2016年6月9日木曜日

舛添東京都知事をめぐる茶番劇にはシェイクスピアも脱帽か

日本人が、これほど寄って集(たか)って茶番劇を盛り上げることができるとは、シェイクスピアも感心しきりではないだろうか。

知事の一連の行為は法律上はセーフだという。そして、専門家も素人も、“うん、そうなんだ”と、そのことを素直というかあっさりと納得した上で、道義的に許されないとか、人間性が疑われるとか、セコいとかケチとか、もはや政治の世界の出来事でも法律や制度の問題でもないかのようなお喋(しゃべ)りで盛り上がっている。

悪い奴だとか人間として許されないとか、そんなことなら私だって幾らでも言える、とばかりに、誰も彼もがお喋りの仲間入りをしている。あいつは悪い奴だ、そんなことやって人間として失格だ等々、全国民こぞって(といえるくらい)人格攻撃の嵐が吹きまくっている。

その嵐をまともに受けている舛添知事はと言えば、これも奇妙奇天烈な“第三者による厳密な調査”によって一連の行為は法的な違反行為には当たらないことを“証明”したにもかかわらず、口汚く罵(ののし)られても、名誉毀損で訴えるわけでもなく、“神妙な態度”で反省の弁を繰り返し、心を入れ替えて知事の仕事を続ける“決意”を表明し続けている。

お見事というか、鉄面皮というか、蛙の面に小便そのままに、まさに千両役者ならぬ三文役者を演じている。そして、このときとばかりにベテラン、新人とり混ぜて、まさに有象無象(と言っては失礼か)が大挙して登場し(登場させられ、と言った方が正確か)、これまた絶妙な脇役として主人公の演技を大いに引き立てている。

アメリカでは大統領選が酣(たけなわ)であるが、話題づくりということでは、舛添知事はトランプ候補に負けず劣らずである。

テレビを通じて政治家の不正行為をめぐる騒動が、司会者やコメンテーターの茶化した物言(ものい)いで国民におもしろおかしく伝えられてエンターテイメントに化している。誰でもがコメント可能なように話が進められるので、茶飲み話が延々と続く。そんな番組に大金を払うスポンサーも太っ腹と感心する。

いたずらに時間を費やすということでは、都議会議員も同じだ。地方議員とは言え、一応は政治家の端(はし)くれという自覚もないのか、知性も政治的感覚のかけらも感じさせない演説を入れ替わり立ち替わり繰り広げている。辞任しろとはいうものの、辞任に追い込むだけの方策を用意しているわけではない。だから、舛添知事にとっては痛くもかゆくもない。聞き流しておいて、“ごめんよ、そんなに言うなら、これからは文句が付けられないようにするから、勘弁してよ。なんなら、知事の給料の一部を削減するからさ~”と嵐が過ぎ去るのを待っている。

長い間、舛添知事が行っていたことを、都議会も都庁も辞めさせることができなかったのはどうしてだ、というところに目が向けられていない。江戸時代の悪代官よろしく、私利私欲にまみれて一人で好き勝手にできる時代ではないから、“協力者”や“同調者”、同じように甘い汁を吸っていた連中が少なくなかったことだろう。要するに、組織ぐるみでなければできないようなことをやっているということだ。その連中は、いま、ヒヤヒヤもんだろう。いつ、矛先が向けられる心配で、ひょっとすると、飯も喉を通らないかもしれない。もっとも、そういう連中は図太いだろうから、平気の平左を決め込んでいるのかもしれない。

一度やってみて味を占めたら止まらなかったんだろう。周(まわ)りにいるのは、咎(とが)めるどころか好き放題にさせてくれる物わかりのよい連中で、舛添知事は、その連中を理解のある大事なお仲間と思っていたことだろう。だから、知事職っていうのはなんて楽しい仕事なんだろうと毎日をウキウキした気分で過ごしていたにちがいない。

“あっ、その費用は政治資金でまかなえますよ”とか、“公用車はいつでもどんどん使って下さい。運転手も手当が増えて喜ぶでしょうから”とかなんとか言って、知事のご機嫌をとる太鼓持ちのような取り巻きの官僚がいたことだろう。舛添氏は、都庁の上級役人にとっては、とても御(ぎょ)しやすい知事なのであろう。

遊びに惚(ほう)けさせていればご機嫌で何でも言うことを聞くのだから、無用の外国出張も、航空機のファーストクラスも、高額な宿泊費も、自腹が痛むわけではないので、好きにさせておけばいいと思っていたことだろう。

政治家と金をめぐる問題は止むことがない。政治の世界は利権の温床である。政治家としての資質の問題でもあるが、それを見抜けずに選んでいる有権者にも大いに責任があるというべきだろう。茶番劇を面白がって観劇している場合ではない。

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