2016年3月11日金曜日

東日本大震災から5年を経てもまだ復興が道半ばなのはなぜか

甚大な被害をもたらした東日本大震災から5年を経た。しかし、復興は、なお、道半(みちなか)ばである。

報道によれば、「避難生活を送る人はなお17万人以上に上り、恒久的な住まいの一つ、災害公営住宅の完成は被災3県でまだ半分にとどまる。政府が決めた集中復興期間は3月末で終わるが、被災地が日常を取り戻すのは遠い」(朝日新聞3月11日朝刊)。

これも報道によれば、これまでの5年間で26.3兆円が復興費に費やされた。そのうちの10.5兆円は復興増税によるものである。この復興増税は2013年から始まり、所得税と個人住民税、法人税がそれぞれ2.1%上乗せされ、2037年まで続く。ただし、法人税に限っては安倍政権の下で2014年までの2年間で打ち切られた。経済成長を促進するためだという理由からである。

復興増税は2037年まで続くが、復興庁の設置期限は2021年3月までで、それまでに復興・創生期間が終了する予定になっている。その間の2020年に、東京オリンピックの開催が予定されている。よくわからない復興計画である。

復興予算に関しは復興庁のホームページに詳細が掲載されているが、とても複雑で、素人にはよくわからない。それらの中から、復興関連予算の過去の執行状況と復興庁の平成28年度予算の概括表をここに掲げておく。

表1

表2

国家予算の使い道に関しては、その道の専門家に聞きたいところだが、これまでに目的外使用や不適正処理が何回か報道された。それにしても、これだけ巨額の予算を費やしているにも関わらず、復興が道半ばで、苦しんでいる被災者がなお多いというのは、たしかに被害の規模は大きかったとしても、復興政策に問題があるといわざるを得ないだろう。どう考えても、本気になって真剣に復興優先の政策を進めているとは思えない。

工学的技術や社会的技術は日進月歩であり、災害復旧にもそれらを総動員することによって、かつてよりは遙かに迅速で効果的な復興が可能なはずである。それができないのは、ひとえにそれらを正しく活用できない/しようとしないで愚策ばかりを弄する輩が莫大な予算を浪費しているからだ。そこには、国民に優しくない政府がある。

東日本大震災の主因は巨大津波だが、迅速な復興を妨げている大きな要因が原発事故であることは論を俟(ま)たない。表1には、「原子力災害からの復興・再生」のための予算が3兆6,952億円が当てられている。表2では、平成28年度には、そのための予算として1兆167億円が計上されている。常識的に考えれば、原発事故が起きていなければ、それだけの予算を生活と生産の復興に集中投入できたら、と被災者のことに思いを寄せる者ならば誰でもが悔しくなるだろう。

なぜ、津波による被害をふせげなかったのか、なぜ、原発事故は防げなかったのか、ということに関する議論はこれまでに繰り返されてきた。そして、そうした議論の中で、しばしば、「想定を超える」とか「想定外の」という表現が使われてきた。これらの表現が用いられるときには、「誰にも責任がない」ことを暗に主張している。

たしかに、自然界のみならず人間界においても、人智を越える事象が生じることは少なくない。しかし、である。少し考えてみれば、人智を超える事象が生じることがある、というのは、人智を超える事象が生じることがあることを想定していることでもある。

人間の素晴らしさは、ある事象の発生を予測でき、それに対処することができることだけではない。いくら精緻で厳密な検討をしても、なお予測不可能なことが生じることがある、ということを想定できる能力を持っていることである。

だから、想定外だから、想定を超えることだからといって、責任を免れたり、責任を問うことをしないことは許されることではない、ということだ。その件に携わって、どのような形にせよ有形無形の報酬を受けてきた者は、想定外とされた事象によって被害が生じた場合にこそキッチリと責任をとらなければならないだろうし、その事象について発言する者は、誰が/どういう立場の者が責任をとるべきかを明確にし、「知らぬ顔の半兵衛をきめこむ」輩を厳しく追及すべきである。

ベーコンの言葉として「智は力なり」は有名である(諸説はあるが)。自然を正しく理解する知識を得れば自然(の猛威)を制御できる、という趣旨の言葉として私は理解してきたが、制御できないことをすることを制御することも人間の知恵である。やろうと思えばできるだろうが、それをやることによって生じる悲惨な/取り返しのつかない結末を考えて、やらない、ということだ。そんなことは誰でもがふつうにそうしている。敢えてやろうとすることを一般に冒険という。冒険家は、普通の人ができないことをやる人ではなくて、普通の人ならやろうと思えばできるけどやらないことをやる人のことをいう。

人間は、できること(可能なこと)はやりたいという欲求に衝き動かされる動物である。たしか、同じようなことを、エーリッヒ・フロムが『希望の革命』の中で述べていて、学生時代に読んだときに、自分だけの思い込みではなかったことに驚きと嬉しさを感じたものだ。科学技術の進歩は、そうした欲求を充(み)たし続けてきた過程でもある。その成果は、豊かで便利な生活と取り返しのつかない悲惨-幸福と不幸-の両方を人類にもたらしてきた。前者は、経済を発展させてきた生産技術であり、それによって生み出された様々な新商品である。後者は、公害病であり、核爆弾(原子爆弾:原爆)に代表される兵器である。

人間は経験から学ぶ、と言われている。しかし、経験から学ぶだけならば、犬猫でもできる。経験から学ぶことは動物一般に備わった能力なのだろう。人間は、経験から学ぶだけではなく、経験したこともないことを想像力(イマジネーション)-人間固有の能力だと私は思っている-を働かせて、それまでは見たことも聞いたこともないものを作り出したり、将来を見通したりすることができる。

ところが、始末が悪いことに、人間は、想像力を膨らましすぎて経験から学んだことを反故(ほご)
にしてしまうことがある。こうなると犬猫以下で、経験から何も学ばなかったと同じになる。「羮(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ではなく、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」になってしまう。

原子力発電も核爆弾も核分裂で生じるエネルギーを利用するということでは同じ原理に従っている。異なるところは、原子力発電は核分裂で生じるエネルギーの大きさを制御しながら利用するのに対して、核爆弾は制御することなくエネルギーを最大限に発揮させようとするところにある。要するに、核エネルギーを制御できる技術を開発できたことが原子力発電の開発を可能にしたということだ。

しかし、東日本大震災の際に生じた福島原発の事故と、その後の対応が教えていることは、原子力発電は、現在の技術では-ということは人間の力では-制御しきれない多くの問題を抱えているということだ。良心的な科学者、技術者であれば、そのことは重々理解しているはずである。そうでなければ似非科学者、似非技術者であろう。あるいは思想を持たない犬猫同然の動物に過ぎない。技術者は思想を技術で表現する、と言った学者がいた。誰だか忘れたが、昔に何かの本で読んだ記憶がある。

原子力発電は、綱渡り的なきわどい冒険と言えるかもしれない。その人個人が自分の欲求を充足するために、他人には何の被害を与えることなく自分の責任でことを処理できるのであれば、冒険は勇気ある行為として賞賛されてもよいだろう。

しかし、今回の原発事故のように、多くの人に被害と迷惑をもたらしたあげくに、いまだに事故処理に手間取っていて、いつ処理が終わるかもわからないままに膨大な国家予算を浪費続けているのは、冒険ではなくて明らかに犯罪である。にもかかわらず、誰も自ら責任を取ろうとしないし、責任の所在を明らかにしようとさえしない。

そればかりではない。原発再稼働が着々と進められている。直近の経験から学ぼうとしないし、想像力も働かせることなく、被害は他人事(ひとごと)とばかりに、あの手この手で言い繕いながら、大仕掛けの手品よろしく制御できないことを制御できるふりをして事を進めている。如何様師も面目丸つぶれであろう。

原子力の安全神話は崩壊した。国民はだまされ続けてきたが、まだ、だまし続けることができると高を括っている。だが、本当に恐ろしいことは、制御できないことを知りながら、科学者、技術者が自分をだまし続けながら原子力発電の安全性を口にすることである。

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