2014年11月2日日曜日

高齢者の社会参加とボランティア活動についての雑感

最近とみに高齢者の社会参加やボランティア活動が語られているようだ。けっこなことだとは思うが、一体何のために、そうしたことがしきりに語られるようになったのか、高齢者である私には今一(いまいち)わからない。

社会参加、社会参加っていうけど、社会参加って、どゆこと? と社会参加ということから、まず、よくわからない。「社会参加しなさい」と言われるということは、高齢者は社会参加していないからけしからん、ということなのだろうか。それに、誰が、何のために、社会参加、社会参加と盛んに煽(あお)っているのか、なんだか胡散臭い感じがする。

社会参加って、社会に参加することなんだろうから、ふつうに生活していれば社会に参加していることではないのか、と凡人である私は思うのだが、どもそうではないらしい。それ以上の何かをすることらしいが、ふつうに、というか、年金の中から税金や保険料をちゃんと払って、それなりに精一杯生活していることは立派な社会参加ではないのか、と言いたくなるのは私だけなんだろうか。

何か色々やって目立っていないと社会参加していない老人と非難の的になってしまいそうだが、敢えて引きこもったり隠遁生活をしようとしているわけではない。人付き合いも下手な方だし、何か特技といわれても思いつかないし、体力には自信がないし、いまの高齢者は元気だなんていわれるけど、そんな実感もない。そんなわけで、何か目立つことなんか自分には無縁のことと思っているし、ましてや社会貢献などという大それたことを考えたこともない。言ってみれば、ダメ老人の典型かもしれない。

高齢者のボランティア活動が取り上げられることも多く、社会参加っていうとボランティア活動をすることのようでもある。ボランティア団体もけっこう沢山あるらしい。どんなことをしているのか詳しくはわからないが、ボランティア活動をしている高齢者はえらいなーと正直に感心する。

私も、在職中に町内会の役員をやったことがある。順番で回ってきた役割だから自分の意志ですすんでやったわけではないのでボランティア活動とはいえないが、町内にある公園の清掃や火の用心の夜回り、盆踊りの開催、町内広報誌の発行やホームページの作成等の手伝い、毎月2回の常会への出席など、けっこう色々と忙しかった。いまでも町内一斉大掃除などのときには公園などへ行って草刈りをしようと思うのだが、そういうときに限って朝寝坊をしてしまい、たいては妻に任せている。こうしたことも、社会参加をしていない、ということになってしまうのかもしれない。

高齢者大学とかカルチャースクールとか何とか似たような名称の学習の場があっちこっちにあることも知っている。私はそうしたところで学んだことはないが、案内のチラシは図書館などでけっこう目にする。そういうところに行って学ぶことも社会参加らしい。とてもよいことだとは思うが、不精者の私には、そうしたところに継続して通ったりすることは、とてもできそうにない。

絵画教室や陶芸教室なども人気があるそうだ。そうした教室に通っている高齢者の作品が図書館や公民館などで展示されていることがある。制作した方々は、一生懸命に打ち込んで仕上げた作品が展示されて達成感や満足感を味わっていることだろう。それはそれで素晴らしいことだと思う。だから、別に言いがかりをつけるつもりは毛頭ないが、正直に言って、同じ高齢者として、見るに堪えないような作品を堂々と人目に晒(さらす)す度胸には感心する一方で、何となく悲しくなる。

以前、テレビで視たのだが、タイの動物園だったか、絵を描く象が紹介されていた。鼻で絵筆を持って(持ってと言っていいのかな)、それはそれは象とは思えないほどに上手に、見事に描く。象が描いているとは思えない。署名までするのだから、もう、それこそ、恐れ入谷の鬼子母神といったところだ。その絵が高値で売れるそうだ。同じような絵を人間が描いたのでは誰も興味を示さないが、象が絵を描くなんてふつうは誰も考えないから、象が描いた絵は、まさに、象形(ぞうけい:造形)芸術であり、“すごいぞう”ということになるわけだ。象が絵を描いて人々の興味をひくことと、プロではない素人の高齢者が絵画や陶器を制作して展示することとがダブってしまった。

私から見ればとんでもなく長生きの超高齢の方の中に、とてつもなく達者で、本格的にスポーツをするなどビックリするほど活動的な方もいる。そうした人たちが紹介されるのを見ると、ふつうの高齢者ではとてもできないことだと驚いてしまうし、まだ高齢者の仲間入りをして日の浅い私でさえそんなのは無理、と大いに感心するが、同時に、猿やイノシシ、犬、イルカなどがあたかも人間がするような芸をするのを見たときに、動物なのに何てすごい、と感心して見入ってしまうこととがダブってしまう。

“物珍しさ”というか珍しい物を見たときに感じる興味であり、驚きであり、感心であるということかもしれない。こんな感想を抱く私は社会参加の素晴らしさをちっともわかっていないダメ老人ということになるかもしれないが、あれこれと思いをめぐらせながら、高齢者に社会参加やボランティア活動が呼びかけられる理由を考えてみた。

健康にいいとか、元気になれるとか、仲間ができるとか、家に引きこもってばかりいるとよくないからとかいうのは、よく聞くことである。社会参加している高齢者は健康度も上昇するとか生活満足度も高いといったようなことを学者が研究で明らかにした、というようなことも聞く。何となくわかるような気もするし、そうなんだろうと思うし、学者もたいした研究をしていないとも思う。まあ、そうした研究結果は当たり障りがないし、毒にも害にもならないし、日常的経験に照らして素人にもわかりやすい。

そうした理由は、社会参加はいいものだ、だから社会参加すべきだ、と高齢者を納得させるにはいいかもしれないが、もし、高齢者全員がその気になって、俺も私もと社会参加だボランティアだと活動しまくったら、どうなるんだろう。ちょっと想像できないが、異様な風景になるかもしれない。

そして、それが、趣味や娯楽、ごくごく身近な助け合いや行政の手伝いの域を超えて、本気になって社会の矛盾や政策の不備を暴き出して社会変革を目指そうとする動きになったら、どうなんだろう。高齢者に社会参加を求めたりボランティア活動を奨励する側は、そんなことにはならないと高を括(くく)っているから、色々な機会に社会参加やボランティアを口にしているのかもしれない。

国や都道府県、市町村が-といっても、都道府県や市町村は国の方針に従っているだけだろうが-高齢者の社会参加やボランティア活動を積極的に推し進めていることも、考えてみれば不思議なことだ。行政が言う社会参加は、行政のお手伝いをすることのようだ。いまや、中央も地方も行政計画の中にあらかじめボランティア活動を組み込んでいる。「そういうことはボランティアでやってもらわなければ困る。役所は、全部が全部できないんだから」というのが役人が高齢者に求める社会参加であり、ボランティア活動なのである。役人の思い上がりも甚だしいと思うが、そうした求めに応じて得意げに社会参加とかボランティア活動とかを高齢者に奨励する団体や組織がけっこうあるのも違和感を感じる。

だいたいが、省庁や都道府県、市町村の役所・役場といった行政機関は、国民、住民の信託を受けて事業・業務を執行する責務を担っているのだから、「役所は、全部が全部できないんだから」といったような言い訳は通用しないはずである。国民、住民は、そのために、税金の使い方を一任しているわけだから、役所でできないというのは、行政計画が杜撰(ずさん)で工夫が足りないか、役人に行政能力が欠けているということである。そんなことを言う役人なら、役所を辞めて自らがボランティア活動に邁進しろと言いたい。

高齢化が進み、労働力人口が減少し、年金受給者が増加して社会保障費の支出額が今後も増え続ける。景気のいいときには高齢社会対策と銘打って大盤振る舞いをしてきたが、景気後退が長い間続いた過程で高齢化と少子化がどんどん進み、年金や医療などの社会保障関係費が膨れあがってきた。かつては不法集団の生業(なりわい)であった労働者派遣事業を広く適法化したことからピンハネが“立派な会社”の“立派なビジネス”となって、派遣会社が次々と作られて派遣社員や非正規社員が大量に作られるようになった。派遣社員や非正規社員は、正規社員に比べて賃金が低く抑えられているから、国の所得税収入や保険料収入も当然減少する。

そうした政策の付けが回ってきたということだ。別の言い方をすれば、自らの失政が招いたことなのに、そうしたことへの反省とか総括ぬきに、高齢者は財政の負担になっているから、財政の負担にならないようにがんばらなければならないと言っているということだ。高齢者に求められている社会貢献とは、要するに、財政に負担をかけないということだ。

高齢になっても元気で活躍できることは良いことに決まっているし、誰しもが、そう願っているはずだ。実際に、そういう人もいる人が、そんな人は高齢者全体から見れば、ごくわずかである。個人が努力していることはもちろんのことだが、それだけではない。色々な条件に恵まれていないとできないことだ。高齢期になったから、さてやるか、と意気込みだけでできることではない。だから、華々しく活躍している高齢者を見せられても、自分もそのようであったらいいなと思ったとしても、自分には無縁の物珍しい存在として、絵を描く象や動物離れした動物を見て感心するのと同様の感想を抱くのである。

社会参加やボランティア活動にケチをつける気持ちは毛頭ない。そうしたことに一生懸命になっている人たちには心底敬意を払う。その人たちの行っていることが社会に大いに貢献していることや、その活動を必要としている人たちにとって、とても役立っていることも重々理解している。わたし自身も、ひとが感心するほどのことではないかもしれないが、社会参加に心がけ、なんちゃってボランティア活動もちょこちょことすることもある。そのことが生きがいだとか健康に良いとか考えたこともないし、とくに他人を誘って何かをするということもしてはいない。これが、ふつうの高齢者の日常生活なのではないかと思うが、どうだろうか。

助け合いや身近でできることをすることは人間として当然のことであり、そうしたことは、目立つことはないが日常的にどこでも行われていることである。それらの幾つかを取り上げて、あたかも素晴らしい事例のごとくに褒(ほ)め称(たた)えて、「ほら、このように自分たちで上手にやっている人たちもいるんですよ。みなさんも、ぜひ、そうして下さいね」と言わんばかりに行政業務の負担軽減を図ろうとする役人の思惑に腹が立つのである。

高齢者は、経験を活かし、見識を発揮して、現実を広く見つめて、自分のことや自分の世代のことだけではなく、次の世代のことを考えて、社会のご意見番として機会があるごとに、もっともっと発言し、行動してほしいと思う。そうすることこそ社会参加であり、社会貢献であると私は思う。

国や都道府県、市町村が高齢者の社会参加やボランティア活動を大々的に奨励するのはなぜか、そして、そうしていることは妥当で適切なことなのか、ということを、もう少し考えてみることも必要ではないかと私は思っている。

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