2015年5月18日月曜日

大阪都構想の賛否を問う住民投票の結果はまさにドラマチック

大阪都構想に賛成でもなければ反対でもなく、格別関心があるわけではないが、テレビで住民投票の開票速報をしていたので何とはなしに見ていたら、賛成票と反対票が作ったように拮抗していて面白かった。開票率が80%を超えた頃だろうか、その段階でも賛成票が上回っていたが、反対票が上回ることが確実と報じられた。

最終的には、反対が70万5,585票、賛成が69万4,844票と、反対が多数となって大阪都構想は否決されることになった。大阪市選挙管理委員会は、今回の住民投票のルールを次のように説明していた。

今回の住民投票は投票者数にかかわらず成立し、賛成の票数が有効投票(賛成票と反対票を合計した総数)の半数を超える場合は、特別区設置協定書に基づき大阪市が廃止され、特別区が設置されます。反対の票数が有効投票の半数以上の場合は、特別区は設置されません。<ご注意>実際に投票された有効投票数以外は賛否の決定に影響しません。
 
大阪都構想の是非を問う住民投票と一般に言われてきたが、正確には「大阪市における特別区設置についての住民投票」と言うようで、大阪市選挙管理委員会のウェブサイトには、「特別区設置住民投票」という言葉はあるが、大阪都構想という言葉はひとこともない。

今回の住民投票のルールは多数決ではあるが、大阪市選挙管理委員会の説明にもあるように、「投票者数にかかわらず成立し」ということであるから、投票者数や賛否の差がどれくらいかは問題にならない。極端なことを言えば、3人が投票して2人が賛成あるいは反対すれば決着する。そして、1票差だろうと100万票差だろうと関係ない。とはいうものの、有権者数が少ない村の村会議員選挙で数票の差で当落が決まるのは別に驚きでもないが、今回の票差には本当にビックリした。

住民投票の当日有権者数が210万4,076人で投票率が66.83%ということだから、140万6,154人が投票したことになる。賛成票と反対票の合計より多いが、無効票が5,640票あったからだ。それだけ多くの人が投票して、たった1万741票の差しかなかったというのは、まさにドラマチックである。名作を手がける脚本家でも、ここまでは描けないだろう。かえって嘘くさくなってしまうからだ。そういうことでは、ドラマ以上にドラマチックと言えるかもしれない。そう考えると、橋下大阪市長は、アカデミー賞の各部門賞を総なめするほどの類い希なる脚本家かつ役者であったと言えるかもしれない。

大阪都構想が住民投票で否決されたので橋下市長は任期が切れたら政治家を辞めると明言したということだが、あまりにもドラマチックなきわどい結果が何をもたらすことになるか注目したい。彼は辞めてもなおエンターテイナーであり続けることだろう。

ところで、反対票の70万5,585票と賛成票の69万4,844票をそれぞれ投票数全体の割合にすると、反対票は全体の50.383489630677456693627452730556%で、賛成票は全体の49.616510369322543306372547269444%である(これだけ多くの小数点以下の数字を並べるのは全くの遊びでしかないのであしからず)。その差は、なんと、0.766979261354905%ポイントにしかすぎない。多数決とはいえ、割合から言えば、無視できるほどの差しかない。

ブリタニカ国際大百科事典によれば、多数決原理とは、「集団でものを決めるときの決定ルールの一つで構成員の過半数の意見を集団の意思とする方法である」。この説明で肝心なところは、「構成員の過半数」と言う場合の「構成員」をどうとらえるかということである。

今回の住民投票に当てはめれば、「構成員」を20歳以上の大阪市民とすると、「構成員の過半数」は有権者210万4,076人の過半数だから105万2,039人となる。住民投票の結果は、賛成も反対も、その数には達していない。それでも、投票率は66.83%と比較的高かったから、まあ、有効投票数の過半数でも「構成員」全体を代表していると見なしてもよいだろうが、仮に有権者が一人残らず投票したとすると、どんな結果になっていただろう。

そこで、試しに計算してみた。こういう場合は、標本抽出の原理を応用することになる。

標本抽出(サンプリング)は、ある全体(これを母集団という)の中から標本(サンプル)を幾つか選んで、それらを調べることによって母集団全体のことを知ろうとするときに行われる。製品検査や世論調査で行われる手法であるが、大事なことは標本が無作為(ランダム)に選ばれていることである。

無作為と言っても、適当デタラメに選ぶことではなく、どの標本も選ばれる確率が等しくなるように選ぶ。要するにくじ引きである。歳末大売り出しの時なんかに見られるガラガラ回して当たり玉が出る抽選機での福引きや宝くじの抽選と同じである。当たる確率が誰にでも同じだと思うから福引きをし、宝くじを買うのである。当たる確率が等しくなかったり操作して偏りがあれば、それは如何様(イカサマ)であるから、誰も福引きをしたり宝くじを買ったりしなくなる。実験や調査で標本抽出する場合でも同じことが言える。

住民投票の場合は、世論調査で回答の対象者となった場合と同じように、投票をした人を抽選で当たった人と考えればよい。そうした人が無作為で選ばれたと言うことはできないので厳密性に欠けるが、210万4,076人の内の66.83%に当たる140万6,154人もの人が投票したので、標本数が多くなれば誤差は小さくなるということを頼りに先に進むことにしよう。

比率の誤差の推計と区間推定は次のような式で計算できる。


p は標本から得られた結果で、ここでは賛成50.38%や反対49.62%。ただし、式に入れるときには、0.5038や0.4962のようにする。
k は信頼係数と呼ばれるもので、5%とか1%、0.1%の誤差を見込むときには、それぞれ1.96や2.58、3.29にする。
N は母集団の規模で、ここでは有権者総数の210万4,076。
n は標本数で、ここでは有効投票数の140万429。
P は真の値。要するに、有権者210万4,076人が全員投票(投票率100%)したと仮定した場合の賛成や反対の割合。

上の式に、推計の誤差を5%として反対の割合について数値を代入した場合には以下のようになる。
 
計算すると以下のようになった。
0.503358937138526  < P < 0.504310855475022
同様にして、推計の誤差を1%(k を2.56)、0.1%(k を3.29)とした場合の結果は、それぞれ以下のようになった。
0.503208378626121 < P  < 0.504461413987427
0.503035964845786 < P  < 0.504633827767762
 
いずれの場合でも、50%を超える結果になった。賛成票についても同様に計算してみたが、50%を超えることはなかった。要するに、有権者が一人残らず投票していたとしても(投票率100%だったとしても)、反対票は、50%を(わずかではあるが)超えていただろう、ということである。ただし、投票率や賛成票と反対票の割合に世代差(年齢別の違い)が大きいとすれば、以上の推計結果が妥当かどうかは判断できない。そのことを検討するためには、選挙管理委員会がそれらの詳細なデータを公表することである。
 
橋下市長は、退任する前に、ぜひ、そのことを行い、住民投票の結果と意義を総括すべきであろう。おそらく、住民投票の実施のために莫大な費用を市の財源から支出したであろうから、反対されましたから潔く政治家を辞めます、などと子どもじみたパフォーマンスでお仕舞いにするのではなく、その支出を無駄にしないために、日頃の言動通りに政治家としての責任を全うしなくてはならないだろう。

2015年4月21日火曜日

「お疲れ様」、「お世話になっています」、「させていただきます」の乱用に違和感を覚える

いつ頃からか、ずっと若い人から「お疲れ様」と言われて違和感を覚えたが、学生でも教授に対して使うらしい。聞くところによると、とても丁寧な挨拶として、いまでは頻繁に使われるようだ。というより、そう教えられているようだ。メールの文頭に「お疲れ様です」と書かれてあって驚いたことがある。「お疲れ様」は何かが済んだときとか、別れ際に言う挨拶語ではないかと思うからだ。

誰に教わったのかは知らないが、昔は、というと年寄りの繰り言と言われそうだが、年長者に対して、「お疲れ様」や「お疲れ様でした」なんて言うことはなかった(と思う)。「御疲れ様」は、労(ろう)を労(ねぎら)う挨拶語として『広辞苑』にも出ているが、私の理解では、年長者が年少者や同輩に、よくやった、よく頑張った、ありがとう、という気持ちを込めて使う言葉ではないかと思う。

例えば、仕事を頑張ってこなして、上司に「もう、帰っていいよ」と言われた(り、言われなかったりした)ときに、「では、お先に失礼します」と言った返事に、上司が「あー、お疲れさん」とか「お疲れ様」と言うのであれば違和感はない。

仕事も大してできない若造にニコニコ顔で「お疲れ様」と言われれば、私なら、「ああ、お前のせいで、すっかり疲れてしまったわいな。お前が疲れるくらい仕事をしろよ」と言いたくなってしまう。部下や年少者から「お疲れ様」と言われて喜んでいる者や、そう挨拶されることを期待している者、そう挨拶しろと教えている者の気が知れない、と思うのは私だけだろうか。

では、挨拶の際に何と言えばいいのかと聞かれれば、別れ際には、「失礼します」とか「お先に失礼します」と言えばいいし、何かの仕事が一段落して上司や年長者に労いの言葉をかけるとしたら、「お疲れになったことでしょう」(と言って,その後に、「十分できなくてすみませんでした」と言えればもっといい)と言えばいい。感謝の気持ちがあるのなら、素直に「ありがとうございました」と言えばいい。飲み会の後で、青春真っ盛りのような若者に「お疲れ様でした」と言われたときには、すっかり酔いが覚めてしまったことがある。

ちなみに、「お疲れ様」を英語で言おうとすると難しい。インターネット上のWeblio翻訳でいろいろと試したところ、機械翻訳では、まっこと面白いことに、Dear Ms. fatigue. となった。たしかに、これは、名前が「お疲れ」の女性に向けた挨拶語になっている。このほかに、英語表現辞典では、Have a nice evening やHave a good evening、See you tomorrow というのもあった。「疲れる」に相当する英語が一字も入っていない。

「お疲れ様」の「様」をひらがなで「さま」として「お疲れさま」で翻訳させると、単に Thank you となった。うーん、そういうものか。「お疲れさまでした」とやると、なんと、この言葉の使い方についての次のような注釈付きの翻訳が出てきた。

•お疲れさまでした(上司が部下に対して「よい仕事をした」と褒める場合【ややカジュアルな表現】) Good job.
•お疲れさまでした(上司が部下に対して「よく働いてくれてありがとう」と伝える場合【やや丁寧な表現】) Thanks for your hard work.

年少者が年長者などに対して「お疲れ様」と言うことに違和感を覚えるのも、この注釈で合点がいくのではないだろうか。

「お世話になっています」も挨拶語として頻繁に使われるが、これも、使う場面によっては違和感を覚える。本当にお世話になっているのならともかく、そんなお世話をしたつもりもないのに、ましてや、初めての人にのっけから、「お世話になっています」と言われると、空々しくて嫌になる。個人的にではなく商売上であれば、企業どうしの関係として通常の挨拶語だろうが、同じ組織の中での連絡のやりとりの際にも、決まり文句のように「お世話になっています」とやられると、「えっ、お世話したっけ。あんた誰だっけ」と言いたくなる。

「何々させていただきます」とか「何々させていただきました」という言い方も乱用されていて違和感を覚える。「何々いたします」とか「何々します」、「何々することにいたしました」とか「何々しました」と言えばすむ場合でも(その方が自然なところを)、わざわざ「させていただきます」と言う。謙(へりくだ)って、とっても丁寧に言っているつもりなのかもしれないが、ちっとも、そんな感じがしない。かえって、慇懃無礼というか、ぎこちなさというか、軽いというか、私にはよい印象がない。

というわけで、「以上、一言申し述べさせていただきました」。

2015年4月17日金曜日

運転免許証の更新と献血に行ってきた

ウグイスが盛んに囀(さえず)っている春の一日、陽光を浴びながら“大古愛車”を駆って運転免許証の更新に行ってきた。前回の更新から早5年経った。期限までは1か月以上もあるが、思い立ったが吉日と、ふだんは何事も期限ぎりぎりになってしか着手しない私には珍しく早速出かけることにした。

自慢ではないが、これまでゴールド免許を手にしたことがない。今回も、更新通知の「更新時講習の区分」には「違反運転者講習(2時間)」とあった。「運転者の区分及び最終の違反等」の項目には、「指定場所不停止等」とあった。このブログの昨年(2014年)5月8日の記事で書いた交通違反のことだ。一時停止の標識を見落として罰金7千円を支払ったが、その前にも1回違反していたようだ。

ようだ、というのもおかしいが、記憶にあるのは、4年前だと思うが、右折禁止になって間もない所を新たに設置された標識に気がつかずに曲がってしまい、罰金7千円を課せられたことだ。そのときは、警察官が腕で大きく「✕」 を作って示してくれていたのだが、事故処理でもしているのかと思ってゆっくり進入していったところ、止められて、「教えたじゃないですか」と言われた。「えっ、ここ、いつも通っていましたよ」と言うと、「標識見えなかったですか」と聞かれたので、「えっ、あるんですか」と言うと、「こっちこっち」と言って、標識の所まで連れて行かれて、結局、罰金を支払う羽目になった。

そういう軽微な違反が2回以上なので「違反運転者」の烙印を押されたわけだ。おまけに、「優良運転者」や「一般運転者」よりも、講習時間が長く(30分→1時間→2時間)、免許証の有効期間が短く(5年→3年)、講習手数料も高い(500円→800円→1,350円)とあらゆる面で痛めつけられることになった。違反点数と罰金で十分に償(つぐな)っていると思うのだが、この仕打ちは、ちょっと残酷過剰ではないかと言いたくなる。

違反しておいて何を言うか、と言われそうだし、交通事故防止のためには、それくらいのことをしても足りない、と言われるかもしれない。反省が足りないと叱られるかもしれない。しかし、何となく腑に落ちない。

金曜日の午後であったためか、更新者が多くなかったので、駐車場も空いていたし、手続きもスムーズにいって、待ち時間がほとんどなかった。途中10分間の休憩を挟んだ2時間の講習では、交通違反と交通事故の話と交通事故の悲惨さをこれでもかこれでもかと見せるビデオの視聴であった。机に俯(うつぶ)せになって居眠りしていた若い女性が講師に腕のあたりをちょんちょんと突かれて起こされたが、講習の始まる前に、講習中に居眠りしたり、パソコンで仕事をしたり、本を読んだりするすることのないようにと注意をしていたのに、若い女性は、そのことも聞いていなかったみたいだ。講習に来ても注意義務違反を犯すのは、なんと度胸のいいことよ、と感心したり呆れたり。それに引き替え、母親と一緒に来ていた3~4歳の子は、講習中ずっとおとなしく倚子に座って話を聞いたりビデオを見ていたのには感心した。

古い免許証ももらって、出来上がった新しい免許証の写真と5年前の写真を見比べると、おー、年をとったな、と変わりように今さらながらに驚くというか、納得する。運転免許証は第一等の身分証明書になるから、というより、いまの私にとっては唯一の身分証明書であり、生きている証しだから、良く写っている写真が望ましいのだが、残念ながら、運転免許証の写真で良く写っているものはない。「実物そのままでしょ」と家族は言う。そんなことはないと意地を張っても詮無いことだが、「撮り直して下さい」という勇気もない(そうしたこと可能かどうか確かめたことはないが)。

毎回のことだが、今回も、講習終了後に献血ルームに車を走らせて献血をした。400ml。機会あるごとに献血するようになったのは、学生の頃、母親が大手術のために大量の輸血が必要になったときに、級友や級友の友人、先輩や後輩とその友人たち何十人もが献血をして献血手帳を大量に集めてくれて、献血の大切さを実感したからだ。その頃は、各自の献血手帳に記載された献血量を合計した量の血液を日赤から配分されたのではないかと記憶している。その後、献血をすることになったのは友人たちへの感謝の気持ちからだ。年齢制限まで献血を続けようと思っている。

献血ルームはとても綺麗で、飲み物やらアイスクリームやらが用意されていて、自由に飲める。献血台にはテレビも備えられていて、献血中と献血後の安静時間には飲み物を飲みながらがテレビを視聴できる。そんなに長い時間ではないが、退屈させない工夫がされている。終わるとお菓子をくれた。何か申し訳ない気もした。職員はとても丁寧に応対してくれるので、気持ちが良い。新しい免許証と献血カード(いつも忘れて毎回カードを作ってもらっている)を財布に入れて、さわやかな気分で帰途についた。

2015年3月10日火曜日

竹下亘復興大臣の冷酷非情な発言に怒り心頭

9日の朝日新聞朝刊一面に、竹下亘復興大臣の次のような発言が掲載されていた。

竹下亘復興相は8日、宮城県の村井嘉浩知事らに対し、全額を国が負担する東日本大震災の復興予算について、2016年度以降は自治体に負担を一部求める考えを示した。「被災した一人ひとり、さらに市町村も自立する強い意志を持ってほしい」と強調した。

読んでいて悲しくなってしまった。いや、悲しくなってはいけない。どうも日本人は(と言ってはいけないのだろうが)、怒り、猛り狂う(たけりくるう)べきところを悲しみや無念の情に転換してしまう性癖があるようだ。それを日本人の美徳かのように自他ともに認めてしまうところに、本気になって問題を解決できずに有耶無耶のままに先送りしてしまう原因があるように思える。そして、そこに日本の不幸があるように思えてならない。

被災者も被災自治体も、これまでの長い年月、一日も早く自立できるようにと懸命な努力をしてきたし、していることは多くの国民が知っている。にもかかわらず、「自立する強い意志を持ってほしい」とは、誰に向かって、何を根拠に言っているのか。

竹下復興相は、慶應義塾大学経済学部を卒業してNHK(日本放送協会)に入社し、6年間記者やキャスターとして働いたようだ。その間、記者の目、キャスターとしての見識を培ってきたことと推察する。そして、第三次小泉内閣では環境大臣政務官を務めているから、環境問題にも造詣が深いことだろう。にもかかわらず、被災地県の知事に面と向かって発せられた上のような発言は許しがたい暴言であり、政治家としてあるまじき行為であると言うべきだろう。

震災から早4年。被災地の現状が新聞各紙や各テレビ局、雑誌等で繰り返し報道、放映されている。それらに接すれば、被災者の心中は察してあまりあるという感慨を抱く人が多いことだろう。そして、一刻も早く生活が立て直ることを祈ることはあっても、「被災した一人ひとり、さらに市町村も自立する強い意志を持ってほしい」などと何も知らない人間が上から目線で説教じみた精神論を吐くようなことは決してしないだろうし、そうしたことが頭に浮かぶことさえないだろう。ましてや、政治の中枢にいて膨大な情報を得ているはずの人間なら、なおさらのことと、ふつうは思う。

今回の報道に接して、怒り心頭に達した人がどれくらいいるかはわからない。一面の記事ではあるが、それほど大きく取り上げられたわけではない。マスコミを賑わす失言やスキャンダルの類ではない。確信を持っての発言であるということでは、もっともっと大きな問題であると思うのだが。

2015年2月25日水曜日

売値と利益-安いか高いか儲かるか

寒さも和らぎつつあり穏やかな日和であったので、老妻とデートとしゃれ込んでみた。退職後に三食昼寝付きの養老院よろしく在宅介護をされているような毎日を楽しんでいる私が妻にできることは、日頃のお世話に対するせめてもの労(ねぎら)いとたまに昼食を外でご馳走することくらいだ。

と言いながらも、車の運転は妻まかせで、ゆったりと助手席でタバコを燻(くゆ)らしているのだから、労を犒(ねぎら)うどころか、連れて行ってもらう世話をかけているようなものだ。

昼食は海鮮市場でとることにした。少し離れた公営駐車場に入れて歩くことにした。市場に着くと、どの店で何を食べようかと店先に貼り出されたメニューやら宣伝文句を見ながらブラブラ歩いていると、「ランチメニュー にぎり8個 赤だし付き 800円」、「海鮮ちらし 1,000円 赤だし付き」というのが目についた。おお、これなら手頃でいいと、カウンターだけの小さな寿司屋に入った。

静かな店で、中年夫婦らしき一組がいただけだ。端に座ろうとしたら、「詰めて下さい」というので、その夫婦の隣に座ることになった。入ったばかりらしく、まだ、カウンターにはお茶しか出ていない。

小柄な年配の男性が一人、カウンター内で寿司を握っている。ふつうはカウンター前にあるガラスケースがなくて、ネタが見えない。目の高さまでしきりがあって、立って覗かないとカウンター内も見えない。おかしな寿司屋だ、と一瞬、気味悪くなったが、出てきた寿司は値段の割には悪くなかった。ゲソのにぎりが美味くて、追加注文してしまった。一皿に2個で200円。回転寿司より廉価ではないだろうか。妻が食べた海鮮ちらしもボリュームたっぷりだった。

 満腹のおなかを抱えて、例によって食後のコーヒーをと喫茶店を探す。「サイフォンで淹(い)れたてのコーヒーを」という看板につられてドアを開け、「タバコ吸えますか」と聞くと、もちろん、という顔で「吸えますよ」と年配の女性が言う。テーブル席2つと4人ほどが座れるカウンターの小さな店で、夫婦でやっているようだ。食事のメニューも色々あり、弁当の仕出しもやっているようで、カウンターには美味そうな弁当が詰まれていた。夜はスナック・バーになるようだ。熱々のコーヒーとタバコをひとしきり楽しんだ。コーヒーは1杯400円だった。

市場内をブラブラと見て回る。店先の売り台に幾つも並べられたトレイの中でたくさんの小ぶりの鰈(かれい)が飛び跳ねてひっくり返ったのを威勢のいい女性店員がサッとつかんで元通りにひっくり返したり、子蛸(こたこ)がトレイから這い出しているのを元に戻したする様を見ていると、「おすすめはこれだよ」と鰈と同様に幾つものトレイに並べられて赤い魚を指さした。「ガシラだよ、煮付けでも唐揚げでもおいしいよ」とのこと。つい調子に乗って、というのは妻の弁だが、「では、この3尾のを」と買ってしまった。1,500円。

長崎県水産部ホームページにある「お魚図鑑」によれば、ガシラというのは、地方によってはアカバとも呼ばれるユメカサゴのことである。学名はHelicolenus hilgendorfiで、英名はHilgendorf saucordというそうだ。なんだか難しい。

特徴として次のようなことが記されている。水深100~300mの砂泥底に生息している。体は楕円形で平たい。胸びれの内側に基部付近に大きい皮弁がある。甲殻類や魚類を食べる。底引き網で漁獲され、味はよく煮付けにするとおいしい。分布:青森県以南、東シナ海、朝鮮半島南部。大きさ:30cm。漁法:底曳網。食べ方:煮付け。
長崎県水産部ホームページの「お魚図鑑」より転載
お馴染みのカサゴと同様に、脊椎動物門-硬骨魚綱-カサゴ目-フサカサゴ科だが、カサゴの学名はSebastiscus marmoratusで、英名はJapanese stingfishだそうだ。おお、ジャパニーズ・スティングフィッシュと日本固有の魚のような呼び方ではないか。

スティングは日本語では棘(とげ)のことだから、さしずめ「日本の棘魚」ということになろうか。体中が棘だらけのような魚だから、英語圏では、そう言うのかもしれない。まあ、英語の名詞には、わかりやすさを旨とするのか、見たまんま、そのまんまというのが多いから、これもその類なのだろう。sting hair(スティング・ヘア)というと、イラクサなどの棘のことで、日本語では刺毛(しもう)とか棘毛(きょくもう)と言う。

ついでに言うと、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが共演した映画に「スティング」(1973年)というのがあった。詐欺師を描いたコメディタッチの名作だが、そこで言うスティングは信用詐欺のことである。英和辞典によれば、スティングには計画的犯行とかおとり捜査、犯罪で得た金、盗品などの意味もあるとのことだ。いずれも俗語(スラング)として使われる場合だ。その伝でいけば、ジャパニーズ・スティングフィッシュことカサゴは、「日本詐欺魚」になってしまう。カサゴもビックリというか、迷惑顔をしていることだろう。

ともあれ、妻の労いになったかどうかわからないが、駐車場へと歩く。駐車料金は500円。20分100円だから、100分過ぎたことになる。

魚の煮付けが好きで、妻も料理上手なので、これで今日の夕食をと、いい買い物をしたと満悦至極であったのだが、後で妻に叱られた。高い買い物だということである。煮付けで食べてみたが、見てくれほどには身が多くなくて、あまり美味い魚ではなかった。残念至極というところだ。

さて、本題である(例によって前置きやら周辺の話題が多すぎる)。

コーヒー一杯400円と、にぎり寿司8個赤だし付き800円とを比較すると、どちらの利益が多いのだろう。素人目には、材料費や手間暇を考えるとコーヒーの方が断然利益率が高いように思えるが、売れる数はどちらの方が多いのだろう。利益率✕販売数で儲けは決まるから、薄利多売という言葉もあるように、商品一つの利益率は小さくても数多く売れれば利益は大きい。でも、買う側は、その商品一つの価格の印象が強いから、あの寿司屋は、あれでやっていけるのだろうかと心配になる。

ガシラはどうだろう。大量の鮮魚が店に並んでいる。全部売り切れるのだろうかと心配になる。海から獲ってきて店に並べるだけだから、元手(もとで)はあまりかかっていないか、とも思うが、タダで拾ってくるわけではなくて大量の燃料を使って朝早くから漁に出るのだから軽費はかなりかかっている。3尾1,500円で利益がどれくらいあるのか興味あるところである。

駐車料金はどうだ。車を置かせているだけで(だけでと言っていいかわからないが)金を取るのだから、こんなにおいしい商売はない、と思う。もっとも、駐車場用の土地とビルの建設費はバカにならないから、元手はかかっている。

バングラデシュに滞在していたときに、リキシャと呼ばれている人力車をよく利用した。歩けば30分ほどかかるところを、当時は、日本円にして何十円かで利用できた。3人乗っても、大して変わらない料金だった。まあ、交渉次第での料金だから、距離や時間に料金が対応しているわけでもない。かなりの年配のやせ細った運転手がリンギと呼ばれる腰巻きをたくし上げて裸足で自転車をこぐ。バングラデシュの友人は、距離あたりの料金で言えば飛行機代より高い、と笑っていた。

売値と利益。安いか高いか儲かるか、と考えると、物の値段の付け方は難しいと思う。もっとも、売値は、原価や諸経費だけをもとにして決められるわけではない。買い手の必要や満足が作用するところが大きい。市場経済における需要と供給の原理である。利益率が高い商品の値段は、買い手の必要と満足に左右されるところが大きい。そこでしか買えないもの/そこでしか売っていないものは、それを欲しい人にとっては高額でも買うしかないことになる。見栄っ張りや気取りっちゃんは、同じ商品でも、有名ブランド品を有名店で高値で買うことで満足を得る。

消費者の商品知識などは高が知れているので、物の価値を判断して買い物をしているわけではない。欲求が満たされることに価値を置いて買い物をしているに過ぎない。偽ブランドが蔓延したり有名店が商品の偽装したりする余地もそこにある。芸術作品が高値で取引されるのも、幾分かは、同じ理屈であると言えるかもしれない。

適正価格がどういうものかよくわからないが、「こんな値段で儲かるのか」と心配させるような価格のことだろうと勝手に思っている。売り手にとっては厳しいことかもしれないが、それで商売が続けられているのなら、適正価格なんだろうと思う。そういうことで言うなら、儲けが大きい=利益率が高い商品は、みな不適正価格で販売されていることになるが、経済活動のほとんどは不適正価格で展開されていると言っていいのかもしれない。その典型が、バブル経済の崩壊となって現れる。

インフレも、言ってみれば、商品の多くが不適正価格になることである。だから、インフレ政策を成功させる一番の早道は、消費者の商品知識を曇らせて、適正価格はどれほどか、などということを頭にのぼらせないで、ひたすら欲求を満たすことに価値を置くように仕向けることなのかもしれない。

2015年2月7日土曜日

お年寄りのウォーキング

久しぶりに散歩した。冷たい空気を吸いながら50分ばかり妻と一緒に近所を歩いた。山を削って40年前に作られた大規模住宅団地には3千世帯が住んでいるが、空き家や空き地が目立つようになっている。

「この家は売れてよかったね」とは妻の言葉。何がよかったかはわからないが、売りに出ても長らく売れないでいる家も多い。別に妻の知り合いの家ではないが、昔から住宅に興味のある妻は、周辺地域の売買物件のことをよく知っている。断っておくが(別に断らなくてもいいことだが)、妻は不動産屋でも何でもない。それでも、売りに出た家が売れないと気になるようだ。

売り物件が出ると、冷やかしに見て回ることもけっこうあって、私もついて回ったこともある。中には気に入った物件もあって、引っ越しを考えたことも何回もある。とは言っても、そう簡単には引っ越すこともできない。先立つ物が無いからである。

このあたりは、20年前ほど前までは新築も盛んだった。当時は5千万円とか6千万円もしていた。そんな住宅でも、2千万円台で売りに出ている。中古でも4千万円台していたが、今では1千万円台だ。土地の値段が急落したためだ。私の家も、当時は坪60万円だったが、今では20万円もしないようだ。25年とか30年のローンで購入した人は、大金をドブに捨てたとまでは言いたくないが、何年分もの年収をふいにしたことだろう。ということで、買い換えもままにならないことから、気に入った売り物件があっても、おいそれとは引っ越せないというわけだ。

話がとんでしまったついでに、更に横道に。

先日、高校時代の友人から電話があった。何かとてもやかましい中での電話のようだったが、同級生3人でカラオケをやっていると言うことだった。同じ運動部の仲間だった。高校在学中は運動漬けの毎日で、県大会の常連だったし、全国大会や国体にもいま一歩で涙をのんだ仲間である。

いまやそれぞれ第2の職場でちょっぴりの収入を得ながら親の介護に苦労している。一人の友人は、自分の母親の介護で郷里に帰ってきており、彼の奥さんは彼女の親の介護のためと退職後に別居生活を余儀なくされている。

何だかんだと話していても、最後は健康のことになる。お互い病気もしていないが、私はメタボだ。連中は、タバコも止めているし、スリムを自慢している。聞けば、毎日1万歩を歩いているという。朝か昼間は8千歩止まりだから、夕方か夜に2千歩を歩いて1日1万歩を達成しているという。携帯電話に万歩計がついているとのことだ。先日も連中と山登りをしたという。聞けば、昔よく尾根を縦走して楽しんだ山だ。馬酔木のトンネルがある山で、モリアオガエルのいる池もあるところだ。

「お前も歩け」というから「そんなに歩いて、どうするんだ」と返事をすると、お互い運動バカだったから、「歩きゃいいんだよ」と言われると、「そうだな」と納得する。

妻と散歩しながら、「こうして何も用がないのに健康のためと歩いて過ごせるなんて平和だし幸せだね」ということになったが、歩きながら話すことは、昨日、年金通知が来て、また受給額が減ることになったことだ。高齢者虐待だな。どう考えても、在職中の半分という収入にはとてもとてもならない。約束が違うじゃないか。税金や国民健康保険料、介護保険料、固定資産税を払うと、実際に使える額はぐんと減る。

歩いて健康を維持することは大事だろうし、何よりも健康が第一というのも、よくわかるが、それだけで豊かな生活を楽しめるわけでもない。歩いていると、ひたすら歩くことが生活目的になっているかのような(偏見もいいとこか)老老男女を何人も見かけるが、病院通いをしながら、たくさんの薬を飲みながらウォーキングに精を出している人も多いだろう。そう言えば、ウォーキングのしすぎで膝を痛めたご老人を何人も知っている。医者に通いながらも健康のためにとウォーキングを止められないらしい。健康のためなら体を壊してもいいということのようだ。なんともはや、おかしなというか、すさまじいというか、わけのわからない時代になったものだ。

先日、用事で大久保や市ヶ谷に行ったが、地下鉄やJR(今でも馴染めない名称だ)で乗り換えをするには、けっこう歩くし、電車内で立っているのも運動になる。都会に住む人間は歩くのが速いし、歩く姿勢もいい。交通が便利なところに住む方がよく歩くことになる、ということだ。田舎暮らしの人間は、ちょっとした距離でも車を使うことが多いので都会人より歩かないことになる。バスが頻繁に走っていた頃は、バス停までの往復でも乗り降りでもけっこう運動になっていたと思うが、バスの運行が激減してからは歩く機会が減ってしまったし、歩くのが億劫になった。年寄りを歩かせるには公共交通機関を整備することも一案ではないだろうか。

まあ、せいぜい歩いて、街中の不備なところを見つけては改善案を練ることにしよう。そうすれば、無駄に歩いていない、と自分を言い聞かせることになるかもしれない。

憲法を改正すると国民は何を失い何を得るのか

2月5日の朝日新聞朝刊の1面に、「参院選後に改憲国民投票」の大見出しが。とても目を引いた。小見出しには、「首相意向 議論開始へ」とあった。

改憲の議論を開始するというのもへんてこな表現だが、国会で議題にするということなのだろう。上記の新聞によると、船田元・憲法改正推進本部長は、改正のテーマは、「環境権、緊急事態(条項)、財政健全化(条項)あたりが候補となっている」と安倍首相に報告したという。

環境権や財政健全化が改憲のテーマになるというのもおかしな話で、それらは改憲しなければ進められない問題ではないだろう。政治家が本気になってやるかやらないかだけの問題だ。

改憲の目的は別のところにあることは、自民党の「憲法改正案」をちらっとでも見ればわかる。

 憲法が改正されれば国民の生活が向上し、国民が誇れる真に民主主義的平和国家として国際的に尊敬を集めることになるということであれば、国民にとって得るところは多いと言えるだろう。しかし、憲法が改正されることによって国民が失うものが多いとすれば、日本国の自殺行為になりかねない。国民投票を強引に推し進めるのは、全国民をそれに荷担させようしていることに他ならない。

憲法を改正すると、国民は何を失い、何を得るのか。悪巧みに荷担して、大事なものを失う愚を犯してはならない。