようだ。テーブルの上に、ドンと小銃を置いたのには驚いた。

一緒にいたマレーシア人が、私が日本人で、仕事で来ていることを話した。警備員は、ますます親しげにあれこれと話し、聞いてきた。私はマレー語がわからなかったので、同席のマレーシア人の通訳で雑談していたのだが、彼が時折苦い顔をして警備員に話していたので、何を話しているのかを聞いたところ、日本の占領時代のことだという。日本兵の銃剣で追い立てられて椰子の木に登って逃げたという話を祖母から聞いたということだった。

警備員は、とりたてて私を責めているような感じはなかったが、ジッと見つめられたときには複雑な心境になった。いま、この村にいる日本人は私一人と思うと、日本を代表して謝罪しなければならないのか、とも思ったが、口から出たのは、「そんなことがありましたか。その兵隊はとても悪い兵隊でしたね。おばあさんは、とても恐ろしかったでしょうね、くやしかったでしょうね」、「でも、そのことに私が日本人だからといってここでお詫びしたりするつもりはありませんし、過去に悪行を犯した日本人と一緒にしてほしくはないです」というものだった。警備員もマレーシア人も、その後に交わした会話の中で、私の言ったことに理解してくれたようだった。彼は、重そうな小銃を手にすると、笑顔で去って行った。

同国人だからと言って、いまの世代が前の世代が犯した悪行の責めを負わなければならないなんてことはない。いつまで経っても反省と謝罪の議論が繰り返されているのは、悪行を働いた者たちの責任をハッキリさせることなく、皆が納得できるようなしっかりとした決着をつけないままにズルズルと先延ばして来たからである。

その間に、外向きには中途半端な反省やら謝罪やらでお茶を濁すようなことをし、内向きには自国民が無知蒙昧かのように幼稚な手練手管(てれんてくだ)を弄(ろう)して恰(あたか)も戦前回帰のような言動を繰り返してきた。そして、それに同調したり、指示を与えたりする輩が跋扈し、少なからぬ国民がそれを許してきた。

安倍首相の談話は閣議決定を経ることなく個人の談話として発表することも検討されているという。時の総理大臣が戦後70年を記念する談話を個人談話として発表することに何の意味があるのだろう。“ああ、首相談話ね。あれって、個人の単なる呟(つぶや)きでしょ。その程度のことは、みんなツイッターでやってるよ”ということだ。無責任きわまりない。それこそ国民を愚弄するものではないのか。愚民扱いである。国民は何と馬鹿にされていることか。そして、また、決着させることなく、日本は、日本人は「反省と謝罪」を歴史的遺物として後世に引き継いでいくことになる。

日本国憲法は、戦前の愚かな独善者が犯した悪行に対して内外に向けて反省と謝罪を表明したものであり、二度とそのような悪行を起こさないことを権力の地位に座る者に誓わしめたものである、と私は理解している。憲法の前文は次のように述べている。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」たのであり、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と宣言したのである。そう宣言した以上、この憲法に則(のっと)って、速やかに過去の悪行に対して国内外が納得しうるような決着を速やかに図るべきであった。そうすることなく、平和憲法を蔑(ないがし)ろにするような言動を相も変わらず繰り返している。

私は、現行の日本国憲法は、他の何にも増して日本人が誇りうる世界遺産に相応しいと思っている。憲法が世界遺産に登録されている例を知らないし、世界遺産の登録をめぐる運動やら駆け引きには胡散臭(うさんくさ)さやバカバカしさを感じてはいるが、日本政府が日本国憲法を大事にし、世界遺産に登録したいという態度を示せば、過去の悪行に対して本気になって決着をつけようとしていると国内外に理解してもらえるに違いない。

私の父は、終戦時に満州(中国東北部)でソ連軍の捕虜になり、シベリアに2年間抑留された。帰国できたが、抑留中の過酷な捕虜生活で体はボロボロになっていた。帰国後何年もしないうちに長い入院生活を余儀なくされ、多くを語ることなく亡くなった。誰からも、どこからも心底からの謝罪の言葉を受けたことはない。かつての戦争で犠牲になった途轍(とてつ)もない多くの人々もそうだろう。

上辺だけの、形だけの哀悼の意らしきもの、謝罪らしきもので取り繕われてきた。それでも日本人は、自国の権力者に対して類い希なる寛容の精神を示してきた。そのことにいい気になって/図に乗って、過去を清算する努力を怠り、付けを残したまま、時には過去の過ちを美化し、再び過ちを犯そうとするかのような言動を繰り返している。そして、そうしたことを支持する輩が欲得尽(よくとくずく)で群がっている。

もう、反省と謝罪の議論で振り回されるのはご免である。過去を清算する決意を表明し、日本が真の平和国家として世界から尊敬され、羨望の的になれるような首相談話であることを願わずにはいられない。

2015年6月25日木曜日

憲法を遵守しなくてよいのなら、全ての法律を遵守しなくてもよいのではないか

安保法案の論議が山場にさしかかっている。かつてない期間の国会延長が決まったという。期間を延長すると、どれほどの費用が嵩むのだろう。

安保法制に関する安倍首相の説明や国会での与野党の論戦がわかりにくいと言われるが、わたしには、そうは思えない。多くの人も、そう思っているのではなかろうか。

首相や閣僚、自民党幹部の言っていることを簡潔に代弁すれば、

ボクも、ボクたちも、いつでも戦争ができる国にしたいんだよ。それだから、いまの憲法で言っていることを首相だから国会議員だからといって守っているわけにはいかないんだよ。

安倍首相の日頃の物言いを真似れば、「すぐにでも戦争のできる国に替えたいのでございます」ということだ。何も難しいことを言っているわけでも、わかりにくいことでもない。ごくごく簡単なことを言っているだけだ。ごく常識的な人間には、安倍首相も中谷防衛大臣も、高村正彦自民党副総裁も、そして、公明党も、何が言いたいのかは、すぐに理解できる。

彼らの発言を大学入試問題に出して、発言の真意を100字程度にまとめよ、と問えば、受験生の多くは、苦もなく正解を記すことができるだろう。

安倍総理は、先頭を切って憲法違反を犯そうというのだから、違憲総理と呼ぶのが相応しいだろう。そして、違憲総理を代表に抱える内閣は違憲内閣ということか。「そんなことを言ってはイケンでございます」と返されるかもしれない。

第十章 最高法規
第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

憲法が国の最高法規であることは上に記した日本国憲法第十章を持ち出すまでもない。最高法規である憲法を「尊重し擁護する義務を負う」べき地位にある者たちが率先して憲法を蔑(ないがし)ろにしている。それこそ憲法違反である。 国政のリーダーが最高法規である憲法に違反した行為を犯しても何の罪にも問われないのなら、どんな法律も意味はなく、全ての違法行為は許されることになる。こう思うのがふつうの生活者の感覚だろう。 安保法案成立にしゃかりきになっている面々は、国民の安全と平和のためだと繰り返し主張しているが、国民の安全と平和のために考えられることが戦争準備態勢を整えることでしかないようでは、全くもって幼稚で知恵も知識も働かない/働かせていないとしか言いようがない。そのことが、国民の安全と平和を奪いつつある、ということに気がつかないのか、そんなことはどうでもよいと思っているのか。

自国の憲法を遵守できない者が、国民の安全と平和を守れるはずがない。ましてや、世界の平和の維持・促進に貢献できるはずはないし、期待もされないだろう。そんな面々を国政のリーダー層として“温存”している国民は、世界中から無知で野蛮な民族と見なされるだろう。

2015年5月18日月曜日

大阪都構想の賛否を問う住民投票の結果はまさにドラマチック

大阪都構想に賛成でもなければ反対でもなく、格別関心があるわけではないが、テレビで住民投票の開票速報をしていたので何とはなしに見ていたら、賛成票と反対票が作ったように拮抗していて面白かった。開票率が80%を超えた頃だろうか、その段階でも賛成票が上回っていたが、反対票が上回ることが確実と報じられた。

最終的には、反対が70万5,585票、賛成が69万4,844票と、反対が多数となって大阪都構想は否決されることになった。大阪市選挙管理委員会は、今回の住民投票のルールを次のように説明していた。

今回の住民投票は投票者数にかかわらず成立し、賛成の票数が有効投票(賛成票と反対票を合計した総数)の半数を超える場合は、特別区設置協定書に基づき大阪市が廃止され、特別区が設置されます。反対の票数が有効投票の半数以上の場合は、特別区は設置されません。<ご注意>実際に投票された有効投票数以外は賛否の決定に影響しません。
 
大阪都構想の是非を問う住民投票と一般に言われてきたが、正確には「大阪市における特別区設置についての住民投票」と言うようで、大阪市選挙管理委員会のウェブサイトには、「特別区設置住民投票」という言葉はあるが、大阪都構想という言葉はひとこともない。

今回の住民投票のルールは多数決ではあるが、大阪市選挙管理委員会の説明にもあるように、「投票者数にかかわらず成立し」ということであるから、投票者数や賛否の差がどれくらいかは問題にならない。極端なことを言えば、3人が投票して2人が賛成あるいは反対すれば決着する。そして、1票差だろうと100万票差だろうと関係ない。とはいうものの、有権者数が少ない村の村会議員選挙で数票の差で当落が決まるのは別に驚きでもないが、今回の票差には本当にビックリした。

住民投票の当日有権者数が210万4,076人で投票率が66.83%ということだから、140万6,154人が投票したことになる。賛成票と反対票の合計より多いが、無効票が5,640票あったからだ。それだけ多くの人が投票して、たった1万741票の差しかなかったというのは、まさにドラマチックである。名作を手がける脚本家でも、ここまでは描けないだろう。かえって嘘くさくなってしまうからだ。そういうことでは、ドラマ以上にドラマチックと言えるかもしれない。そう考えると、橋下大阪市長は、アカデミー賞の各部門賞を総なめするほどの類い希なる脚本家かつ役者であったと言えるかもしれない。

大阪都構想が住民投票で否決されたので橋下市長は任期が切れたら政治家を辞めると明言したということだが、あまりにもドラマチックなきわどい結果が何をもたらすことになるか注目したい。彼は辞めてもなおエンターテイナーであり続けることだろう。

ところで、反対票の70万5,585票と賛成票の69万4,844票をそれぞれ投票数全体の割合にすると、反対票は全体の50.383489630677456693627452730556%で、賛成票は全体の49.616510369322543306372547269444%である(これだけ多くの小数点以下の数字を並べるのは全くの遊びでしかないのであしからず)。その差は、なんと、0.766979261354905%ポイントにしかすぎない。多数決とはいえ、割合から言えば、無視できるほどの差しかない。

ブリタニカ国際大百科事典によれば、多数決原理とは、「集団でものを決めるときの決定ルールの一つで構成員の過半数の意見を集団の意思とする方法である」。この説明で肝心なところは、「構成員の過半数」と言う場合の「構成員」をどうとらえるかということである。

今回の住民投票に当てはめれば、「構成員」を20歳以上の大阪市民とすると、「構成員の過半数」は有権者210万4,076人の過半数だから105万2,039人となる。住民投票の結果は、賛成も反対も、その数には達していない。それでも、投票率は66.83%と比較的高かったから、まあ、有効投票数の過半数でも「構成員」全体を代表していると見なしてもよいだろうが、仮に有権者が一人残らず投票したとすると、どんな結果になっていただろう。

そこで、試しに計算してみた。こういう場合は、標本抽出の原理を応用することになる。

標本抽出(サンプリング)は、ある全体(これを母集団という)の中から標本(サンプル)を幾つか選んで、それらを調べることによって母集団全体のことを知ろうとするときに行われる。製品検査や世論調査で行われる手法であるが、大事なことは標本が無作為(ランダム)に選ばれていることである。

無作為と言っても、適当デタラメに選ぶことではなく、どの標本も選ばれる確率が等しくなるように選ぶ。要するにくじ引きである。歳末大売り出しの時なんかに見られるガラガラ回して当たり玉が出る抽選機での福引きや宝くじの抽選と同じである。当たる確率が誰にでも同じだと思うから福引きをし、宝くじを買うのである。当たる確率が等しくなかったり操作して偏りがあれば、それは如何様(イカサマ)であるから、誰も福引きをしたり宝くじを買ったりしなくなる。実験や調査で標本抽出する場合でも同じことが言える。

住民投票の場合は、世論調査で回答の対象者となった場合と同じように、投票をした人を抽選で当たった人と考えればよい。そうした人が無作為で選ばれたと言うことはできないので厳密性に欠けるが、210万4,076人の内の66.83%に当たる140万6,154人もの人が投票したので、標本数が多くなれば誤差は小さくなるということを頼りに先に進むことにしよう。

比率の誤差の推計と区間推定は次のような式で計算できる。


p は標本から得られた結果で、ここでは賛成50.38%や反対49.62%。ただし、式に入れるときには、0.5038や0.4962のようにする。
k は信頼係数と呼ばれるもので、5%とか1%、0.1%の誤差を見込むときには、それぞれ1.96や2.58、3.29にする。
N は母集団の規模で、ここでは有権者総数の210万4,076。
n は標本数で、ここでは有効投票数の140万429。
P は真の値。要するに、有権者210万4,076人が全員投票(投票率100%)したと仮定した場合の賛成や反対の割合。

上の式に、推計の誤差を5%として反対の割合について数値を代入した場合には以下のようになる。
 
計算すると以下のようになった。
0.503358937138526  < P < 0.504310855475022
同様にして、推計の誤差を1%(k を2.56)、0.1%(k を3.29)とした場合の結果は、それぞれ以下のようになった。
0.503208378626121 < P  < 0.504461413987427
0.503035964845786 < P  < 0.504633827767762
 
いずれの場合でも、50%を超える結果になった。賛成票についても同様に計算してみたが、50%を超えることはなかった。要するに、有権者が一人残らず投票していたとしても(投票率100%だったとしても)、反対票は、50%を(わずかではあるが)超えていただろう、ということである。ただし、投票率や賛成票と反対票の割合に世代差(年齢別の違い)が大きいとすれば、以上の推計結果が妥当かどうかは判断できない。そのことを検討するためには、選挙管理委員会がそれらの詳細なデータを公表することである。
 
橋下市長は、退任する前に、ぜひ、そのことを行い、住民投票の結果と意義を総括すべきであろう。おそらく、住民投票の実施のために莫大な費用を市の財源から支出したであろうから、反対されましたから潔く政治家を辞めます、などと子どもじみたパフォーマンスでお仕舞いにするのではなく、その支出を無駄にしないために、日頃の言動通りに政治家としての責任を全うしなくてはならないだろう。

2015年4月21日火曜日

「お疲れ様」、「お世話になっています」、「させていただきます」の乱用に違和感を覚える

いつ頃からか、ずっと若い人から「お疲れ様」と言われて違和感を覚えたが、学生でも教授に対して使うらしい。聞くところによると、とても丁寧な挨拶として、いまでは頻繁に使われるようだ。というより、そう教えられているようだ。メールの文頭に「お疲れ様です」と書かれてあって驚いたことがある。「お疲れ様」は何かが済んだときとか、別れ際に言う挨拶語ではないかと思うからだ。

誰に教わったのかは知らないが、昔は、というと年寄りの繰り言と言われそうだが、年長者に対して、「お疲れ様」や「お疲れ様でした」なんて言うことはなかった(と思う)。「御疲れ様」は、労(ろう)を労(ねぎら)う挨拶語として『広辞苑』にも出ているが、私の理解では、年長者が年少者や同輩に、よくやった、よく頑張った、ありがとう、という気持ちを込めて使う言葉ではないかと思う。

例えば、仕事を頑張ってこなして、上司に「もう、帰っていいよ」と言われた(り、言われなかったりした)ときに、「では、お先に失礼します」と言った返事に、上司が「あー、お疲れさん」とか「お疲れ様」と言うのであれば違和感はない。

仕事も大してできない若造にニコニコ顔で「お疲れ様」と言われれば、私なら、「ああ、お前のせいで、すっかり疲れてしまったわいな。お前が疲れるくらい仕事をしろよ」と言いたくなってしまう。部下や年少者から「お疲れ様」と言われて喜んでいる者や、そう挨拶されることを期待している者、そう挨拶しろと教えている者の気が知れない、と思うのは私だけだろうか。

では、挨拶の際に何と言えばいいのかと聞かれれば、別れ際には、「失礼します」とか「お先に失礼します」と言えばいいし、何かの仕事が一段落して上司や年長者に労いの言葉をかけるとしたら、「お疲れになったことでしょう」(と言って,その後に、「十分できなくてすみませんでした」と言えればもっといい)と言えばいい。感謝の気持ちがあるのなら、素直に「ありがとうございました」と言えばいい。飲み会の後で、青春真っ盛りのような若者に「お疲れ様でした」と言われたときには、すっかり酔いが覚めてしまったことがある。

ちなみに、「お疲れ様」を英語で言おうとすると難しい。インターネット上のWeblio翻訳でいろいろと試したところ、機械翻訳では、まっこと面白いことに、Dear Ms. fatigue. となった。たしかに、これは、名前が「お疲れ」の女性に向けた挨拶語になっている。このほかに、英語表現辞典では、Have a nice evening やHave a good evening、See you tomorrow というのもあった。「疲れる」に相当する英語が一字も入っていない。

「お疲れ様」の「様」をひらがなで「さま」として「お疲れさま」で翻訳させると、単に Thank you となった。うーん、そういうものか。「お疲れさまでした」とやると、なんと、この言葉の使い方についての次のような注釈付きの翻訳が出てきた。

•お疲れさまでした(上司が部下に対して「よい仕事をした」と褒める場合【ややカジュアルな表現】) Good job.
•お疲れさまでした(上司が部下に対して「よく働いてくれてありがとう」と伝える場合【やや丁寧な表現】) Thanks for your hard work.

年少者が年長者などに対して「お疲れ様」と言うことに違和感を覚えるのも、この注釈で合点がいくのではないだろうか。

「お世話になっています」も挨拶語として頻繁に使われるが、これも、使う場面によっては違和感を覚える。本当にお世話になっているのならともかく、そんなお世話をしたつもりもないのに、ましてや、初めての人にのっけから、「お世話になっています」と言われると、空々しくて嫌になる。個人的にではなく商売上であれば、企業どうしの関係として通常の挨拶語だろうが、同じ組織の中での連絡のやりとりの際にも、決まり文句のように「お世話になっています」とやられると、「えっ、お世話したっけ。あんた誰だっけ」と言いたくなる。

「何々させていただきます」とか「何々させていただきました」という言い方も乱用されていて違和感を覚える。「何々いたします」とか「何々します」、「何々することにいたしました」とか「何々しました」と言えばすむ場合でも(その方が自然なところを)、わざわざ「させていただきます」と言う。謙(へりくだ)って、とっても丁寧に言っているつもりなのかもしれないが、ちっとも、そんな感じがしない。かえって、慇懃無礼というか、ぎこちなさというか、軽いというか、私にはよい印象がない。

というわけで、「以上、一言申し述べさせていただきました」。

2015年4月17日金曜日

運転免許証の更新と献血に行ってきた

ウグイスが盛んに囀(さえず)っている春の一日、陽光を浴びながら“大古愛車”を駆って運転免許証の更新に行ってきた。前回の更新から早5年経った。期限までは1か月以上もあるが、思い立ったが吉日と、ふだんは何事も期限ぎりぎりになってしか着手しない私には珍しく早速出かけることにした。

自慢ではないが、これまでゴールド免許を手にしたことがない。今回も、更新通知の「更新時講習の区分」には「違反運転者講習(2時間)」とあった。「運転者の区分及び最終の違反等」の項目には、「指定場所不停止等」とあった。このブログの昨年(2014年)5月8日の記事で書いた交通違反のことだ。一時停止の標識を見落として罰金7千円を支払ったが、その前にも1回違反していたようだ。

ようだ、というのもおかしいが、記憶にあるのは、4年前だと思うが、右折禁止になって間もない所を新たに設置された標識に気がつかずに曲がってしまい、罰金7千円を課せられたことだ。そのときは、警察官が腕で大きく「✕」 を作って示してくれていたのだが、事故処理でもしているのかと思ってゆっくり進入していったところ、止められて、「教えたじゃないですか」と言われた。「えっ、ここ、いつも通っていましたよ」と言うと、「標識見えなかったですか」と聞かれたので、「えっ、あるんですか」と言うと、「こっちこっち」と言って、標識の所まで連れて行かれて、結局、罰金を支払う羽目になった。

そういう軽微な違反が2回以上なので「違反運転者」の烙印を押されたわけだ。おまけに、「優良運転者」や「一般運転者」よりも、講習時間が長く(30分→1時間→2時間)、免許証の有効期間が短く(5年→3年)、講習手数料も高い(500円→800円→1,350円)とあらゆる面で痛めつけられることになった。違反点数と罰金で十分に償(つぐな)っていると思うのだが、この仕打ちは、ちょっと残酷過剰ではないかと言いたくなる。

違反しておいて何を言うか、と言われそうだし、交通事故防止のためには、それくらいのことをしても足りない、と言われるかもしれない。反省が足りないと叱られるかもしれない。しかし、何となく腑に落ちない。

金曜日の午後であったためか、更新者が多くなかったので、駐車場も空いていたし、手続きもスムーズにいって、待ち時間がほとんどなかった。途中10分間の休憩を挟んだ2時間の講習では、交通違反と交通事故の話と交通事故の悲惨さをこれでもかこれでもかと見せるビデオの視聴であった。机に俯(うつぶ)せになって居眠りしていた若い女性が講師に腕のあたりをちょんちょんと突かれて起こされたが、講習の始まる前に、講習中に居眠りしたり、パソコンで仕事をしたり、本を読んだりするすることのないようにと注意をしていたのに、若い女性は、そのことも聞いていなかったみたいだ。講習に来ても注意義務違反を犯すのは、なんと度胸のいいことよ、と感心したり呆れたり。それに引き替え、母親と一緒に来ていた3~4歳の子は、講習中ずっとおとなしく倚子に座って話を聞いたりビデオを見ていたのには感心した。

古い免許証ももらって、出来上がった新しい免許証の写真と5年前の写真を見比べると、おー、年をとったな、と変わりように今さらながらに驚くというか、納得する。運転免許証は第一等の身分証明書になるから、というより、いまの私にとっては唯一の身分証明書であり、生きている証しだから、良く写っている写真が望ましいのだが、残念ながら、運転免許証の写真で良く写っているものはない。「実物そのままでしょ」と家族は言う。そんなことはないと意地を張っても詮無いことだが、「撮り直して下さい」という勇気もない(そうしたこと可能かどうか確かめたことはないが)。

毎回のことだが、今回も、講習終了後に献血ルームに車を走らせて献血をした。400ml。機会あるごとに献血するようになったのは、学生の頃、母親が大手術のために大量の輸血が必要になったときに、級友や級友の友人、先輩や後輩とその友人たち何十人もが献血をして献血手帳を大量に集めてくれて、献血の大切さを実感したからだ。その頃は、各自の献血手帳に記載された献血量を合計した量の血液を日赤から配分されたのではないかと記憶している。その後、献血をすることになったのは友人たちへの感謝の気持ちからだ。年齢制限まで献血を続けようと思っている。

献血ルームはとても綺麗で、飲み物やらアイスクリームやらが用意されていて、自由に飲める。献血台にはテレビも備えられていて、献血中と献血後の安静時間には飲み物を飲みながらがテレビを視聴できる。そんなに長い時間ではないが、退屈させない工夫がされている。終わるとお菓子をくれた。何か申し訳ない気もした。職員はとても丁寧に応対してくれるので、気持ちが良い。新しい免許証と献血カード(いつも忘れて毎回カードを作ってもらっている)を財布に入れて、さわやかな気分で帰途についた。

2015年3月10日火曜日

竹下亘復興大臣の冷酷非情な発言に怒り心頭

9日の朝日新聞朝刊一面に、竹下亘復興大臣の次のような発言が掲載されていた。

竹下亘復興相は8日、宮城県の村井嘉浩知事らに対し、全額を国が負担する東日本大震災の復興予算について、2016年度以降は自治体に負担を一部求める考えを示した。「被災した一人ひとり、さらに市町村も自立する強い意志を持ってほしい」と強調した。

読んでいて悲しくなってしまった。いや、悲しくなってはいけない。どうも日本人は(と言ってはいけないのだろうが)、怒り、猛り狂う(たけりくるう)べきところを悲しみや無念の情に転換してしまう性癖があるようだ。それを日本人の美徳かのように自他ともに認めてしまうところに、本気になって問題を解決できずに有耶無耶のままに先送りしてしまう原因があるように思える。そして、そこに日本の不幸があるように思えてならない。

被災者も被災自治体も、これまでの長い年月、一日も早く自立できるようにと懸命な努力をしてきたし、していることは多くの国民が知っている。にもかかわらず、「自立する強い意志を持ってほしい」とは、誰に向かって、何を根拠に言っているのか。

竹下復興相は、慶應義塾大学経済学部を卒業してNHK(日本放送協会)に入社し、6年間記者やキャスターとして働いたようだ。その間、記者の目、キャスターとしての見識を培ってきたことと推察する。そして、第三次小泉内閣では環境大臣政務官を務めているから、環境問題にも造詣が深いことだろう。にもかかわらず、被災地県の知事に面と向かって発せられた上のような発言は許しがたい暴言であり、政治家としてあるまじき行為であると言うべきだろう。

震災から早4年。被災地の現状が新聞各紙や各テレビ局、雑誌等で繰り返し報道、放映されている。それらに接すれば、被災者の心中は察してあまりあるという感慨を抱く人が多いことだろう。そして、一刻も早く生活が立て直ることを祈ることはあっても、「被災した一人ひとり、さらに市町村も自立する強い意志を持ってほしい」などと何も知らない人間が上から目線で説教じみた精神論を吐くようなことは決してしないだろうし、そうしたことが頭に浮かぶことさえないだろう。ましてや、政治の中枢にいて膨大な情報を得ているはずの人間なら、なおさらのことと、ふつうは思う。

今回の報道に接して、怒り心頭に達した人がどれくらいいるかはわからない。一面の記事ではあるが、それほど大きく取り上げられたわけではない。マスコミを賑わす失言やスキャンダルの類ではない。確信を持っての発言であるということでは、もっともっと大きな問題であると思うのだが。