2014年11月25日火曜日

アベノミクス解散とやらに老人はどう対応しようか

内閣が解散して衆院選挙が行われる。安倍首相は、「アベノミクス解散」だと見得を切ったが、聞いた方は、「アベノミクス」は解散=おしまい、ということかと思った。

アベノミクスは、「安倍 のみ クスクス 笑う」とか「安倍 のみ くすねる」、はたまた「あべのハルカス」をもじったものかと思っていたので、もう、そうした冗談をおしまいにして、真面目に政治に取り組むことを宣言したのかと思った。

まあ、これは出来の悪い駄洒落だが、アベノミクスというのは、かつてアメリカ大統領レーガンが進めた経済政策に対して名付けられた造語であるレーガノミクスを真似たものだ。

レーガノミクス - レーガン(Reagan)と経済(economics)をくっつけてレーガノミクス(Reaganomics) - は、アメリカの三大放送ネットワークの一つであるABC(American Broadcasting Companies Inc.:アメリカ放送会社)の当時のラジオ・キャスターであったポール・ハーベイ(Paul Harvey)が作った言葉とされている。レーガンの経済政策ということだから、アベノミクスは、安部の経済政策ということになる。

それが、どんな政策かは内閣府が詳しく説明している。三本の矢だの日本再興戦略だの財政健全化だ何だのと言っているが、おそらく、財政を更に悪化させて国民の生活を混乱させ、将来に大きな付けを残すことになるだろう政策ばかりだ。

アベノミクスという言葉を誰が最初に使ったかということについては、それが下手な捩(もじ)り、パロディにしか感じないので関心もないが、首相自らがアベノミクス解散と言うのだから、本人はアベノミクスという言葉をえらく気に入っているのだろう。

レーガノミクスReaganomicsは、レーガンという苗字とエコノミクスという言葉が素直につながるが、アベノミクス(Abenomics)は安倍(Abe)という苗字とエコノミクス(economics)の間に「の」を挟んで無理矢理つなげたものだ。だから、「アベのミクス」と書くのが正しい(こんなことに正しいとか正しくないというのもおかしいが)。

安倍とエコノミクスを素直につなげれば、「アベコノミクス」(Abeconomics)となるはずだ(どうでもいいことだが)。実際、外国では、Abeconomics(アベコノミクス)も使われている。でも、これだと、「安倍好み薬(くす)」や「安倍好み屈(く)す」、「安倍子のミックス」とも読めるから、使いたくないのかもしれない(穿ち過ぎか)。ちょっと訛(なま)れば、「安倍好み屑」(アベコノミクズ)や「安倍好み愚図」(アベコノミグズ)にもなる。何か現在の経済状況というか内閣の陣容を象徴しているようで寒気がしてきた。   

ともあれ、内閣解散ということになれば選挙だ。12月2日公示-14日投票と決まった。国会議員はこれから大忙しだろう。選挙費用もかかるだろう。かつて「勝手連」なんて銘打って候補者に依頼されたわけでもないのに選挙応援をしたグループもあったように、手弁当で応援する有権者などもいるのかもしれない。

総務省が発表している行政事業レビューシートによれば、平成21年8月30日に実施した第45回衆議院議員総選挙に国が支出した費用は598億8,440万円だ。金の流れは以下の図のようになっている。

総選挙を一回やるのに600億円はかかるということだ。今回の選挙では、どれくらいの予算を計上しているのだろう。東京新聞には、「総選挙事務700億円 貴重な一票忘れずに」という見出しの記事が掲載されていて、「この三年間で千九百億円程度の税金が選挙事務に費やされることになる」と書かれている。棄権することは、その費用を無駄にするということだが、投票率の上下で費用が変わるのだろうか。

ためしに身近な何人かに、「今度の衆院選にどれくらい経費がかかると思う」と聞いてみたところ、「そりゃ、何千万もかかるだろう」とか「そんなもんじゃ済まないだろう。5億はいくだろう」、「いやー、10億くらいじゃないのか。選挙には金がかかるんだよ」という返事が返ってきたが、600億円とか700億円とか聞いてビックリしていた。

「うそだろう。そんな大金を選挙に使えるんなら、震災復興でも何でもすぐにでもできるだろう」と侃々諤々の議論が始まった。いまは、選挙に大金を使う時期ではない、という議論が国会でされたかどうか記憶にないが、「アベノミクス解散には随分と金がかかることよ」ということで、「言っていることとやっていることとが全く合ってねーだろう」とか「これでデフレを促進かよ」と文句たらたらの時間が過ぎた。

選挙のたびに投票率が発表されて、前回より上回ったとか下回ったとか議論されるが、老人は、どの選挙でも投票によく足を運んでいる。下の図は、明るい選挙推進協会が発表している衆議院議員総選挙投票率の推移(中選挙区・小選挙区)で、その次の図は年齢別の投票率を示したものだ。

 
平成24年12月16日に行われた衆院選での平均投票率は59.32%だったが、60代は74.93%、50代は68.02%と平均を大きく、といってよいほどに上回っている。70歳以上になると病弱などの理由から選挙ことに行けない有権者が増えるためか50~60代よりも投票率が下がる。それでも63.30%と20~40代の投票率を上回っている。平均投票率を押し下げているのは20~30代ということになる。
 
下の図は、2013年7月21日に行われた第23回参議院選挙の年齢別投票率である。年齢が上がるほど投票率が高くなっていることが一目瞭然である。70代でも投票率は高く、80代になると急激に低下するが、それでも20代の投票率よりも高い。
 
 
上の図と一緒に掲載されている年齢階層別有権者数・投票者数・投票率の表を使って、年齢層ごとに有権者に占める割合(有権者比率)と投票率を掛けて各年齢層が選挙に与える影響力みたいなものを作成してみた(下の表)。
 
 
20代の影響力は60代の3分の1でしかない。80歳以上と同程度である。30代でも60代の半分である。こと選挙に関しては、高齢層が圧倒的に優勢である。そして、選挙への影響力が拮抗する年齢階層として、20~50代と60代以上とに二分することができそうである。大雑把に言って、働く世代(現役世代)と退職世代(年金世代)とが選挙への影響力という点で拮抗しているということである。しかし、こうした図式も近い将来には崩れることになるだろう。
 
最新の人口推計(2014年11月1日現在)では、日本の総人口は1億2,708万人(概算値)で、そのうち有権者(20歳以上)は1億485万人である。総人口の82%が有権者ということになるが、有権者総数に占める年齢階層別割合は、20代が12.3%、20~30代が27.6%、20~40代が45.2%、50代が14.7%、60歳以上が40.1%、65歳以上が31.6%である。少子・高齢化が進んでいるので、今後は、有権者の高齢化がもっともっと進み、そんな遠くない時期に、有権者の半分は高齢層で占められることになる。有権者を18歳以上にしても、少子化が進んでいるので、高齢層が占める割合にはほとんど変化はないだろう。
 
有権者比率が低い上に投票率が低いのでは、若年層は今後ますます選挙を通しての政治参加から置いてけぼりをくうことになる。選挙は、有権者比率が大きく、投票率も高い高齢層を中心に回っていくことになる。
 
高齢層中心の選挙になってしまうとはいうものの、現在の高齢層も若いときには投票率が低かったのかもしれないから、若者の投票率が低いからといって非難することも問題にすることもできないかもしれない。これまでの選挙が示している年齢別投票率の結果は、年をとるにつれて多くの人が投票にいくようになることを教えているのかもしれない。選挙って、そんなものかもしれない。だからといって、それでかまわないとか、仕方がないというわけではない。
 
そこで、老人の登場、と言いたいのである。選挙が高齢層中心になってしまうのは、少子・高齢化が進む社会では避けることができない現象である。だから、老人は、選挙では若者の分までしっかりと考えて投票しなければならないということなのである。老人の一票は、かつてとは比べものにならないほど重くなったことを老人は自覚しなければならないのである。
 
老人だからといって、老人に利益になることばかりを考えて政策や候補者を選んではいけないということである。もちろん、年金や医療、介護など老人の生活に直結する政策の充実は重要であるが、現在の若者もいずれ年をとるのだから、将来を見据えた社会保障政策が進められているのかどうかを見極めなければならない。
 
現在の高齢世代のためだからといって、現在の若年世代に負担を負わせたり、将来の高齢世代のためだからといって現在の高齢世代に我慢を強いるような政策は子どもでも考えつく稚拙な策であり、政治の舞台で活躍しようと立候補し、選挙で選ばれようとする人間のすることではない。
 
真に選良(せんりょう:すぐれた人を選び出すこと。また、その選ばれた人。特に、代議士をいう-広辞苑)たらんとするならば、凡人が為し得ないことを為そうとしなければならない。老人には、そのことを見極める眼力が求められているのである。そして、そうした眼力を発揮すれば、選挙結果をいくらでも左右できるだけの勢力に老人はなっているのである。
 
60歳以上人口3,310万人の投票率が70%だとすると、2,317万人が投票所に足を運ぶことになる。すごい数である。仮に、その人たちが一人毎年1,000円を寄付すれば、総額は年に230億円になる。政治活動費として一人1年1億円としても、230人を国会に送り込むことができる。せいぜい頑張ってもらうために活動費を年に2億にしても115人の国会議員を抱えることができる。優れた政治家を育てることも老人は考えなくてはいけないだろう。
 
わけのわからない解散のために選挙費用600億円が使われる。有権者一人あたり572円になる。700億円かかるとすると有権者一人あたり667円になる。選挙のたびに小金ををむしり取られているようなものだ。そのことを考えれば、優れた政治家を支えるために、年に1,000円を出し合って新たな政党を作った方が、ずっとましな気がする。
 
投票率が前回同様の59.32%だとすると、投票に行く人は6,219万7,020人で、投票に行かない/行けない人は4,265万2,980人ということになる。投票に行かない/行けないからといって政治に関心がないとは言えないかもしれないが、投票に行く人は、投票に行かない/行けない人の分まで考えて投票するしかない。そうすることが、知性も工夫も優しさも何もないような政策を得意顔で進めている政治家と官僚に、そして、おちゃらけ気分でワイドショーに出演して、鵜飼いの鵜が一度口にした鮎を飲み込むこともなく、すぐ吐き出すように、仕入れたばかりの知識を消化することもなく吐き出しては経済と政治について知ったかぶりで話しては高額の出演料をせしめている連中に鉄槌を下すことにつながるのではないだろうか。
 
老人よ、団結して立ち上がれ!なんて言っても無理かな~。かえって石がとんでくるかな・・・。
 
<追記>
下記の川柳を某新聞社に投稿したが、没にされたので、ここに記しておく。自分ではとても気に入っているのだが・・・
 
効くのかい 誰が薦めた 安倍飲み薬きくのかい だれが すすめた アベノミクス) 「薬」(くすり)は、「くす」とも読む。

2014年11月4日火曜日

今年2回目のユーザー車検に行ってきた

今年の3月にユーザー車検に行ってきたことをこのブログに書いたが、主に家族が使っているもう一台の車が今月末に車検切れになるので、今日、またユーザー車検に行ってきた。

ちなみに、「今年の3月にユーザー車検に行ってきたことをこのブログに書いた」という上の文章は、いろいろな読み方ができるので悪文である。「今年の3月にユーザー車検に行ってきた」ことを「このブログに書いた」のか、「ユーザー車検に行ってきたことを」、「今年の3月に」、「このブログに書いた」のか一読しただけではわからないからだ。伝えたいことは、「今年の3月にユーザー車検に行ってきたこと」を「今年の3月にこのブログに書いた」ということなのだが、上の文章では、読み手にそのようには伝わらないかもしれない。一つの文章が複文になっているからである。

複文とは、一つの文章の中に、主語と述語で構成される単文が複数含まれている文章を言う。辞書では次のように説明している。

主節と従属節から成る文。主節の一部に従属節が含まれている文。「誰もが雪が降ると思っている」、「雪が降ると、電車が止まる」、「雪が降る日は寒い」の類で、「雪が降る」が従属節でそれ以外が主節。(広辞苑)

構造上からみた文の種類の一。主語・述語の関係が成り立っている文で,さらにその構成部分に主語・述語の関係がみられるもの。「花の咲く春が来た」の類。(大辞林第三版)

では、どのように書けばすんなりと真意が伝わるか、試しに書き換えてみる。

(1)今年の3月にユーザー車検に行ってきた。そのことを、同じ月にブログに書いた。
(2)今年の3月にユーザー車検に行ってきた。すぐにそのことをブログに書いた。

このように、2つの単文に分けて書いた方が読む方に誤解されずに済むだろう。あるいは、「ユーザー車検に行ってきたことを今年の3月にこのブログに書いた」のように書いてもいいかもしれない。ふつうは、ずっと昔にユーザー車検に行ったことを、ずっと後になってブログに書いたりはしないだろうから、今年の3月にユーザー車検に行ってきたんだな、と読者は読み取ってくれると思う。または、「ユーザー車検に行ってきたのは今年の3月13日で、そのことを当日のブログに書いた」とすればいい。もっとも、こんなことを書き連ねないで、推敲した後の文章を認(したた)めればよいことだと言われそうだが、わかりやすくて、誤解/誤読されない-文章を書くことは難しいことだと常々思っているので、つい、話が横道にそれてしまった。

さて、話を戻すことにする。今回ユーザー車検にもっていったのは、平成23年登録の軽ワゴン車で、走行距離は23,700Kmである。数日前にはオイル交換を済ませておいた。昨日は、2時間ほどかけて、エンジンルームの清掃やタイヤ、下回り、ワイパーの点検を行い、車体の汚れを落とした。エンジンルームには土埃(つちぼこり)がけっこうたまっている。水に濡らしたぼろ布で拭き取っていくと、購入時のようにきれいになった。ボンネットの隙間(すきま)には、松葉などの枯れ葉も挟まっていて、取り去るのにけっこう手間がかかってしまった。ウィンドウ・ウォッシャー液を補充する。クーラントが必要量の下限までしか入っていなかったので、近くのホームセンターに行って補充液を税込み150円で購入し、そのホームセンターの駐車場でボンネットを開けて補充する。ピッタリ上限まで入った。

予約はインターネットで先月末にしておいたが、予約していなければ受検できないわけではない。11月の上旬という“中途半端な時期”のせいか、車検場は混んでいなかったことと、3月に車検を受けた軽自動車は平成10年登録の“大古車”だったが、今回のは登録後3年の初回車検なので、特に不具合などもなく検査では何も指摘されることないだろうから短時間で帰れるな、と思って気が楽になった。

記入用紙を60円で購入し、重量税6,600円と検査手数料1,400円を支払う。自賠責保険料が26,370円。その合計34,430円が今回の費用。自賠責保険料が費用の77%を占める。車の所有者は、任意保険と自賠責保険と2つの保険に入っているのがふつうだが、車の保険料の仕組みもよくわからない。

用紙に必要事項を記入する。何回ユーザー車検をやっていても、書類の記入漏れを毎回のごとく犯してしまう。特に記入用紙がややこしいわけではないが、いくつかの書類に同じようなことを記入するので、つい見落としてしまう。今回も、受付の女性が親切丁寧に赤鉛筆で記入漏れ箇所をマークしてくれて、無事、書類完成。「初めてですか」と聞かれたので、「何回もやっていますが、いつも緊張して」と答えると、ニコニコと笑いながら、「では、コース1から入って下さい。不安なら、ラインを見学してからにしたらどうですか」と言ってくれた。礼を言って、コース1の車列に並ぶ。この車検場は2つのコースがあり、コース2には、整備士の持ち込み車やユーザー車検でも慣れた人の車が並ぶ。私は、いつもコース1に並ぶ。

コース1に車を入れて待つが、車列が全然動かない。何かトラブルでもあったのかと思ったが、そうではなく、検査員の交代時間であったために、検査ラインが動いていなかったのだ。そのため、20分間待つことになった。交代時間があることを知らなかったが、検査ラインの入り口に交代時間が書いてあった。そのことを知っていた受検者は、車を車列に置きっぱなしにして、外へ出てタバコを吸ったり、書類を持って事務所を往復していた。慣れている人の行動である。

ラインに入ると、まずは検査員が車体全体を点検する。指示に従ってボンネットを開け、一度車外へ出る。検査員が懐中電灯を照らしてボンネット内を点検し、車内も点検する。ウィンドウ・ウォッシャーを出してワイパーを動かす。モタモタしていると、ここでも「初めてですか」と聞かれた。「何回もやっていますが、いつも緊張して」と同じように答える。マスクをした検査員は、うんうん、と頷(うなず)きながら、「では、前に進んで」と言う。前方の電光掲示板と音声の指示に従ってラインを進む。別の検査員が付き添うようにして優しく指示してくれた。

この車には、車内に光軸を何段階かに調整するダイヤルが付いている。乗り始めの頃は、おもしろがって目盛りの位置を色々と変えてみた。その後は2にしていたのだが、その目盛りを0にして計測するのだと検査員がダイヤルを回してくれた。ライトを上向き(ハイビーム状態)にしての光軸検査で、〇(まる)ではなく✕が表示された。「あれ?」と思った。検査員も首をかしげるような様子で、もう一回検査してくれたが、やはりダメだった。不合格である。

ジャッキアップされての下回り検査が終了してラインから出ると、「光軸を調整して再検査を受けて下さい。4時までです。次の日になると検査料を再度払うことになります」と検査員に言われた。ガッカリしてしまったが、早速、検査場近くにある大手カー用品店に行き、調整してもらう。税込みで2,160円だった。車検場に戻って、再度コース1に入る。光軸の再検査であることを伝えると、検査員はわかっているといった様子であったが、再検査でもボンネットの中は再度点検するとのことだった。その後は光軸検査だけを受けて、無事合格。新しい車検証と検査標章(ステッカー)をもらい、帰途についた。

今日は短時間で終わると思ったが、豈図(あにはか)らんや、2時間もかかってしまった。これで、今年も2台のユーザー車検を終えた。ユーザー車検に行くことは、私にとっては常に挑戦-チャレンジ-であり、冒険である。しかも失敗を重ねている挑戦であり、冒険であるが、こりずに挑戦しつづけているのは、車好きで、おっちょこちょいだからかもしれない。また、2年後に挑戦するのを楽しみにしておくことにしよう。

2014年11月2日日曜日

高齢者の社会参加とボランティア活動についての雑感

最近とみに高齢者の社会参加やボランティア活動が語られているようだ。けっこなことだとは思うが、一体何のために、そうしたことがしきりに語られるようになったのか、高齢者である私には今一(いまいち)わからない。

社会参加、社会参加っていうけど、社会参加って、どゆこと? と社会参加ということから、まず、よくわからない。「社会参加しなさい」と言われるということは、高齢者は社会参加していないからけしからん、ということなのだろうか。それに、誰が、何のために、社会参加、社会参加と盛んに煽(あお)っているのか、なんだか胡散臭い感じがする。

社会参加って、社会に参加することなんだろうから、ふつうに生活していれば社会に参加していることではないのか、と凡人である私は思うのだが、どもそうではないらしい。それ以上の何かをすることらしいが、ふつうに、というか、年金の中から税金や保険料をちゃんと払って、それなりに精一杯生活していることは立派な社会参加ではないのか、と言いたくなるのは私だけなんだろうか。

何か色々やって目立っていないと社会参加していない老人と非難の的になってしまいそうだが、敢えて引きこもったり隠遁生活をしようとしているわけではない。人付き合いも下手な方だし、何か特技といわれても思いつかないし、体力には自信がないし、いまの高齢者は元気だなんていわれるけど、そんな実感もない。そんなわけで、何か目立つことなんか自分には無縁のことと思っているし、ましてや社会貢献などという大それたことを考えたこともない。言ってみれば、ダメ老人の典型かもしれない。

高齢者のボランティア活動が取り上げられることも多く、社会参加っていうとボランティア活動をすることのようでもある。ボランティア団体もけっこう沢山あるらしい。どんなことをしているのか詳しくはわからないが、ボランティア活動をしている高齢者はえらいなーと正直に感心する。

私も、在職中に町内会の役員をやったことがある。順番で回ってきた役割だから自分の意志ですすんでやったわけではないのでボランティア活動とはいえないが、町内にある公園の清掃や火の用心の夜回り、盆踊りの開催、町内広報誌の発行やホームページの作成等の手伝い、毎月2回の常会への出席など、けっこう色々と忙しかった。いまでも町内一斉大掃除などのときには公園などへ行って草刈りをしようと思うのだが、そういうときに限って朝寝坊をしてしまい、たいては妻に任せている。こうしたことも、社会参加をしていない、ということになってしまうのかもしれない。

高齢者大学とかカルチャースクールとか何とか似たような名称の学習の場があっちこっちにあることも知っている。私はそうしたところで学んだことはないが、案内のチラシは図書館などでけっこう目にする。そういうところに行って学ぶことも社会参加らしい。とてもよいことだとは思うが、不精者の私には、そうしたところに継続して通ったりすることは、とてもできそうにない。

絵画教室や陶芸教室なども人気があるそうだ。そうした教室に通っている高齢者の作品が図書館や公民館などで展示されていることがある。制作した方々は、一生懸命に打ち込んで仕上げた作品が展示されて達成感や満足感を味わっていることだろう。それはそれで素晴らしいことだと思う。だから、別に言いがかりをつけるつもりは毛頭ないが、正直に言って、同じ高齢者として、見るに堪えないような作品を堂々と人目に晒(さらす)す度胸には感心する一方で、何となく悲しくなる。

以前、テレビで視たのだが、タイの動物園だったか、絵を描く象が紹介されていた。鼻で絵筆を持って(持ってと言っていいのかな)、それはそれは象とは思えないほどに上手に、見事に描く。象が描いているとは思えない。署名までするのだから、もう、それこそ、恐れ入谷の鬼子母神といったところだ。その絵が高値で売れるそうだ。同じような絵を人間が描いたのでは誰も興味を示さないが、象が絵を描くなんてふつうは誰も考えないから、象が描いた絵は、まさに、象形(ぞうけい:造形)芸術であり、“すごいぞう”ということになるわけだ。象が絵を描いて人々の興味をひくことと、プロではない素人の高齢者が絵画や陶器を制作して展示することとがダブってしまった。

私から見ればとんでもなく長生きの超高齢の方の中に、とてつもなく達者で、本格的にスポーツをするなどビックリするほど活動的な方もいる。そうした人たちが紹介されるのを見ると、ふつうの高齢者ではとてもできないことだと驚いてしまうし、まだ高齢者の仲間入りをして日の浅い私でさえそんなのは無理、と大いに感心するが、同時に、猿やイノシシ、犬、イルカなどがあたかも人間がするような芸をするのを見たときに、動物なのに何てすごい、と感心して見入ってしまうこととがダブってしまう。

“物珍しさ”というか珍しい物を見たときに感じる興味であり、驚きであり、感心であるということかもしれない。こんな感想を抱く私は社会参加の素晴らしさをちっともわかっていないダメ老人ということになるかもしれないが、あれこれと思いをめぐらせながら、高齢者に社会参加やボランティア活動が呼びかけられる理由を考えてみた。

健康にいいとか、元気になれるとか、仲間ができるとか、家に引きこもってばかりいるとよくないからとかいうのは、よく聞くことである。社会参加している高齢者は健康度も上昇するとか生活満足度も高いといったようなことを学者が研究で明らかにした、というようなことも聞く。何となくわかるような気もするし、そうなんだろうと思うし、学者もたいした研究をしていないとも思う。まあ、そうした研究結果は当たり障りがないし、毒にも害にもならないし、日常的経験に照らして素人にもわかりやすい。

そうした理由は、社会参加はいいものだ、だから社会参加すべきだ、と高齢者を納得させるにはいいかもしれないが、もし、高齢者全員がその気になって、俺も私もと社会参加だボランティアだと活動しまくったら、どうなるんだろう。ちょっと想像できないが、異様な風景になるかもしれない。

そして、それが、趣味や娯楽、ごくごく身近な助け合いや行政の手伝いの域を超えて、本気になって社会の矛盾や政策の不備を暴き出して社会変革を目指そうとする動きになったら、どうなんだろう。高齢者に社会参加を求めたりボランティア活動を奨励する側は、そんなことにはならないと高を括(くく)っているから、色々な機会に社会参加やボランティアを口にしているのかもしれない。

国や都道府県、市町村が-といっても、都道府県や市町村は国の方針に従っているだけだろうが-高齢者の社会参加やボランティア活動を積極的に推し進めていることも、考えてみれば不思議なことだ。行政が言う社会参加は、行政のお手伝いをすることのようだ。いまや、中央も地方も行政計画の中にあらかじめボランティア活動を組み込んでいる。「そういうことはボランティアでやってもらわなければ困る。役所は、全部が全部できないんだから」というのが役人が高齢者に求める社会参加であり、ボランティア活動なのである。役人の思い上がりも甚だしいと思うが、そうした求めに応じて得意げに社会参加とかボランティア活動とかを高齢者に奨励する団体や組織がけっこうあるのも違和感を感じる。

だいたいが、省庁や都道府県、市町村の役所・役場といった行政機関は、国民、住民の信託を受けて事業・業務を執行する責務を担っているのだから、「役所は、全部が全部できないんだから」といったような言い訳は通用しないはずである。国民、住民は、そのために、税金の使い方を一任しているわけだから、役所でできないというのは、行政計画が杜撰(ずさん)で工夫が足りないか、役人に行政能力が欠けているということである。そんなことを言う役人なら、役所を辞めて自らがボランティア活動に邁進しろと言いたい。

高齢化が進み、労働力人口が減少し、年金受給者が増加して社会保障費の支出額が今後も増え続ける。景気のいいときには高齢社会対策と銘打って大盤振る舞いをしてきたが、景気後退が長い間続いた過程で高齢化と少子化がどんどん進み、年金や医療などの社会保障関係費が膨れあがってきた。かつては不法集団の生業(なりわい)であった労働者派遣事業を広く適法化したことからピンハネが“立派な会社”の“立派なビジネス”となって、派遣会社が次々と作られて派遣社員や非正規社員が大量に作られるようになった。派遣社員や非正規社員は、正規社員に比べて賃金が低く抑えられているから、国の所得税収入や保険料収入も当然減少する。

そうした政策の付けが回ってきたということだ。別の言い方をすれば、自らの失政が招いたことなのに、そうしたことへの反省とか総括ぬきに、高齢者は財政の負担になっているから、財政の負担にならないようにがんばらなければならないと言っているということだ。高齢者に求められている社会貢献とは、要するに、財政に負担をかけないということだ。

高齢になっても元気で活躍できることは良いことに決まっているし、誰しもが、そう願っているはずだ。実際に、そういう人もいる人が、そんな人は高齢者全体から見れば、ごくわずかである。個人が努力していることはもちろんのことだが、それだけではない。色々な条件に恵まれていないとできないことだ。高齢期になったから、さてやるか、と意気込みだけでできることではない。だから、華々しく活躍している高齢者を見せられても、自分もそのようであったらいいなと思ったとしても、自分には無縁の物珍しい存在として、絵を描く象や動物離れした動物を見て感心するのと同様の感想を抱くのである。

社会参加やボランティア活動にケチをつける気持ちは毛頭ない。そうしたことに一生懸命になっている人たちには心底敬意を払う。その人たちの行っていることが社会に大いに貢献していることや、その活動を必要としている人たちにとって、とても役立っていることも重々理解している。わたし自身も、ひとが感心するほどのことではないかもしれないが、社会参加に心がけ、なんちゃってボランティア活動もちょこちょことすることもある。そのことが生きがいだとか健康に良いとか考えたこともないし、とくに他人を誘って何かをするということもしてはいない。これが、ふつうの高齢者の日常生活なのではないかと思うが、どうだろうか。

助け合いや身近でできることをすることは人間として当然のことであり、そうしたことは、目立つことはないが日常的にどこでも行われていることである。それらの幾つかを取り上げて、あたかも素晴らしい事例のごとくに褒(ほ)め称(たた)えて、「ほら、このように自分たちで上手にやっている人たちもいるんですよ。みなさんも、ぜひ、そうして下さいね」と言わんばかりに行政業務の負担軽減を図ろうとする役人の思惑に腹が立つのである。

高齢者は、経験を活かし、見識を発揮して、現実を広く見つめて、自分のことや自分の世代のことだけではなく、次の世代のことを考えて、社会のご意見番として機会があるごとに、もっともっと発言し、行動してほしいと思う。そうすることこそ社会参加であり、社会貢献であると私は思う。

国や都道府県、市町村が高齢者の社会参加やボランティア活動を大々的に奨励するのはなぜか、そして、そうしていることは妥当で適切なことなのか、ということを、もう少し考えてみることも必要ではないかと私は思っている。