舛添都知事に対して都議会の各会派が不信任決議案を提出することを決めたそうだ。これまでの経緯から言えば、ごく自然な流れだと思うが、この段階に至るまでの都議会議員や国会議員、そして、都庁の幹部職員の対応には解せないことが多い。
舛添都知事の国会議員在職中の政治資金不正使用や都知事になってからの公私混同疑惑など、すべてがマスメディアのスクープによって“暴露”されたものばかりであり、その後に続々と浮かんできた疑惑も、記者会見での質疑応答から広く知られることになったものばかりである。
都議会での審議で取り上げられた疑惑も、マスメディアによって既に国民が知っていることがほとんどで、議員は、ただそれらを議場であらためて“おさらい”しているだけである。言ってみれば、原作があって、それを基に脚本を用意し、議員それぞれがへたくそな演技を得意になって繰り広げているだけである。
片や質問を受けて立つ舛添都知事は、すでに原作を十分に読み込んでいるので、というよりは原作の作者であるから、出来の悪い脚本でへたくそな演技で迫ってきても痛くも痒(かゆ)くもない。脚本が、何度でも同じ答弁をするしかないように構成されているから、それに従っていればいいだけの話だ。
都議会議員や都庁の幹部職員、そして国会議員は、マスメディアが報じるまで疑惑の追及も是正もしてこなかったことを大いに恥じるべきである。政治家の不正行為の監視をマスメディアに一任していたり頼りっきりになっていたりするような現在の状況は異常だと認識しなければならないだろう。不正行為や疑惑の追及、それらの是正の過程と結果が、政治家や都庁の幹部職員からマスメディアに流されるのが健全な報道のスタイルではないだろうか。
有権者は、舛添都知事の不正行為を糾弾すると同時に、都議会議員や都庁幹部が舛添都知事の不正行為をいち早く是正しえなかった/してこなかったことに対して異議申し立てをすべきであろう。そして、ワイドショーで熱弁を振るうレギュラーやゲストも、それほどまでに問題を深刻に捉えて、確信に満ちた論評をするのであれば、なぜ告発をしないのか、とても不思議である。
辞職を迫る都議会議員に対して、舛添都知事は、いま辞職すれば、知事選や都議会議員選がリオ五輪開催期間にぶつかるので都合が悪いから不信任決議案の提出を9月議会まで待つよう涙ながらに訴えたということだ。こんなへ理屈を堂々と口にするのは、もはや尋常な精神状態ではないのかもしれない。テニスやサッカーの世界大会が開催中だからといって、アメリカの大統領選の時期をずらしたなどという話は聞いたことがない。
それと不思議に思うのは、副知事という役職である。知事が任期途中で辞任したり失職した場合には、残余期間を副知事が代理で職務を務めることができるようにすればいいことだ。そうすれば、選挙費用も削減できる。議会がしっかりしていれば、知事だろうと副知事だろうと、政策を遂行していく上では何の支障もないだろう。
2016年6月14日火曜日
2016年6月9日木曜日
舛添東京都知事をめぐる茶番劇にはシェイクスピアも脱帽か
日本人が、これほど寄って集(たか)って茶番劇を盛り上げることができるとは、シェイクスピアも感心しきりではないだろうか。
知事の一連の行為は法律上はセーフだという。そして、専門家も素人も、“うん、そうなんだ”と、そのことを素直というかあっさりと納得した上で、道義的に許されないとか、人間性が疑われるとか、セコいとかケチとか、もはや政治の世界の出来事でも法律や制度の問題でもないかのようなお喋(しゃべ)りで盛り上がっている。
悪い奴だとか人間として許されないとか、そんなことなら私だって幾らでも言える、とばかりに、誰も彼もがお喋りの仲間入りをしている。あいつは悪い奴だ、そんなことやって人間として失格だ等々、全国民こぞって(といえるくらい)人格攻撃の嵐が吹きまくっている。
その嵐をまともに受けている舛添知事はと言えば、これも奇妙奇天烈な“第三者による厳密な調査”によって一連の行為は法的な違反行為には当たらないことを“証明”したにもかかわらず、口汚く罵(ののし)られても、名誉毀損で訴えるわけでもなく、“神妙な態度”で反省の弁を繰り返し、心を入れ替えて知事の仕事を続ける“決意”を表明し続けている。
お見事というか、鉄面皮というか、蛙の面に小便そのままに、まさに千両役者ならぬ三文役者を演じている。そして、このときとばかりにベテラン、新人とり混ぜて、まさに有象無象(と言っては失礼か)が大挙して登場し(登場させられ、と言った方が正確か)、これまた絶妙な脇役として主人公の演技を大いに引き立てている。
アメリカでは大統領選が酣(たけなわ)であるが、話題づくりということでは、舛添知事はトランプ候補に負けず劣らずである。
テレビを通じて政治家の不正行為をめぐる騒動が、司会者やコメンテーターの茶化した物言(ものい)いで国民におもしろおかしく伝えられてエンターテイメントに化している。誰でもがコメント可能なように話が進められるので、茶飲み話が延々と続く。そんな番組に大金を払うスポンサーも太っ腹と感心する。
いたずらに時間を費やすということでは、都議会議員も同じだ。地方議員とは言え、一応は政治家の端(はし)くれという自覚もないのか、知性も政治的感覚のかけらも感じさせない演説を入れ替わり立ち替わり繰り広げている。辞任しろとはいうものの、辞任に追い込むだけの方策を用意しているわけではない。だから、舛添知事にとっては痛くもかゆくもない。聞き流しておいて、“ごめんよ、そんなに言うなら、これからは文句が付けられないようにするから、勘弁してよ。なんなら、知事の給料の一部を削減するからさ~”と嵐が過ぎ去るのを待っている。
長い間、舛添知事が行っていたことを、都議会も都庁も辞めさせることができなかったのはどうしてだ、というところに目が向けられていない。江戸時代の悪代官よろしく、私利私欲にまみれて一人で好き勝手にできる時代ではないから、“協力者”や“同調者”、同じように甘い汁を吸っていた連中が少なくなかったことだろう。要するに、組織ぐるみでなければできないようなことをやっているということだ。その連中は、いま、ヒヤヒヤもんだろう。いつ、矛先が向けられる心配で、ひょっとすると、飯も喉を通らないかもしれない。もっとも、そういう連中は図太いだろうから、平気の平左を決め込んでいるのかもしれない。
一度やってみて味を占めたら止まらなかったんだろう。周(まわ)りにいるのは、咎(とが)めるどころか好き放題にさせてくれる物わかりのよい連中で、舛添知事は、その連中を理解のある大事なお仲間と思っていたことだろう。だから、知事職っていうのはなんて楽しい仕事なんだろうと毎日をウキウキした気分で過ごしていたにちがいない。
“あっ、その費用は政治資金でまかなえますよ”とか、“公用車はいつでもどんどん使って下さい。運転手も手当が増えて喜ぶでしょうから”とかなんとか言って、知事のご機嫌をとる太鼓持ちのような取り巻きの官僚がいたことだろう。舛添氏は、都庁の上級役人にとっては、とても御(ぎょ)しやすい知事なのであろう。
遊びに惚(ほう)けさせていればご機嫌で何でも言うことを聞くのだから、無用の外国出張も、航空機のファーストクラスも、高額な宿泊費も、自腹が痛むわけではないので、好きにさせておけばいいと思っていたことだろう。
政治家と金をめぐる問題は止むことがない。政治の世界は利権の温床である。政治家としての資質の問題でもあるが、それを見抜けずに選んでいる有権者にも大いに責任があるというべきだろう。茶番劇を面白がって観劇している場合ではない。
2016年6月4日土曜日
消費税の増税再延期に対する反応やコメントに日本人の政治感覚を疑う
安倍首相が消費税を8%から10%に引き上げることを再延期したことに対して様々なことが言われているが、奇妙に思えることは、再延期が公約違反だと批判して、あたかも消費税を引き上げるべきだというような論調が多いことだ。テレビが放映した街頭インタビューでも、記者がそう仕向けたかのように、公約違反への批判めいた意見や感想ばかりが目立った。
たしかに、野田政権時代に、税と社会保障の一体改革をスローガンに、民主党と自民党が合意して消費税の段階的引き上げを決めた。しかし、消費税を5%から8%に引き上げて税収を増加させたことが、社会保障の充実へ向けた何らかの政策的効果をもたらしただろうか。その間に、年金は減額され、保育所の待機児童や保育士の待遇をめぐる問題は一向に改善されないなど、消費税増税が社会保障政策に何ら反映されることなく今日まで来ている。
その一方で、東京五輪の準備に向けてのお祭り騒ぎと競技場建設に国家予算を湯水のように使い、防衛費を増額し、毎年実施する必要もない全国学力テストや効果が無いままにダラダラと続けている少子化対策に多額の予算を投じている。財政健全化を図るといいながら、有効な手段を案出することもなく、赤字国債を発行し続けている。パナマ文書が暴露した課税逃れについても口をつぐんだままである。
すべてを社会保障費の膨張の所為(せい)にして消費税増税を進めている。たしかに、高齢化が進んで社会保障関連の政策に必要な費用は増大し続けているが、他方では、何の工夫もなく相変わらず効果の乏しい政策に膨大な予算を投じ続けている。財政健全化に本気になって取り組んでいるとは到底思えない。まずは、何でもかんでも社会保障費の膨張にして増税ありきのような子どもじみた財政政策を止めて、少子高齢・人口減少社会に対応した構造改革について政治家全員が本気になって考え、実行することである。それでこそ、真の政治家と言える。そして、国民は、そうしたことを真剣に訴えなければならないだろう。
所得税や消費税など、様々な税金が徴収されているが、国民にとっては税金は安いほどよいし、できれば税金などは無いに越したことはない。しかし、石油産油国のように、国家が莫大な収益を上げうる事業ができればそれも可能だが、そんなことは日本では望み得ない(ひょっとすると可能かもしれないが)。
税金は払うしかないが、払う側としては、納得して払いたい。バカな政治家や官僚が、どうせ自分の金ではないのだからとでも言うように、好き勝手に無駄遣いしているのでは我慢ができないのである。
たしかに、野田政権時代に、税と社会保障の一体改革をスローガンに、民主党と自民党が合意して消費税の段階的引き上げを決めた。しかし、消費税を5%から8%に引き上げて税収を増加させたことが、社会保障の充実へ向けた何らかの政策的効果をもたらしただろうか。その間に、年金は減額され、保育所の待機児童や保育士の待遇をめぐる問題は一向に改善されないなど、消費税増税が社会保障政策に何ら反映されることなく今日まで来ている。
その一方で、東京五輪の準備に向けてのお祭り騒ぎと競技場建設に国家予算を湯水のように使い、防衛費を増額し、毎年実施する必要もない全国学力テストや効果が無いままにダラダラと続けている少子化対策に多額の予算を投じている。財政健全化を図るといいながら、有効な手段を案出することもなく、赤字国債を発行し続けている。パナマ文書が暴露した課税逃れについても口をつぐんだままである。
すべてを社会保障費の膨張の所為(せい)にして消費税増税を進めている。たしかに、高齢化が進んで社会保障関連の政策に必要な費用は増大し続けているが、他方では、何の工夫もなく相変わらず効果の乏しい政策に膨大な予算を投じ続けている。財政健全化に本気になって取り組んでいるとは到底思えない。まずは、何でもかんでも社会保障費の膨張にして増税ありきのような子どもじみた財政政策を止めて、少子高齢・人口減少社会に対応した構造改革について政治家全員が本気になって考え、実行することである。それでこそ、真の政治家と言える。そして、国民は、そうしたことを真剣に訴えなければならないだろう。
所得税や消費税など、様々な税金が徴収されているが、国民にとっては税金は安いほどよいし、できれば税金などは無いに越したことはない。しかし、石油産油国のように、国家が莫大な収益を上げうる事業ができればそれも可能だが、そんなことは日本では望み得ない(ひょっとすると可能かもしれないが)。
税金は払うしかないが、払う側としては、納得して払いたい。バカな政治家や官僚が、どうせ自分の金ではないのだからとでも言うように、好き勝手に無駄遣いしているのでは我慢ができないのである。
2016年5月31日火曜日
羽生名人が失冠してしまい残念
第74期将棋名人戦で、羽生名人(45歳)が佐藤天彦八段(28歳)に負けて名人位を失った。羽生ファンの私にとって、実に残念なことである。1勝3敗で迎えた第5局は、将棋ソフトによる検討では、終盤になっても互角の評価が示し続けられたほど緊迫した勝負であった。
終盤入り口では僅差ながら先手の羽生名人が有利とする評価値が出ていたが、佐藤挑戦者は終始一貫して無理のない的確な攻防手に攻めの糸口も見いだせないままに投了に追い込まれてしまった。
これで、羽生さんは、棋聖、王位、王座の三冠に後退した。三冠でも、途轍もなく凄いことだが、防衛すれば名人10期目となって、さらに連覇をと期待していただけに、残念至極である。
羽生さんが名人位を獲得したのが23歳の時だから、佐藤天彦八段が28歳で名人位を奪取したことも驚くことではないが、正直言って、どちらが名人位が似合うかと言えば、はやり羽生さん、と言いたいところである。
でも、熱烈な将棋ファンである私は、佐藤八段が圧勝で名人位を獲得したことを快挙として素直に祝福したいと思う。
将棋界の世代交代には興味がひかれる。名人位をはじめ将棋のいずれかのタイトルをとった棋士も、年齢が上がるにつれて勝てなくなり、下のクラスに落ちていき、再度復活するのが難しくなる。
かつて「神武以来の天才」と呼ばれ、名人位ほかのタイトルを獲得し、多くの棋戦で優勝経験のあるA級在位36期を誇る加藤一二三九段(76歳)は、いまはC級2組で、前年度は10戦全敗である。その加藤九段は、最盛期よりも弱くなったとは思っていない、というようなことを言っていた。
自分より他の人が強くなったのが勝てない理由ということだが、長い期間、加藤九段の成績は下降傾向で推移してきた。これは、加藤九段の力では勝てないほどに強い棋士が多くなったのか、加藤九段が明らかに弱くなったことなのか、興味あるところである。では、羽生さんはどうなのか。いずれ、何かの形で論じてみたいと思っている。
終盤入り口では僅差ながら先手の羽生名人が有利とする評価値が出ていたが、佐藤挑戦者は終始一貫して無理のない的確な攻防手に攻めの糸口も見いだせないままに投了に追い込まれてしまった。
これで、羽生さんは、棋聖、王位、王座の三冠に後退した。三冠でも、途轍もなく凄いことだが、防衛すれば名人10期目となって、さらに連覇をと期待していただけに、残念至極である。
羽生さんが名人位を獲得したのが23歳の時だから、佐藤天彦八段が28歳で名人位を奪取したことも驚くことではないが、正直言って、どちらが名人位が似合うかと言えば、はやり羽生さん、と言いたいところである。
でも、熱烈な将棋ファンである私は、佐藤八段が圧勝で名人位を獲得したことを快挙として素直に祝福したいと思う。
将棋界の世代交代には興味がひかれる。名人位をはじめ将棋のいずれかのタイトルをとった棋士も、年齢が上がるにつれて勝てなくなり、下のクラスに落ちていき、再度復活するのが難しくなる。
かつて「神武以来の天才」と呼ばれ、名人位ほかのタイトルを獲得し、多くの棋戦で優勝経験のあるA級在位36期を誇る加藤一二三九段(76歳)は、いまはC級2組で、前年度は10戦全敗である。その加藤九段は、最盛期よりも弱くなったとは思っていない、というようなことを言っていた。
自分より他の人が強くなったのが勝てない理由ということだが、長い期間、加藤九段の成績は下降傾向で推移してきた。これは、加藤九段の力では勝てないほどに強い棋士が多くなったのか、加藤九段が明らかに弱くなったことなのか、興味あるところである。では、羽生さんはどうなのか。いずれ、何かの形で論じてみたいと思っている。
2016年4月20日水曜日
三菱自動車の燃費データ不正は何を教えているか
三菱自動車が不正な燃費データで顧客をだましていたことが発覚した。報道によれば、不正の手口は、タイヤの路面抵抗や空気抵抗などを表す走行抵抗値を燃費が良くなるように改竄(かいざん)して、実際の燃費試験値よりも5~10%高くしたそうだ。カタログ燃費がリッター30㎞だったとすると、実際には、29.70297㎞~29.85075㎞ということになる。なんだか、燃費が向上したようにはちっとも思えないが。
実際の試験燃費と改竄した燃費にそんな小さな差しかないのに、こんなに大きな問題になってしまうことの方が恐ろしい気がする。もちろん、不正なデータでウソをつくことは許されないが、この問題の背景には、凄まじい燃費競争がある。低燃費にこしたことはないが、現在の燃費競争は、小数点以下の数値で行われている。
自動車をよく運転している人は、カタログに記載されている燃費は実際の燃費と大きく異なることを知っている。そして、運転の仕方やタイヤの空気圧、車載物の重量で燃費が大きく変わることもよく知っている。コンマいくつかの燃費の差などは、そうしたことで消し飛んでしまう。
しかし、自動車メーカーは、数字に表される燃費で勝負している。おそらく、開発者たちには、コンマいくつかでも試験燃費を向上させるようにすごいプレッシャーがかけられていたのではないかと思う。考えようによっては、悲しい出来事と言うべきかもしれない。
エコカー・ブームを作ったのは自動車メーカーではなくて国=時の政府である。国土交通省の「自動車燃費目標基準について」というウェブページによれば、1979年以降、以下のように、燃費基準が策定され続けてきている。そして、その過程で、エコカー減税やなんやらで低燃費車を優遇する一方で、燃費基準に達していない古い車には自動車税を上げるという制裁を課してきた。
1979年 6月: エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)制定
1979年12月: ガソリン乗用自動車の燃費基準の策定 (1985年度目標)
1993年 1月: ガソリン乗用自動車の燃費基準の改正 (2000年度目標)
1996年 3月: ガソリン貨物自動車の燃費基準の策定 (2003年度目標)
1998年 6月: 省エネ法改正・・・「トップランナー基準」の考え方の導入
1999年 3月: 乗用車、小型貨物車のトップランナー基準の策定 (ガソリン車は2010年度目標、 ディーゼル車は2005年度目標)
2003年 7月: LPガス乗用車のトップランナー基準の策定 (2010年度目標)
2006年 3月: 重量車(トラック、バス等)のトップランナー基準の策定 (2015年度目標)
2007年 7月: 乗用車、小型バス、小型貨物車のトップランナー基準の策定 (2015年度目標)
2013年 3月: 乗用車、小型バスのトップランナー基準の策定(2020年度目標)
2015年 7月: 小型貨物車のトップランナー基準の策定(2022年度目標)
かつてに比べて自動車の燃費は格段に向上してきたことは確かであり、プリウスに代表されるハイブリッド車やマツダのスカイアクティブの技術は、素直にすごいと思う。軽自動車はもともと普通車や大型車に比べて遙かに低燃費であったが、さらに燃費を向上させるために新技術を次々に開発してきた。これも、また、驚嘆に値する。
しかし、コンマいくつかの燃費向上で販売競争をすることから生じた今回の試験燃費データの改竄事件は、自動車メーカーもユーザーも、自動車の燃費について、色々と考え直す必要があることを教えているのではないだろうか。
三菱製の自動車は好きだった。かつて、スーパーシフトと呼ばれた副変速機を備えたマニュアルミッションのミラージュ(黄色の3ドアハッチバック)に乗っていた。チェンジレバーが2つあって、8速という優れもので、ガンガン走った。軽自動車のミニカ(白色)にも乗っていたことがある。これは、主に妻が使用していた。パワーステアリングが電動式で、長年乗っていたらパワステが時々効かなくなったりして修理に出したこともあるが、近くの修理工場では手に負えなかったことが懐かしい思い出だ。
実際の試験燃費と改竄した燃費にそんな小さな差しかないのに、こんなに大きな問題になってしまうことの方が恐ろしい気がする。もちろん、不正なデータでウソをつくことは許されないが、この問題の背景には、凄まじい燃費競争がある。低燃費にこしたことはないが、現在の燃費競争は、小数点以下の数値で行われている。
自動車をよく運転している人は、カタログに記載されている燃費は実際の燃費と大きく異なることを知っている。そして、運転の仕方やタイヤの空気圧、車載物の重量で燃費が大きく変わることもよく知っている。コンマいくつかの燃費の差などは、そうしたことで消し飛んでしまう。
しかし、自動車メーカーは、数字に表される燃費で勝負している。おそらく、開発者たちには、コンマいくつかでも試験燃費を向上させるようにすごいプレッシャーがかけられていたのではないかと思う。考えようによっては、悲しい出来事と言うべきかもしれない。
エコカー・ブームを作ったのは自動車メーカーではなくて国=時の政府である。国土交通省の「自動車燃費目標基準について」というウェブページによれば、1979年以降、以下のように、燃費基準が策定され続けてきている。そして、その過程で、エコカー減税やなんやらで低燃費車を優遇する一方で、燃費基準に達していない古い車には自動車税を上げるという制裁を課してきた。
1979年 6月: エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)制定
1979年12月: ガソリン乗用自動車の燃費基準の策定 (1985年度目標)
1993年 1月: ガソリン乗用自動車の燃費基準の改正 (2000年度目標)
1996年 3月: ガソリン貨物自動車の燃費基準の策定 (2003年度目標)
1998年 6月: 省エネ法改正・・・「トップランナー基準」の考え方の導入
1999年 3月: 乗用車、小型貨物車のトップランナー基準の策定 (ガソリン車は2010年度目標、 ディーゼル車は2005年度目標)
2003年 7月: LPガス乗用車のトップランナー基準の策定 (2010年度目標)
2006年 3月: 重量車(トラック、バス等)のトップランナー基準の策定 (2015年度目標)
2007年 7月: 乗用車、小型バス、小型貨物車のトップランナー基準の策定 (2015年度目標)
2013年 3月: 乗用車、小型バスのトップランナー基準の策定(2020年度目標)
2015年 7月: 小型貨物車のトップランナー基準の策定(2022年度目標)
かつてに比べて自動車の燃費は格段に向上してきたことは確かであり、プリウスに代表されるハイブリッド車やマツダのスカイアクティブの技術は、素直にすごいと思う。軽自動車はもともと普通車や大型車に比べて遙かに低燃費であったが、さらに燃費を向上させるために新技術を次々に開発してきた。これも、また、驚嘆に値する。
しかし、コンマいくつかの燃費向上で販売競争をすることから生じた今回の試験燃費データの改竄事件は、自動車メーカーもユーザーも、自動車の燃費について、色々と考え直す必要があることを教えているのではないだろうか。
三菱製の自動車は好きだった。かつて、スーパーシフトと呼ばれた副変速機を備えたマニュアルミッションのミラージュ(黄色の3ドアハッチバック)に乗っていた。チェンジレバーが2つあって、8速という優れもので、ガンガン走った。軽自動車のミニカ(白色)にも乗っていたことがある。これは、主に妻が使用していた。パワーステアリングが電動式で、長年乗っていたらパワステが時々効かなくなったりして修理に出したこともあるが、近くの修理工場では手に負えなかったことが懐かしい思い出だ。
2016年4月17日日曜日
熊本を中心とする大地震からの一刻も早い災害復旧を
まさか熊本で、と思った人も少なくないだろう。テレビで震度7の大地震の発生が報じられたとき、
熊本で地震が発生するようなことを今まで聞いたことがなかったのに、と思った。亡くなられた方と親族や関係者に心からお悔やみ申し上げるとともに、家を失ったり避難されている方には一刻も早く平穏な日常生活が戻ることを祈るばかりである。
大地震の報に接したときにすぐさま思い出したことは、安倍首相が消費税引き上げの議論の中で、“リーマンショックや東日本大震災のような異変が生じない限り、予定通りに消費税を10%にする”と何回も“力強く”口にしていたことだ。それを聞いたときには、なんて変なことを言うのか、どういう意味なのか、消費税とりーマンショックや東日本大震災がどういう関係にあるのかと訝(いぶか)しく思った。そして、リーマンショックや東日本大震災のために大変に辛い、苦しい、悲しい思いをした人々がたくさんいるにもかかわらず、そうしたことに思いを馳(は)せることなく、りーマンショックや東日本大震災を異変の例として得意げに取り上げる安倍首相の無神経さと知性のなさに、一国の首相の発言かと、ほとほと呆(あき)れるやら腹立たしく思うやら、情けなくなってしまった。
まさか、安倍首相が熊本の地震を予測していたわけではないだろうが、全く以て(まったくもって)奇妙でゾッとする。よもや消費税引き上げを延期する口実にするようなバカげたことを口にすることはないだろうが、これまた首をかしげざるを得ないようなことが報道された。オスプレイを災害復旧に利用するという案が検討されていることを管官房長官が話したそうだ。オスプレイの配備は有耶無耶のうちに既成事実化しているが、これを機会にさらにオスプレイの“有効性”を印象づけようとしていることが見え見えである。これほど露骨に災害をも政治に利用しようとするのが現在の内閣であるということなのか。
地震は恐ろしい。いつ、どこで発生するか、現在の高度に発展した科学でも正確な予測は困難である。50年以内にどこそこで大地震が発生する確率が何%と言われても、それが研究の成果としては評価されるかもしれないが、その成果が防災に直結しているとは誰も感じてはいないだろう。いつ、どこで、どの程度の規模の地震が発生するかは永遠に予測できないことではないだろうか。
地震が起きるたびに地震学者がマスコミに登場するが、そのときの地震発生のメカニズムについての説明と余震への注意を促すばかりである。いわゆる後追いであり、結果の説明にすぎない。
一目で災害の危険があるとわかるところに建っている老朽家屋で今日なお大勢の人々が住んでいる。家屋の倒壊で亡くなられた方には、そうした家屋に住むお年寄りが多い。なぜか。経済的事情で住宅の補修や安全なところに移転することができないからである。阪神大震災でも老朽家屋の倒壊で多くのお年寄りが亡くなった。
地震予知に膨大な国家予算がつぎ込まれているというが、その予算と防災対策や災害救助、復旧のための予算とを勘案したときに、いずれが有意義かを一考することが必要ではないだろうか。
熊本で地震が発生するようなことを今まで聞いたことがなかったのに、と思った。亡くなられた方と親族や関係者に心からお悔やみ申し上げるとともに、家を失ったり避難されている方には一刻も早く平穏な日常生活が戻ることを祈るばかりである。
大地震の報に接したときにすぐさま思い出したことは、安倍首相が消費税引き上げの議論の中で、“リーマンショックや東日本大震災のような異変が生じない限り、予定通りに消費税を10%にする”と何回も“力強く”口にしていたことだ。それを聞いたときには、なんて変なことを言うのか、どういう意味なのか、消費税とりーマンショックや東日本大震災がどういう関係にあるのかと訝(いぶか)しく思った。そして、リーマンショックや東日本大震災のために大変に辛い、苦しい、悲しい思いをした人々がたくさんいるにもかかわらず、そうしたことに思いを馳(は)せることなく、りーマンショックや東日本大震災を異変の例として得意げに取り上げる安倍首相の無神経さと知性のなさに、一国の首相の発言かと、ほとほと呆(あき)れるやら腹立たしく思うやら、情けなくなってしまった。
まさか、安倍首相が熊本の地震を予測していたわけではないだろうが、全く以て(まったくもって)奇妙でゾッとする。よもや消費税引き上げを延期する口実にするようなバカげたことを口にすることはないだろうが、これまた首をかしげざるを得ないようなことが報道された。オスプレイを災害復旧に利用するという案が検討されていることを管官房長官が話したそうだ。オスプレイの配備は有耶無耶のうちに既成事実化しているが、これを機会にさらにオスプレイの“有効性”を印象づけようとしていることが見え見えである。これほど露骨に災害をも政治に利用しようとするのが現在の内閣であるということなのか。
地震は恐ろしい。いつ、どこで発生するか、現在の高度に発展した科学でも正確な予測は困難である。50年以内にどこそこで大地震が発生する確率が何%と言われても、それが研究の成果としては評価されるかもしれないが、その成果が防災に直結しているとは誰も感じてはいないだろう。いつ、どこで、どの程度の規模の地震が発生するかは永遠に予測できないことではないだろうか。
地震が起きるたびに地震学者がマスコミに登場するが、そのときの地震発生のメカニズムについての説明と余震への注意を促すばかりである。いわゆる後追いであり、結果の説明にすぎない。
一目で災害の危険があるとわかるところに建っている老朽家屋で今日なお大勢の人々が住んでいる。家屋の倒壊で亡くなられた方には、そうした家屋に住むお年寄りが多い。なぜか。経済的事情で住宅の補修や安全なところに移転することができないからである。阪神大震災でも老朽家屋の倒壊で多くのお年寄りが亡くなった。
地震予知に膨大な国家予算がつぎ込まれているというが、その予算と防災対策や災害救助、復旧のための予算とを勘案したときに、いずれが有意義かを一考することが必要ではないだろうか。
2016年3月11日金曜日
東日本大震災から5年を経てもまだ復興が道半ばなのはなぜか
甚大な被害をもたらした東日本大震災から5年を経た。しかし、復興は、なお、道半(みちなか)ばである。
報道によれば、「避難生活を送る人はなお17万人以上に上り、恒久的な住まいの一つ、災害公営住宅の完成は被災3県でまだ半分にとどまる。政府が決めた集中復興期間は3月末で終わるが、被災地が日常を取り戻すのは遠い」(朝日新聞3月11日朝刊)。
これも報道によれば、これまでの5年間で26.3兆円が復興費に費やされた。そのうちの10.5兆円は復興増税によるものである。この復興増税は2013年から始まり、所得税と個人住民税、法人税がそれぞれ2.1%上乗せされ、2037年まで続く。ただし、法人税に限っては安倍政権の下で2014年までの2年間で打ち切られた。経済成長を促進するためだという理由からである。
復興増税は2037年まで続くが、復興庁の設置期限は2021年3月までで、それまでに復興・創生期間が終了する予定になっている。その間の2020年に、東京オリンピックの開催が予定されている。よくわからない復興計画である。
復興予算に関しは復興庁のホームページに詳細が掲載されているが、とても複雑で、素人にはよくわからない。それらの中から、復興関連予算の過去の執行状況と復興庁の平成28年度予算の概括表をここに掲げておく。
国家予算の使い道に関しては、その道の専門家に聞きたいところだが、これまでに目的外使用や不適正処理が何回か報道された。それにしても、これだけ巨額の予算を費やしているにも関わらず、復興が道半ばで、苦しんでいる被災者がなお多いというのは、たしかに被害の規模は大きかったとしても、復興政策に問題があるといわざるを得ないだろう。どう考えても、本気になって真剣に復興優先の政策を進めているとは思えない。
工学的技術や社会的技術は日進月歩であり、災害復旧にもそれらを総動員することによって、かつてよりは遙かに迅速で効果的な復興が可能なはずである。それができないのは、ひとえにそれらを正しく活用できない/しようとしないで愚策ばかりを弄する輩が莫大な予算を浪費しているからだ。そこには、国民に優しくない政府がある。
東日本大震災の主因は巨大津波だが、迅速な復興を妨げている大きな要因が原発事故であることは論を俟(ま)たない。表1には、「原子力災害からの復興・再生」のための予算が3兆6,952億円が当てられている。表2では、平成28年度には、そのための予算として1兆167億円が計上されている。常識的に考えれば、原発事故が起きていなければ、それだけの予算を生活と生産の復興に集中投入できたら、と被災者のことに思いを寄せる者ならば誰でもが悔しくなるだろう。
なぜ、津波による被害をふせげなかったのか、なぜ、原発事故は防げなかったのか、ということに関する議論はこれまでに繰り返されてきた。そして、そうした議論の中で、しばしば、「想定を超える」とか「想定外の」という表現が使われてきた。これらの表現が用いられるときには、「誰にも責任がない」ことを暗に主張している。
たしかに、自然界のみならず人間界においても、人智を越える事象が生じることは少なくない。しかし、である。少し考えてみれば、人智を超える事象が生じることがある、というのは、人智を超える事象が生じることがあることを想定していることでもある。
人間の素晴らしさは、ある事象の発生を予測でき、それに対処することができることだけではない。いくら精緻で厳密な検討をしても、なお予測不可能なことが生じることがある、ということを想定できる能力を持っていることである。
だから、想定外だから、想定を超えることだからといって、責任を免れたり、責任を問うことをしないことは許されることではない、ということだ。その件に携わって、どのような形にせよ有形無形の報酬を受けてきた者は、想定外とされた事象によって被害が生じた場合にこそキッチリと責任をとらなければならないだろうし、その事象について発言する者は、誰が/どういう立場の者が責任をとるべきかを明確にし、「知らぬ顔の半兵衛をきめこむ」輩を厳しく追及すべきである。
ベーコンの言葉として「智は力なり」は有名である(諸説はあるが)。自然を正しく理解する知識を得れば自然(の猛威)を制御できる、という趣旨の言葉として私は理解してきたが、制御できないことをすることを制御することも人間の知恵である。やろうと思えばできるだろうが、それをやることによって生じる悲惨な/取り返しのつかない結末を考えて、やらない、ということだ。そんなことは誰でもがふつうにそうしている。敢えてやろうとすることを一般に冒険という。冒険家は、普通の人ができないことをやる人ではなくて、普通の人ならやろうと思えばできるけどやらないことをやる人のことをいう。
人間は、できること(可能なこと)はやりたいという欲求に衝き動かされる動物である。たしか、同じようなことを、エーリッヒ・フロムが『希望の革命』の中で述べていて、学生時代に読んだときに、自分だけの思い込みではなかったことに驚きと嬉しさを感じたものだ。科学技術の進歩は、そうした欲求を充(み)たし続けてきた過程でもある。その成果は、豊かで便利な生活と取り返しのつかない悲惨-幸福と不幸-の両方を人類にもたらしてきた。前者は、経済を発展させてきた生産技術であり、それによって生み出された様々な新商品である。後者は、公害病であり、核爆弾(原子爆弾:原爆)に代表される兵器である。
人間は経験から学ぶ、と言われている。しかし、経験から学ぶだけならば、犬猫でもできる。経験から学ぶことは動物一般に備わった能力なのだろう。人間は、経験から学ぶだけではなく、経験したこともないことを想像力(イマジネーション)-人間固有の能力だと私は思っている-を働かせて、それまでは見たことも聞いたこともないものを作り出したり、将来を見通したりすることができる。
ところが、始末が悪いことに、人間は、想像力を膨らましすぎて経験から学んだことを反故(ほご)
にしてしまうことがある。こうなると犬猫以下で、経験から何も学ばなかったと同じになる。「羮(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ではなく、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」になってしまう。
原子力発電も核爆弾も核分裂で生じるエネルギーを利用するということでは同じ原理に従っている。異なるところは、原子力発電は核分裂で生じるエネルギーの大きさを制御しながら利用するのに対して、核爆弾は制御することなくエネルギーを最大限に発揮させようとするところにある。要するに、核エネルギーを制御できる技術を開発できたことが原子力発電の開発を可能にしたということだ。
しかし、東日本大震災の際に生じた福島原発の事故と、その後の対応が教えていることは、原子力発電は、現在の技術では-ということは人間の力では-制御しきれない多くの問題を抱えているということだ。良心的な科学者、技術者であれば、そのことは重々理解しているはずである。そうでなければ似非科学者、似非技術者であろう。あるいは思想を持たない犬猫同然の動物に過ぎない。技術者は思想を技術で表現する、と言った学者がいた。誰だか忘れたが、昔に何かの本で読んだ記憶がある。
原子力発電は、綱渡り的なきわどい冒険と言えるかもしれない。その人個人が自分の欲求を充足するために、他人には何の被害を与えることなく自分の責任でことを処理できるのであれば、冒険は勇気ある行為として賞賛されてもよいだろう。
しかし、今回の原発事故のように、多くの人に被害と迷惑をもたらしたあげくに、いまだに事故処理に手間取っていて、いつ処理が終わるかもわからないままに膨大な国家予算を浪費続けているのは、冒険ではなくて明らかに犯罪である。にもかかわらず、誰も自ら責任を取ろうとしないし、責任の所在を明らかにしようとさえしない。
そればかりではない。原発再稼働が着々と進められている。直近の経験から学ぼうとしないし、想像力も働かせることなく、被害は他人事(ひとごと)とばかりに、あの手この手で言い繕いながら、大仕掛けの手品よろしく制御できないことを制御できるふりをして事を進めている。如何様師も面目丸つぶれであろう。
原子力の安全神話は崩壊した。国民はだまされ続けてきたが、まだ、だまし続けることができると高を括っている。だが、本当に恐ろしいことは、制御できないことを知りながら、科学者、技術者が自分をだまし続けながら原子力発電の安全性を口にすることである。
報道によれば、「避難生活を送る人はなお17万人以上に上り、恒久的な住まいの一つ、災害公営住宅の完成は被災3県でまだ半分にとどまる。政府が決めた集中復興期間は3月末で終わるが、被災地が日常を取り戻すのは遠い」(朝日新聞3月11日朝刊)。
これも報道によれば、これまでの5年間で26.3兆円が復興費に費やされた。そのうちの10.5兆円は復興増税によるものである。この復興増税は2013年から始まり、所得税と個人住民税、法人税がそれぞれ2.1%上乗せされ、2037年まで続く。ただし、法人税に限っては安倍政権の下で2014年までの2年間で打ち切られた。経済成長を促進するためだという理由からである。
復興増税は2037年まで続くが、復興庁の設置期限は2021年3月までで、それまでに復興・創生期間が終了する予定になっている。その間の2020年に、東京オリンピックの開催が予定されている。よくわからない復興計画である。
復興予算に関しは復興庁のホームページに詳細が掲載されているが、とても複雑で、素人にはよくわからない。それらの中から、復興関連予算の過去の執行状況と復興庁の平成28年度予算の概括表をここに掲げておく。
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| 表1 |
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| 表2 |
国家予算の使い道に関しては、その道の専門家に聞きたいところだが、これまでに目的外使用や不適正処理が何回か報道された。それにしても、これだけ巨額の予算を費やしているにも関わらず、復興が道半ばで、苦しんでいる被災者がなお多いというのは、たしかに被害の規模は大きかったとしても、復興政策に問題があるといわざるを得ないだろう。どう考えても、本気になって真剣に復興優先の政策を進めているとは思えない。
工学的技術や社会的技術は日進月歩であり、災害復旧にもそれらを総動員することによって、かつてよりは遙かに迅速で効果的な復興が可能なはずである。それができないのは、ひとえにそれらを正しく活用できない/しようとしないで愚策ばかりを弄する輩が莫大な予算を浪費しているからだ。そこには、国民に優しくない政府がある。
東日本大震災の主因は巨大津波だが、迅速な復興を妨げている大きな要因が原発事故であることは論を俟(ま)たない。表1には、「原子力災害からの復興・再生」のための予算が3兆6,952億円が当てられている。表2では、平成28年度には、そのための予算として1兆167億円が計上されている。常識的に考えれば、原発事故が起きていなければ、それだけの予算を生活と生産の復興に集中投入できたら、と被災者のことに思いを寄せる者ならば誰でもが悔しくなるだろう。
なぜ、津波による被害をふせげなかったのか、なぜ、原発事故は防げなかったのか、ということに関する議論はこれまでに繰り返されてきた。そして、そうした議論の中で、しばしば、「想定を超える」とか「想定外の」という表現が使われてきた。これらの表現が用いられるときには、「誰にも責任がない」ことを暗に主張している。
たしかに、自然界のみならず人間界においても、人智を越える事象が生じることは少なくない。しかし、である。少し考えてみれば、人智を超える事象が生じることがある、というのは、人智を超える事象が生じることがあることを想定していることでもある。
人間の素晴らしさは、ある事象の発生を予測でき、それに対処することができることだけではない。いくら精緻で厳密な検討をしても、なお予測不可能なことが生じることがある、ということを想定できる能力を持っていることである。
だから、想定外だから、想定を超えることだからといって、責任を免れたり、責任を問うことをしないことは許されることではない、ということだ。その件に携わって、どのような形にせよ有形無形の報酬を受けてきた者は、想定外とされた事象によって被害が生じた場合にこそキッチリと責任をとらなければならないだろうし、その事象について発言する者は、誰が/どういう立場の者が責任をとるべきかを明確にし、「知らぬ顔の半兵衛をきめこむ」輩を厳しく追及すべきである。
ベーコンの言葉として「智は力なり」は有名である(諸説はあるが)。自然を正しく理解する知識を得れば自然(の猛威)を制御できる、という趣旨の言葉として私は理解してきたが、制御できないことをすることを制御することも人間の知恵である。やろうと思えばできるだろうが、それをやることによって生じる悲惨な/取り返しのつかない結末を考えて、やらない、ということだ。そんなことは誰でもがふつうにそうしている。敢えてやろうとすることを一般に冒険という。冒険家は、普通の人ができないことをやる人ではなくて、普通の人ならやろうと思えばできるけどやらないことをやる人のことをいう。
人間は、できること(可能なこと)はやりたいという欲求に衝き動かされる動物である。たしか、同じようなことを、エーリッヒ・フロムが『希望の革命』の中で述べていて、学生時代に読んだときに、自分だけの思い込みではなかったことに驚きと嬉しさを感じたものだ。科学技術の進歩は、そうした欲求を充(み)たし続けてきた過程でもある。その成果は、豊かで便利な生活と取り返しのつかない悲惨-幸福と不幸-の両方を人類にもたらしてきた。前者は、経済を発展させてきた生産技術であり、それによって生み出された様々な新商品である。後者は、公害病であり、核爆弾(原子爆弾:原爆)に代表される兵器である。
人間は経験から学ぶ、と言われている。しかし、経験から学ぶだけならば、犬猫でもできる。経験から学ぶことは動物一般に備わった能力なのだろう。人間は、経験から学ぶだけではなく、経験したこともないことを想像力(イマジネーション)-人間固有の能力だと私は思っている-を働かせて、それまでは見たことも聞いたこともないものを作り出したり、将来を見通したりすることができる。
ところが、始末が悪いことに、人間は、想像力を膨らましすぎて経験から学んだことを反故(ほご)
にしてしまうことがある。こうなると犬猫以下で、経験から何も学ばなかったと同じになる。「羮(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ではなく、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」になってしまう。
原子力発電も核爆弾も核分裂で生じるエネルギーを利用するということでは同じ原理に従っている。異なるところは、原子力発電は核分裂で生じるエネルギーの大きさを制御しながら利用するのに対して、核爆弾は制御することなくエネルギーを最大限に発揮させようとするところにある。要するに、核エネルギーを制御できる技術を開発できたことが原子力発電の開発を可能にしたということだ。
しかし、東日本大震災の際に生じた福島原発の事故と、その後の対応が教えていることは、原子力発電は、現在の技術では-ということは人間の力では-制御しきれない多くの問題を抱えているということだ。良心的な科学者、技術者であれば、そのことは重々理解しているはずである。そうでなければ似非科学者、似非技術者であろう。あるいは思想を持たない犬猫同然の動物に過ぎない。技術者は思想を技術で表現する、と言った学者がいた。誰だか忘れたが、昔に何かの本で読んだ記憶がある。
原子力発電は、綱渡り的なきわどい冒険と言えるかもしれない。その人個人が自分の欲求を充足するために、他人には何の被害を与えることなく自分の責任でことを処理できるのであれば、冒険は勇気ある行為として賞賛されてもよいだろう。
しかし、今回の原発事故のように、多くの人に被害と迷惑をもたらしたあげくに、いまだに事故処理に手間取っていて、いつ処理が終わるかもわからないままに膨大な国家予算を浪費続けているのは、冒険ではなくて明らかに犯罪である。にもかかわらず、誰も自ら責任を取ろうとしないし、責任の所在を明らかにしようとさえしない。
そればかりではない。原発再稼働が着々と進められている。直近の経験から学ぼうとしないし、想像力も働かせることなく、被害は他人事(ひとごと)とばかりに、あの手この手で言い繕いながら、大仕掛けの手品よろしく制御できないことを制御できるふりをして事を進めている。如何様師も面目丸つぶれであろう。
原子力の安全神話は崩壊した。国民はだまされ続けてきたが、まだ、だまし続けることができると高を括っている。だが、本当に恐ろしいことは、制御できないことを知りながら、科学者、技術者が自分をだまし続けながら原子力発電の安全性を口にすることである。
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