2015年2月7日土曜日

お年寄りのウォーキング

久しぶりに散歩した。冷たい空気を吸いながら50分ばかり妻と一緒に近所を歩いた。山を削って40年前に作られた大規模住宅団地には3千世帯が住んでいるが、空き家や空き地が目立つようになっている。

「この家は売れてよかったね」とは妻の言葉。何がよかったかはわからないが、売りに出ても長らく売れないでいる家も多い。別に妻の知り合いの家ではないが、昔から住宅に興味のある妻は、周辺地域の売買物件のことをよく知っている。断っておくが(別に断らなくてもいいことだが)、妻は不動産屋でも何でもない。それでも、売りに出た家が売れないと気になるようだ。

売り物件が出ると、冷やかしに見て回ることもけっこうあって、私もついて回ったこともある。中には気に入った物件もあって、引っ越しを考えたことも何回もある。とは言っても、そう簡単には引っ越すこともできない。先立つ物が無いからである。

このあたりは、20年前ほど前までは新築も盛んだった。当時は5千万円とか6千万円もしていた。そんな住宅でも、2千万円台で売りに出ている。中古でも4千万円台していたが、今では1千万円台だ。土地の値段が急落したためだ。私の家も、当時は坪60万円だったが、今では20万円もしないようだ。25年とか30年のローンで購入した人は、大金をドブに捨てたとまでは言いたくないが、何年分もの年収をふいにしたことだろう。ということで、買い換えもままにならないことから、気に入った売り物件があっても、おいそれとは引っ越せないというわけだ。

話がとんでしまったついでに、更に横道に。

先日、高校時代の友人から電話があった。何かとてもやかましい中での電話のようだったが、同級生3人でカラオケをやっていると言うことだった。同じ運動部の仲間だった。高校在学中は運動漬けの毎日で、県大会の常連だったし、全国大会や国体にもいま一歩で涙をのんだ仲間である。

いまやそれぞれ第2の職場でちょっぴりの収入を得ながら親の介護に苦労している。一人の友人は、自分の母親の介護で郷里に帰ってきており、彼の奥さんは彼女の親の介護のためと退職後に別居生活を余儀なくされている。

何だかんだと話していても、最後は健康のことになる。お互い病気もしていないが、私はメタボだ。連中は、タバコも止めているし、スリムを自慢している。聞けば、毎日1万歩を歩いているという。朝か昼間は8千歩止まりだから、夕方か夜に2千歩を歩いて1日1万歩を達成しているという。携帯電話に万歩計がついているとのことだ。先日も連中と山登りをしたという。聞けば、昔よく尾根を縦走して楽しんだ山だ。馬酔木のトンネルがある山で、モリアオガエルのいる池もあるところだ。

「お前も歩け」というから「そんなに歩いて、どうするんだ」と返事をすると、お互い運動バカだったから、「歩きゃいいんだよ」と言われると、「そうだな」と納得する。

妻と散歩しながら、「こうして何も用がないのに健康のためと歩いて過ごせるなんて平和だし幸せだね」ということになったが、歩きながら話すことは、昨日、年金通知が来て、また受給額が減ることになったことだ。高齢者虐待だな。どう考えても、在職中の半分という収入にはとてもとてもならない。約束が違うじゃないか。税金や国民健康保険料、介護保険料、固定資産税を払うと、実際に使える額はぐんと減る。

歩いて健康を維持することは大事だろうし、何よりも健康が第一というのも、よくわかるが、それだけで豊かな生活を楽しめるわけでもない。歩いていると、ひたすら歩くことが生活目的になっているかのような(偏見もいいとこか)老老男女を何人も見かけるが、病院通いをしながら、たくさんの薬を飲みながらウォーキングに精を出している人も多いだろう。そう言えば、ウォーキングのしすぎで膝を痛めたご老人を何人も知っている。医者に通いながらも健康のためにとウォーキングを止められないらしい。健康のためなら体を壊してもいいということのようだ。なんともはや、おかしなというか、すさまじいというか、わけのわからない時代になったものだ。

先日、用事で大久保や市ヶ谷に行ったが、地下鉄やJR(今でも馴染めない名称だ)で乗り換えをするには、けっこう歩くし、電車内で立っているのも運動になる。都会に住む人間は歩くのが速いし、歩く姿勢もいい。交通が便利なところに住む方がよく歩くことになる、ということだ。田舎暮らしの人間は、ちょっとした距離でも車を使うことが多いので都会人より歩かないことになる。バスが頻繁に走っていた頃は、バス停までの往復でも乗り降りでもけっこう運動になっていたと思うが、バスの運行が激減してからは歩く機会が減ってしまったし、歩くのが億劫になった。年寄りを歩かせるには公共交通機関を整備することも一案ではないだろうか。

まあ、せいぜい歩いて、街中の不備なところを見つけては改善案を練ることにしよう。そうすれば、無駄に歩いていない、と自分を言い聞かせることになるかもしれない。

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