2016年2月7日日曜日

小保方晴子さんの信じがたい言動を子を持つ親の立場から考える

このブログで、2014年5月12日に、「STAP細胞騒動を子を持つ親の目から考える」と題して一文を認(したた)めたが、小保方嬢が最近「あの日」と題する手記を出版したとの報道に接して、その一文を思い起こした。「親の目から考える」と奇妙な表現を使ってしまった。本来なら「親の目で見る」とか「親の観点から見る」、「親の立場から考える」とすべきところだ。それはともあれ、彼女が何のためにその手記を書き、出版社が何のためにそれを出版したのか理解に苦しむが、彼女も出版社もそうした信じがたい異常な行為がまかり通ることに恐ろしさを覚える。

仮に小保方嬢が自分の娘であれば、そんな手記を出版することなど断じて許さなかったであろうし、出版を企画した講談社に必死になってその企画の取り消しを求めただろう。出版社のいい年をした連中も、自分の娘だったら、と考えたことがあるだろうか。自分の娘が、何度も何度もいたぶられ、恥をさらすことに、親なら耐えられないと思ったことはなかったのだろうか。

STAP騒動の最中(さなか)に、小保方嬢をしたり顔で擁護したり弁明の機会や再実験の場を用意するなどした理研の当時の野依理事長をはじめとする幹部連中や当時の下村文科大臣、兵庫県知事なども、一時(いっとき)でも、親の立場から考えたことがあるだろうか。親なら、娘が犯した不正行為やデタラメを一番よくわかるはずである。そして、正すことができるはずである。本当に娘のことを思うなら、中途半端で曖昧な庇(かば)い立てをすれば、結局は一番傷つくのは当の娘自身であることを知っているはずである。

手記は売れているという。おそらく、興味本位で読む人は少なくないかもしれないし、擁護派が大量に買い占めているのかもしれないが、その手記が大手出版社から堂々と出版された背景として指摘しなければならないことは、STAP騒動の過程で繰り返されてきた多くの茶番の仕掛け人と支持者、支援者が誰も責任をとろうとしないで知らんぷりを決め込んだり無関係を装ってきっちりとした決着をつけないままに放置してきたことがある。

小保方嬢も、もう好い加減にデタラメとごまかしの上塗りを止めて、これ以上おのれの愚かさをさらけ出すことをしないことだ。そのことは、もう十分に知れ渡っているのだから。そして、一日も早く自分自身で決着をつけ、普通の生活に戻ることだ。そのことを誰が説得するかは、もう言わなくてもいいだろう。

聞くところによると、手記には、科学の道を閉ざされて悔しいようなことを書いているという。自分と自分を取り巻く世界を客観視できない者が、科学を口にすること自体が矛盾していることに気がつかなければならないだろう。

人から嘲笑を買いたいのであれば、それはそれでいい。自虐志向を人生観にしていると人々は理解してくれるだろう。しかし、他人を誹謗したり被害者面(ひがいしゃずら)することは許されない。それを続ければ、もう、誰も相手にはしてくれないだろうし、再起の道も完全に閉ざされるだろう。

それにしても、こうした異常な事態を生じさせている連中は許されない。

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