2017年1月31日火曜日

政治家というのは摩訶不思議な職業

トランプ大統領の強引な政治手法に世界が騒然としているが、これほどあからさまに悪政を推し進めようとする政治家は過去にいただろうか。悪政で名を馳せた政治家は古代以来、洋の東西を問わずに多くいたが、ツイッターやら演説やらマスメディアを通じて、“堂々と憚(はばか)ることなく”広言を吐いては、それを実行に移すような政治家はいなかったのではないだろうか。

表では尤(もっと)もらしく振る舞い、裏ではとんでもないことを平気で言ったりやったり、人を騙(だま)すのに長(た)けた政治家は多い。トランプ流ではなくて陰湿流とでも言えるが、悪政を進めるということでは、国民にとっては全く違いはない。目立つか目立たないかの違いだけで、大騒ぎされるか、されないかだけだ。

それにしても、政治家というのは摩訶不思議な職業ではないだろうか。とっても、とっても大事な職業であるにもかかわらず、試験もなければ特別な資格も必要としない。こんにちのような普通選挙制度の下では、政治家になれる条件としては被選挙権年齢だけである。

選挙で当選するかしないかが決まるのは試験と同じだという声も聞こえそうだが、試験と選挙は全然ちがう。試験は、受験者に一方的に共通の問題や課題が課せられ、選挙では、立候補者が一方的に政策や政治信条を語って票を集めるために運動する。

被選挙権の年齢に達していれば、誰でもが立候補して政治家を目指すというのは素晴らしいことだが、なんで、こんな人が、ということも少なくない。どう考えても、政治を任せるに値する人間とは思えない人が、堂々と議席を得て、政治家として食っている。

政治について誰よりも学んだり考えたりした、という形跡が全く感じられない人間が、好き勝手に狼藉を働いている。暴言を吐き、デタラメをやり、得意になっている。学ぼうとする姿勢もなければ、世のため人のためと懸命に政治に取り組んでいるわけでもない。全く悲しくなる。イヤになる。

せめて、政治学や財政学、社会学など、政治に携わる上での基本を正しく理解しているかどうかの試験を課して、それに合格した人が立候補資格を得ることができるようにしたらどうかと思う。それこそ、記述式の問題を解かせることだ。そして、1年の研修期間を設けて、本当に世のため人のために政治に取り組む心ある人間だけが立候補できるようにしたら言い。官僚の言いなりになる政治家が多いのは、そのどちらも欠けているからだ。

素晴らしい政治家が出てきて欲しい。熱望してやまない。

2017年1月13日金曜日

新電力にしてから電気料金が大幅に下がったぞ

新電力に切り替えてから半年が経った。年金生活者にとっては節約できるものなら何でも試してみようとした結果は、いまのところ大成功というところか。以下のグラフは、電気料金と使用量を一つのグラフにして前年同月と比較してみたものだ。6か月の合計では、使用量で36kwh増、料金で12,725円減だった。この半年で、使用量が増えたのに1万円以上削減できた。画像をクリックするとスッキリしたグラフが別画面で表示される。

 
住んでいるところが夏場は涼しいのでエアコンを使うことが少ない。そのため、例年、夏期よりも冬期の方が電力使用量が多い。それにしても、冬期は夏期の3倍も使っているとは我ながら驚きだ。まあ、これには色々と事情があるから仕方がない。
 
新電力各社は色々と工夫して安い電気を供給しようとしていることは歓迎する。聞くところによれば、原発処理のために処理費用を新電力の料金にも上乗せするようなことらしいが、とんでもないことだ。東京電力の原発事故に対する取り組みと政府の対応は承服しがたいことばかりだ。

2017年1月11日水曜日

准高齢者って、高齢者に次ぐ位(くらい)なのか-日本老年学会と日本老年医学会の「お先棒かつぎ」

『広辞苑』によれば、「准」というのは「準」の俗字で、「そのものに次ぐこと」を意味するそうだ。

これまでにも、少将に次ぐ准将、看護師に次ぐ准看護師、官吏に次ぐ准官吏、教授に次ぐ准教授などの使われ方をしてきているが、新たに高齢者に次ぐ准高齢者というのが日本老年学会と日本老年医学会から提案された。

准高齢者という言葉が定着するかどうかわからないが、ピンとこない言葉ではある。これまでの「准」の使われ方は、階級や「位(くらい)」を指す言葉として使われてきた。その伝でいけば、「准高齢者」は「高齢者」に次ぐ「位(くらい)」ということになるのか。何のこっちゃ?

日本老年学会と日本老年医学会という頭の良い連中が集まっている組織が、そんな意味で「准高齢者」という言葉を使っているとは思いたくはないが、ひょっとして、「准」の意味をわかっていないのかもしれない。階級や「位(くらい)」であれば、「准」の上に行くには色んなハードルがあるが、「准高齢者」は、途中で死なない限り、誰でもが自動的に「高齢者」に“昇格”できる。

いやいや、よくわかっているのかもしれない。75歳以上を「高齢者」で65~74歳を「准高齢者」とするのは、「高齢者」に“昇格”することで“特典”が得られるようにする、と目論んでいるのかもしれない。どんな“特典”かといえば、年金である。要は、悪政の「お先棒をかつぐ」(軽々しく人の手先になる)役割を果たしている、ということである。得意になって、「お先棒をかつぐ」ことを“先取り”して得意になっているとしか思えない。

2017年1月6日金曜日

高齢者は75歳以上だとさ-老年学会って、頭おかしいのでは

日本老年学会と日本老年医学会が、「高齢者」を「75歳以上とする」と提言したそうだ。そして、「65~74歳」を「准高齢者」と呼ぶそうだ。朝日新聞6日付朝刊の一面トップにスポーツ紙かと見紛うほどのドデカい活字が踊っていた。

まもなく70歳を迎える私は、60歳を超えた頃から“十分に高齢者”だと自認していたのだが、これからは高齢者と自認できなくなるということか。

だいたいが、高齢者や老人という言葉は、若者や中年に比べて、相対的に年齢が高いとか老いている人を指すときに用いる漠然とした便利な言葉なので、厳密に年齢で区切るようなものではないだろう。

これまで65歳以上を老人とか高齢者と言っていたのは、人口の年齢構造を年少人口(14歳以下)、生産年齢人口(15~64歳)、老年人口(65歳以上)と3区分してきたことに由来するが、それも、国連が、世界各国の人口構造を比較するために導入した便宜的な区分にすぎない。便宜的ではあっても、その国の人口の年齢構造の変化をたどったり、国際比較をする際には共通の基準として長らく採用されて定着している。だからといって、高齢者とは65歳以上の人を言う、なんてことは、そのことを知っている人ならば、誰も言ってこなかっただろう。

昔読んだ本で知ったのだが、日本最初の公的救済制度とされる養老2(718)年の「戸令」には、救済対象を「凡鰥寡孤独貧窮老疾、不能自存者」(凡<すべ>ての鰥寡孤独貧窮老疾、自存<他の何ものにも頼らず自己の力で生存すること>能<あた>わざる者)と規定していたそうだ(田代国次郎「慈善救済事業・感化救済事業の展開」『講座社会福祉2 社会福祉の歴史』有斐閣1981年)。ちなみに、救済対象の区分は以下の通り。

 鰥(かん)- 61歳以上で妻のない者
 寡(か)  - 50歳以上で夫のない者
 孤     - 16歳以下で父のない者
 独     - 61歳以上で子のない者
 貧窮   - 無産の貧乏人
 老     - 66歳以上の者
 疾     - 廃疾者

古代でも、「老」は66歳以上とされていたというのは、ちょっとビックリだが、鰥・寡・独も、対象は高齢であることを条件にしていた節がうかがわれる。「老」だけが年齢だけを条件にしているのは、その年齢になれば、ほかの条件がなくても、身体的衰えや働く機会がなくなり、生活に困難を抱えることになったからだろう。あるいは長命であることによる報償であったかもしれない。

広辞苑には、「老」の字義の一つとして、「律令制で、61歳以上65歳(のち各1歳引下げ)以下の者」とある。

要するに、その時々の行政上の都合で年齢区分がされてきたということである。それは、いまでもかわらない。年金支給年齢や、社会福祉や高齢者医療の対象年齢も同じことだ。

報道によると、「あくまでも医学・医療の立場からの提案で、国民がこれをどう利用するかは別の問題」と提言をまとめた虎の門病院の大内院長は言ったそうだ。何と無責任な。

「高齢者」は75歳以上と言われて喜ぶ人もいるかもしれないが、もう、そんな時代でもないだろう。一体何のために、こんな提言をしたのだろうか。学会のお墨付きということで、何でもかんでも75歳以上でなければ「高齢者」ではないから、という風潮がでてくることだろう。行政も、「待ってました」ということになろう。そんなことになるとまでは頭が回らないとすれば、とんでもない学会ということだ。

「お若いですね」と言われて悪い気はしないだろうが、これからは、「高齢者になるには、あと〇〇年ありますね」とか言うことになるのだろうか。

とらえようによっては、「高齢者」を「75歳以上とする」と提言した日本老年学会と日本老年医学会は、高齢ということに否定的というかマイナスイメージというか、そうした差別意識があるんだろう。そうでなければ、こんな提言はしないはずだ。とんでもない学会があったものだ。どんな連中が会員になっているのか知りたいものだ。老いぼれが、「75歳以上にならなければ高齢者じゃないから」と居座るための方便なのかもしれない。

そうそう、提言を作成したプロジェクトのメンバーには、心理学者や社会学者も入っているそうだ。どんな心理学者、社会学者なのか、顔を見たいものだ。

2017年1月1日日曜日

今年はどんな年になるのでしょう

2017年は、どんな年になるのだろうか。

新年を寿(ことほ)ぐのは、無事に越年できて、また一つ年を重ねることができたことを喜ぶからなのだろう。命の大切さを年頭にみんなで再確認することを「おめでとう」と表現することになった、というのが私の解釈である。

しかし、考えてみれば、悲しい1年を過ごして、辛い気持ちで新年を迎える人もいるのだから、みんなで「おめでとう」を言い合うのは、冷酷で軽薄でもある。人間っていうのはなんと残酷な生き物であることか。

こんなことを言うと、ひねくれ者と言われそうだが、齢を重ねると、ものを色々な角度から見ることが少しはできるようになるのかもしれない。

長命は、人類積年の願いであったが、まさか平均寿命が男女ともに80歳を超えるなどとは先人は思いもよらなかったことだろう。そして、その先にとんでもない問題-長命であることが自分自身や家族、社会に大変な苦労をもたらすようになること-が待ち構えているとは夢にも思わなかったことだろう。

さてもさても・・・

日本が唯一世界で一番を“誇っている”人口高齢化率(65歳以上人口が全人口に占める割合)は、日本に世界に例を見ない自慢できる国づくりをする機会が与えられていることでもある。並の国になることに必死になるのではなく、世界が羨(うらや)むような、知恵と知性と愛情の溢れる国になる出発年になって欲しいと節に願うものである。