2013年8月31日土曜日

我が家で一夏を過ごしたセミを紹介

何匹もの蝉が一斉に鳴いていました

アブラゼミ

アブラゼミ

アブラゼミ

クマゼミ
私が子どもの頃には山に行かないと見られなかった。セミ捕りをするときに、このクマゼミが捕れるととてもうれしかった記憶がある。いつ頃からか、アブラゼミよりもクマゼミの方が多くなったようだ。それも、町中や住宅街でもたくさん見るようになった。鳴き声から、「シャーシャー」と呼んでいた。
クマゼミ
 



クマゼミとアブラゼミの共演


クマゼミとアブラゼミの共演

2013年8月27日火曜日

消費税の増税

消費税の増税に関する有識者からのヒヤリングが26日から始まった。新聞各社の報道によれば、
参加した7人の民間人のうち、反対意見を述べたのは、山根香織 主婦連合会会長ただ一人で、給料も上がらない今の状態で増税を強行すれば、貧困や格差が必ず拡大するというのが反対の理由のようだ。

主婦連合会の会長らしい発言だ。増税でどこにしわ寄せがいくかは、苦しい生活を強いられている農民から更に年貢を引き上げる悪代官が登場する時代劇を見ればわかる道理。

一方、経団連の米倉会長は、「法律に明記されている消費増税を撤回すれば国際的信認を失う」という理由で増税に積極的に賛成したという。同様に、5人は予定通りに来年4月に8%に引き上げるべきと主張したそうだ。

そんなことで国際的信認を失うと本気で思っているとしたら、日本の経済界のトップに君臨する人間はずいぶん幼稚だと世界は見るのではないだろうか。国民の生活に真摯に向き合う姿勢が感じられない人間を頂く日本の経済界は、まだまだ未成熟というところかもしれない。

岩田一政 日本経済研究センター理事長は、増税には賛成しているが、向こう5年間、毎年1%ずつ上げるという増税の方法について言及している。一挙に一級に8%、10%とするよりも、その方が個人消費や住宅投資に対して優しいやり方で、デフレ脱却にも効果的というのが理由のようだ。

熱めの風呂にドブンと入ると、アッチッチとなるが、温めのお湯につかっていて、徐々に温度を上げていけば、それほど暑さを感じないのと同じ理屈。まあ、それが優しいやり方というのなら、そうなんだろうが、知らないうちに飼い慣らされていることになるのは恐ろしいことでもある。

甘利 明 経済再生大臣は、「総理は、とにかく理想的にはデフレをスムーズに脱却して、スムーズに予定通り(引き上げを)行えれば、それが一番いいと思っていらっしゃると思います」と述べたという。

俗に言うガス抜きをしっかりやって、有識者の皆さんから貴重なご意見を頂いたということでシャンシャンシャンでは子ども騙しで、それに付き合う有識者って、どれくらい責任を負うつもりなんだろうか。

所得税にしろ消費税にしろ、それに見合った政策が行われれば国民は文句を言わないはずだ。その議論がなくて、財源が足りなくなるから税金を上げると言うだけなら、放蕩息子が小遣いが足りなくなるたびに親に金をせびるのと同じだ。守ってやるから金を出せ、というのなら、暴力団のみかじめ料と同じだ。

国民は、財源が足りないと言われても、本当かどうかわからない。景気が上向いていると言うが実感がないのと同様に、財源が足りないと言われても、けっこういろいろなところに大金がつぎ込まれているようなので、どこが財源が足りないのかと思う。そして、国民の生活向上とか安寧な生活のために税金が使われているという実感がない。

かつて福祉国家とか福祉社会という言葉がはやったが、いまはちっとも聞かない。

消費税を上げても経済が活性化するわけでも国民生活が向上するわけでもないとしたら、いったい、その責任は、だれが、どのようにして取るのか。そこの所を有識者はしっかりと確認してほしいものだ。
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2013年8月15日木曜日

終戦の日

68回目の終戦記念日。日本の独立が回復して61年目の年。

もう、そんなに経ったのか、と言ってよいのか、まだ、それしか経っていないのか、と言ってよいのか。日本はずいぶん変わった、と言ってよいのか、ちっとも変わっていない、と言ってよいのか。幼稚で考え無しのような発言を繰り返す個人や集団に国を任せているところは、昔も今も変わっていないと言えるのではないだろうか。

発言や行動が実に「軽い」政治家や評論家ばかりが表に出ている。知恵も無ければ心情も無い。知ったかぶりで得意げに話すが、その内容は軽薄で、幼児的である。

戦没者を慰霊することは当然のことであり、その家族に深く哀悼の意を表することも、また当然のことである。しかし、そのことと、日本のために戦って散ったと軍神として崇め奉り、英霊を祀ることを国民の責務のごとくに語り、行動することとは大違いである。

死に追いやり、犠牲を強いた側に対して目を向けずに、あたかもそれと同じ側に立っているかのように、そして、いわれのない理由で死に追いやられ、犠牲を強いられた人々の無念さや悲しみを慮ることなしに、“よくやった”、“ありがとう”、“お前たちは偉い”とばかりに、遺族が涙する中で平然と浅知恵を披瀝する厚顔無恥さに怒りを覚える。

真剣に学んだことも考えたこともなく、親の経済力と七光りだけで大手を振って歩いてきたような輩には期待しても無駄なことかもしれないが、なんで、“国民が悲しむのを見ることはつらい”、“もう戦場に国民を送るようなことは絶対にしない”と言えないのか。それこそが英霊に対して誓うべきことではないのか。国を守るというのは民を守るということではないのか。民を犠牲にして何を守ろうというのか。

かつて高橋和巳は『散華』を著し、それに対して小田実は『難死の思想』を対置させた。若かりし頃、この二つの言葉-散華と難死-に接したときの衝撃を私は思い出す。

戦争で戦って死ぬことを賛美することほど愚かなことはない。そして、そのことを強制することほど残酷なことはない。

軍神だとか英霊だとか言って戦死者を華々しく称える人々や集団は、二度と国民に犠牲を強いたり、残虐な行為を強制させるようなことをさせないために尽力すると言うようなことは一言も言わない。ちなみに以下を覗いてみて、人々はどのような感想を持つだろうか。

http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/
http://eireinikotaerukai.com/

安倍首相は、今年の戦没者慰霊式で、「世界の恒久平和に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう全力を尽くす」と述べたという。日頃の言動からして、とても本心とは思えない。

外国の批判を配慮して終戦の日に靖国参拝をやめて、玉串料だけを払ったという。こういうのを子ども騙しというのではないだろうか。外国の批判を配慮して、ということは、自国の国民はすべて靖国神社に参拝に行って欲しいと思っていると決めつけていることになる。

テレビのニュースで、首相が靖国参拝を延期したことに対して感想を求められた若者が、興奮気味に、何で行けないのか、首相でしょう、と語気強く語っていた。何もわかっていない若者に唖然とした。こういう状況が浅知恵で見栄っ張りだけの輩の暴走を許してしまうのだ。残念ながら、そうした若者だけではなく、無知蒙昧な中高年や老人も、また少なくないことが、日本をいよいよ危うくさせている。

2013年8月2日金曜日

大学の学期末試験

知り合いの国立大学教授が、こんな話をしていた。

この時期、大学では、学期末試験や成績評価が行われているようだ。彼は、試験や採点、成績評価がイヤでイヤでしょうがないらしい。なぜかというと、試験をして採点すると、何のために授業をしたのか虚しくなってしまうからだそうだ。

彼は、学生が毎回の講義内容をちゃんと理解したかどうかをできるだけ客観的に評価できるような試験問題をじっくり練って作成しているという。授業中にも、このところは重要なところだからしっかりと理解するようにと繰り返し説明し、試験にも出すことをそれとなくにおわしても、いざ試験をすると、ちゃんとした解答を書く学生はわずかだそうだ。大多数は問題文さえ読んでいないかのようなことを書いているという。

教科書に指定した本を買わない学生もいるという。授業をしっかり聞かない、教科書も読まない、授業中に質問もしない、ということになれば、当然、授業の復習のような試験問題にさえ正しく答えることはできない。そんな当たり前のことを理解できないはずはないのに、そうした学生が多いそうだ。

そうなれば、これも当然のごとく、試験を受けても単位を取得できる点数には遠く及ばないことになる。それでも、試験の日には、ふだんの受講生数よりも遙かに多い学生が来て、150人収容の教室がいっぱいになる。事前にシラバスに受験要件として授業への出席回数が授業回数の3分の2以上と書いてあるにも関わらず、そうらしい。聞けば、授業に出なくても試験さえ受ければ「通してくれる」授業も多く、そうしたことを学生はよく知っているからだという。

「なめとんのか、おめーら、どの面下げてきたんだ」、とは言えないから、「今日はふだんよりも出席者が多いね」、なんて皮肉のつもりで言っても、笑いもしなければ何の反応もなくて、それもイヤーな気分にさせられるという。

ちなみに、シラバスという耳慣れない言葉は、授業の内容や進め方、成績評価の方法などを学生に示したものだそうだ、最初耳にしたときには、何のことかわからなかった。むかし私が学んだ大学では、そんな言葉を聞いたことがなかったから。

さて、採点の段になると、これまた苦労が多いという。出題した十数問の問題のそれぞれに配点を記してあるので、それに従って100点満点で採点していくが、「おいおい、授業中に話しただろう、詳しく。それなのに何でや。まったく。何も聞いていないのかよ」、と嘆きたくなる迷答、珍答が続出するという。

なんか書けば点をくれると思っているんだろうな、と言う。そして、そうした試験も中にはあるようだ。彼に言わせれば、そうした試験はする方もされる方も楽だからで、100人も200人も受ける試験では、ぱっぱっ、と眺め回して、授業とは関係ないことでもなんか書いてあれば内容なんか無視して10点刻みとか20点刻みで採点してしまうのが手っ取り早いからだという。そうした試験では落第点が出ないし、出席しなくても単位が取れるから、学生にとっては、こんなすばらしい授業はないことになる。そういえば、むかしもそんな授業があったような気がする。

彼の場合、一問一問じっくりと採点していくので、時間がかかることになる。百数十人の採点をするには1週間はかかるらしい。ちょっと時間かけすぎのような気もするが、答案をまじめに読むとなると、そのくらいはかかるのだろう。何も書かれていないとほっとするという。問題文に答えられないのなら、同じ0点になるのだから、グチャグチャとデタラメなことを、しかも、薄い字だったりちっちゃな字だったり、誤字だらけでいっぱい書くなよ、と言いたくなるそうだ。しかも、持っている知識で勝負しているつもりらしいが、まるで「知識持っていない」ことを堂々と宣言しているような答案には閉口するそうだ。

そして、極めつけは成績評価ということで、まともに成績を出したら受講学生の半分以上は「不可」になってしまうそうだ。彼の授業の一つでは、百数十人中八十人を超えてしまうそうだ。要するに、100点満点で60点未満が7割近くを占めることになる。もちろん、80点、90点を超える学生だって何人もいるのだから、問題が難しいとかへんちくりんな問題ばかりということではない、という。その辺のことは私にはよくわからないが、採点していて面白くはないだろうな、とは思う。

ちなみに、90点以上が「秀」、80~89が「優」、70~79が「良」、60~69が「可」で、60点未満が「不可」という。この区分はむかしも同じだったような気がするが、「秀」はなかった。「秀」が「優」よりも上なんだと知った。これもちなみにだが、『広辞苑』では、「優」は、「すぐれていること。まさっていること。また、成績の段階の一つ」とあり、「秀」は、「すぐれたこと。ひいでていること。また、すぐれた人」とある。「優秀」というのは同じような意味の文字を重ねることによって、優れていることを強調しているということか。「優」には「成績の段階の一つ」と添えられているが、「秀」にはそれがないところを見ると、成績評価のカテゴリとしては最近のことであることがわかる。

まあ、問題が難しかったことにして、と彼は考えて、といってもいつものことのようだが、思い切って「不可」を50点未満まで下げて、授業への出席回数を加味して成績評価をやり直すのだそうだ。それでも、まだ、「不可」が多いと、後ろめたい気持ちを持ちながらも、えいやっと、40点以上であれば、「まっ、いいか」と合格点にするそうだ。「本当かいな?」と聞くと、本当とも冗談とも言わなかったが、そんな点数で単位が取得できた学生は、かえって面食らうか、甘いもんだと教員をバカにするかどっちかだろう。

そんなこんなで、この時期は憂鬱な気分で過ごすそうだ。大学の教授も大変だな、と思ったが、いっそのこと、試験も評価もなくしてしまえば良いのにとも思った。「意味ないじゃん」という声が聞こえそうだ。そんなことに気を配ったって、だれも褒めてくれないよ、と言うと、「まあな」とわけのわからない返事が返ってきた。
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