2013年8月15日木曜日

終戦の日

68回目の終戦記念日。日本の独立が回復して61年目の年。

もう、そんなに経ったのか、と言ってよいのか、まだ、それしか経っていないのか、と言ってよいのか。日本はずいぶん変わった、と言ってよいのか、ちっとも変わっていない、と言ってよいのか。幼稚で考え無しのような発言を繰り返す個人や集団に国を任せているところは、昔も今も変わっていないと言えるのではないだろうか。

発言や行動が実に「軽い」政治家や評論家ばかりが表に出ている。知恵も無ければ心情も無い。知ったかぶりで得意げに話すが、その内容は軽薄で、幼児的である。

戦没者を慰霊することは当然のことであり、その家族に深く哀悼の意を表することも、また当然のことである。しかし、そのことと、日本のために戦って散ったと軍神として崇め奉り、英霊を祀ることを国民の責務のごとくに語り、行動することとは大違いである。

死に追いやり、犠牲を強いた側に対して目を向けずに、あたかもそれと同じ側に立っているかのように、そして、いわれのない理由で死に追いやられ、犠牲を強いられた人々の無念さや悲しみを慮ることなしに、“よくやった”、“ありがとう”、“お前たちは偉い”とばかりに、遺族が涙する中で平然と浅知恵を披瀝する厚顔無恥さに怒りを覚える。

真剣に学んだことも考えたこともなく、親の経済力と七光りだけで大手を振って歩いてきたような輩には期待しても無駄なことかもしれないが、なんで、“国民が悲しむのを見ることはつらい”、“もう戦場に国民を送るようなことは絶対にしない”と言えないのか。それこそが英霊に対して誓うべきことではないのか。国を守るというのは民を守るということではないのか。民を犠牲にして何を守ろうというのか。

かつて高橋和巳は『散華』を著し、それに対して小田実は『難死の思想』を対置させた。若かりし頃、この二つの言葉-散華と難死-に接したときの衝撃を私は思い出す。

戦争で戦って死ぬことを賛美することほど愚かなことはない。そして、そのことを強制することほど残酷なことはない。

軍神だとか英霊だとか言って戦死者を華々しく称える人々や集団は、二度と国民に犠牲を強いたり、残虐な行為を強制させるようなことをさせないために尽力すると言うようなことは一言も言わない。ちなみに以下を覗いてみて、人々はどのような感想を持つだろうか。

http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/
http://eireinikotaerukai.com/

安倍首相は、今年の戦没者慰霊式で、「世界の恒久平和に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう全力を尽くす」と述べたという。日頃の言動からして、とても本心とは思えない。

外国の批判を配慮して終戦の日に靖国参拝をやめて、玉串料だけを払ったという。こういうのを子ども騙しというのではないだろうか。外国の批判を配慮して、ということは、自国の国民はすべて靖国神社に参拝に行って欲しいと思っていると決めつけていることになる。

テレビのニュースで、首相が靖国参拝を延期したことに対して感想を求められた若者が、興奮気味に、何で行けないのか、首相でしょう、と語気強く語っていた。何もわかっていない若者に唖然とした。こういう状況が浅知恵で見栄っ張りだけの輩の暴走を許してしまうのだ。残念ながら、そうした若者だけではなく、無知蒙昧な中高年や老人も、また少なくないことが、日本をいよいよ危うくさせている。

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