2016年6月15日水曜日

舛添都知事の辞任に至るまでの茶番劇から都民は国民は何を学んだか

到頭(とうとう)というか、やっとというか、舛添都知事が辞任を表明した。高額な外国出張費の問題に端を発した“騒動”は、これで一応の決着をみた。この1か月ばかりの間に繰り広げられた茶番劇は、国民を大いに楽しませてくれただろう。

なにゆえ、そんなに楽しませてくれたかと言えば、政治的なスキャンダルの中では、今回の不正行為や疑惑が“ちゃちぽかった”ことと、舛添都知事の言い訳が、誰が聞いてもウソとわかるような言い繕(つくろ)いに満ちたもので、いやはや何ともお粗末で子どもじみていたからだろう。それゆえ、ワイドショウやバラエティ番組の司会者やレギュラー、ゲストらは、“安心して”、舛添都知事をからかいや揚げ足取りの対象にして面白(おもしろ)おかしく論評できたにちがいない。

でもね、と捻(ひね)くれ老人は一人呟(つぶや)く。

あ~あ、面白かった、と全一幕の茶番劇を楽しんでお終いにしてしまったりするようでは、いつまでたっても政治はよくならないんだよね~。

捻くれ老人には、茶番劇からでも学びうることはたくさんあった。消化しきれないほどである。その意味では、舛添前知事には大いに感謝すべきかもしれない・・・

2016年6月14日火曜日

舛添都知事の不適切行為に対する都議会と都庁幹部職員、国会議員の対応に違和感を覚える

舛添都知事に対して都議会の各会派が不信任決議案を提出することを決めたそうだ。これまでの経緯から言えば、ごく自然な流れだと思うが、この段階に至るまでの都議会議員や国会議員、そして、都庁の幹部職員の対応には解せないことが多い。

舛添都知事の国会議員在職中の政治資金不正使用や都知事になってからの公私混同疑惑など、すべてがマスメディアのスクープによって“暴露”されたものばかりであり、その後に続々と浮かんできた疑惑も、記者会見での質疑応答から広く知られることになったものばかりである。

都議会での審議で取り上げられた疑惑も、マスメディアによって既に国民が知っていることがほとんどで、議員は、ただそれらを議場であらためて“おさらい”しているだけである。言ってみれば、原作があって、それを基に脚本を用意し、議員それぞれがへたくそな演技を得意になって繰り広げているだけである。

片や質問を受けて立つ舛添都知事は、すでに原作を十分に読み込んでいるので、というよりは原作の作者であるから、出来の悪い脚本でへたくそな演技で迫ってきても痛くも痒(かゆ)くもない。脚本が、何度でも同じ答弁をするしかないように構成されているから、それに従っていればいいだけの話だ。

都議会議員や都庁の幹部職員、そして国会議員は、マスメディアが報じるまで疑惑の追及も是正もしてこなかったことを大いに恥じるべきである。政治家の不正行為の監視をマスメディアに一任していたり頼りっきりになっていたりするような現在の状況は異常だと認識しなければならないだろう。不正行為や疑惑の追及、それらの是正の過程と結果が、政治家や都庁の幹部職員からマスメディアに流されるのが健全な報道のスタイルではないだろうか。

有権者は、舛添都知事の不正行為を糾弾すると同時に、都議会議員や都庁幹部が舛添都知事の不正行為をいち早く是正しえなかった/してこなかったことに対して異議申し立てをすべきであろう。そして、ワイドショーで熱弁を振るうレギュラーやゲストも、それほどまでに問題を深刻に捉えて、確信に満ちた論評をするのであれば、なぜ告発をしないのか、とても不思議である。

辞職を迫る都議会議員に対して、舛添都知事は、いま辞職すれば、知事選や都議会議員選がリオ五輪開催期間にぶつかるので都合が悪いから不信任決議案の提出を9月議会まで待つよう涙ながらに訴えたということだ。こんなへ理屈を堂々と口にするのは、もはや尋常な精神状態ではないのかもしれない。テニスやサッカーの世界大会が開催中だからといって、アメリカの大統領選の時期をずらしたなどという話は聞いたことがない。

それと不思議に思うのは、副知事という役職である。知事が任期途中で辞任したり失職した場合には、残余期間を副知事が代理で職務を務めることができるようにすればいいことだ。そうすれば、選挙費用も削減できる。議会がしっかりしていれば、知事だろうと副知事だろうと、政策を遂行していく上では何の支障もないだろう。

2016年6月9日木曜日

舛添東京都知事をめぐる茶番劇にはシェイクスピアも脱帽か

日本人が、これほど寄って集(たか)って茶番劇を盛り上げることができるとは、シェイクスピアも感心しきりではないだろうか。

知事の一連の行為は法律上はセーフだという。そして、専門家も素人も、“うん、そうなんだ”と、そのことを素直というかあっさりと納得した上で、道義的に許されないとか、人間性が疑われるとか、セコいとかケチとか、もはや政治の世界の出来事でも法律や制度の問題でもないかのようなお喋(しゃべ)りで盛り上がっている。

悪い奴だとか人間として許されないとか、そんなことなら私だって幾らでも言える、とばかりに、誰も彼もがお喋りの仲間入りをしている。あいつは悪い奴だ、そんなことやって人間として失格だ等々、全国民こぞって(といえるくらい)人格攻撃の嵐が吹きまくっている。

その嵐をまともに受けている舛添知事はと言えば、これも奇妙奇天烈な“第三者による厳密な調査”によって一連の行為は法的な違反行為には当たらないことを“証明”したにもかかわらず、口汚く罵(ののし)られても、名誉毀損で訴えるわけでもなく、“神妙な態度”で反省の弁を繰り返し、心を入れ替えて知事の仕事を続ける“決意”を表明し続けている。

お見事というか、鉄面皮というか、蛙の面に小便そのままに、まさに千両役者ならぬ三文役者を演じている。そして、このときとばかりにベテラン、新人とり混ぜて、まさに有象無象(と言っては失礼か)が大挙して登場し(登場させられ、と言った方が正確か)、これまた絶妙な脇役として主人公の演技を大いに引き立てている。

アメリカでは大統領選が酣(たけなわ)であるが、話題づくりということでは、舛添知事はトランプ候補に負けず劣らずである。

テレビを通じて政治家の不正行為をめぐる騒動が、司会者やコメンテーターの茶化した物言(ものい)いで国民におもしろおかしく伝えられてエンターテイメントに化している。誰でもがコメント可能なように話が進められるので、茶飲み話が延々と続く。そんな番組に大金を払うスポンサーも太っ腹と感心する。

いたずらに時間を費やすということでは、都議会議員も同じだ。地方議員とは言え、一応は政治家の端(はし)くれという自覚もないのか、知性も政治的感覚のかけらも感じさせない演説を入れ替わり立ち替わり繰り広げている。辞任しろとはいうものの、辞任に追い込むだけの方策を用意しているわけではない。だから、舛添知事にとっては痛くもかゆくもない。聞き流しておいて、“ごめんよ、そんなに言うなら、これからは文句が付けられないようにするから、勘弁してよ。なんなら、知事の給料の一部を削減するからさ~”と嵐が過ぎ去るのを待っている。

長い間、舛添知事が行っていたことを、都議会も都庁も辞めさせることができなかったのはどうしてだ、というところに目が向けられていない。江戸時代の悪代官よろしく、私利私欲にまみれて一人で好き勝手にできる時代ではないから、“協力者”や“同調者”、同じように甘い汁を吸っていた連中が少なくなかったことだろう。要するに、組織ぐるみでなければできないようなことをやっているということだ。その連中は、いま、ヒヤヒヤもんだろう。いつ、矛先が向けられる心配で、ひょっとすると、飯も喉を通らないかもしれない。もっとも、そういう連中は図太いだろうから、平気の平左を決め込んでいるのかもしれない。

一度やってみて味を占めたら止まらなかったんだろう。周(まわ)りにいるのは、咎(とが)めるどころか好き放題にさせてくれる物わかりのよい連中で、舛添知事は、その連中を理解のある大事なお仲間と思っていたことだろう。だから、知事職っていうのはなんて楽しい仕事なんだろうと毎日をウキウキした気分で過ごしていたにちがいない。

“あっ、その費用は政治資金でまかなえますよ”とか、“公用車はいつでもどんどん使って下さい。運転手も手当が増えて喜ぶでしょうから”とかなんとか言って、知事のご機嫌をとる太鼓持ちのような取り巻きの官僚がいたことだろう。舛添氏は、都庁の上級役人にとっては、とても御(ぎょ)しやすい知事なのであろう。

遊びに惚(ほう)けさせていればご機嫌で何でも言うことを聞くのだから、無用の外国出張も、航空機のファーストクラスも、高額な宿泊費も、自腹が痛むわけではないので、好きにさせておけばいいと思っていたことだろう。

政治家と金をめぐる問題は止むことがない。政治の世界は利権の温床である。政治家としての資質の問題でもあるが、それを見抜けずに選んでいる有権者にも大いに責任があるというべきだろう。茶番劇を面白がって観劇している場合ではない。

2016年6月4日土曜日

消費税の増税再延期に対する反応やコメントに日本人の政治感覚を疑う

安倍首相が消費税を8%から10%に引き上げることを再延期したことに対して様々なことが言われているが、奇妙に思えることは、再延期が公約違反だと批判して、あたかも消費税を引き上げるべきだというような論調が多いことだ。テレビが放映した街頭インタビューでも、記者がそう仕向けたかのように、公約違反への批判めいた意見や感想ばかりが目立った。

たしかに、野田政権時代に、税と社会保障の一体改革をスローガンに、民主党と自民党が合意して消費税の段階的引き上げを決めた。しかし、消費税を5%から8%に引き上げて税収を増加させたことが、社会保障の充実へ向けた何らかの政策的効果をもたらしただろうか。その間に、年金は減額され、保育所の待機児童や保育士の待遇をめぐる問題は一向に改善されないなど、消費税増税が社会保障政策に何ら反映されることなく今日まで来ている。

その一方で、東京五輪の準備に向けてのお祭り騒ぎと競技場建設に国家予算を湯水のように使い、防衛費を増額し、毎年実施する必要もない全国学力テストや効果が無いままにダラダラと続けている少子化対策に多額の予算を投じている。財政健全化を図るといいながら、有効な手段を案出することもなく、赤字国債を発行し続けている。パナマ文書が暴露した課税逃れについても口をつぐんだままである。

すべてを社会保障費の膨張の所為(せい)にして消費税増税を進めている。たしかに、高齢化が進んで社会保障関連の政策に必要な費用は増大し続けているが、他方では、何の工夫もなく相変わらず効果の乏しい政策に膨大な予算を投じ続けている。財政健全化に本気になって取り組んでいるとは到底思えない。まずは、何でもかんでも社会保障費の膨張にして増税ありきのような子どもじみた財政政策を止めて、少子高齢・人口減少社会に対応した構造改革について政治家全員が本気になって考え、実行することである。それでこそ、真の政治家と言える。そして、国民は、そうしたことを真剣に訴えなければならないだろう。

所得税や消費税など、様々な税金が徴収されているが、国民にとっては税金は安いほどよいし、できれば税金などは無いに越したことはない。しかし、石油産油国のように、国家が莫大な収益を上げうる事業ができればそれも可能だが、そんなことは日本では望み得ない(ひょっとすると可能かもしれないが)。

税金は払うしかないが、払う側としては、納得して払いたい。バカな政治家や官僚が、どうせ自分の金ではないのだからとでも言うように、好き勝手に無駄遣いしているのでは我慢ができないのである。