2017年3月21日火曜日

認知症予防の研究成果と身近な体験の大きなギャップ

21日19時からの朝日放送3時間スペシャル番組の中で、認知症予防の研究成果を取り上げていたのをたまたま目にした。身内に認知症患者がいることから、興味深く視聴した。

番組の宣伝文句によれば、認知症予防の名医が、「歩き方」、「食事」、「睡眠」の3分野でそれぞれ問題を出題。認知症の最新予防法も併せて詳しく解説していく。「歩くスピードや歩幅と認知症リスクの関係」、「最新研究で判明した、認知症予防に期待できる食べ物」、「認知症と昼寝の意外な関係」などが次々と明らかに!ということだ。

研究成果から得られたことは、歩き方が速い、歩幅が広い、牛乳を飲んでいる、昼寝は30分以内が認知症のリスクが低いということだった。うんうん、なるほど、なるほど、とは納得できなかったのは妻で、そんなのウソだ、と一笑に付した。なんでも世界的な最新研究の成果ということで、凄い凄いと番組の中で出演者が感心しきりの最新の研究成果を妻が一笑に付したのにはわけがある。

身内の高齢の認知症患者は、歩き方も速かったし、毎日牛乳を飲んでいたし、昼寝をしても30分以内だった。どれもこれも、認知症予防の研究成果と、近頃の言葉で言えば、真逆ではないか。

それとは反対に、認知症を患っていない90歳を超える身内もいる。歩き方は遅かったし、というよりは、70歳を超えてからはほとんど歩かなかったし、80歳を超えてからは杖を使っても、ごくごく狭い歩幅でしか歩けなかったから遠出には車椅子が必要になった。牛乳を毎日飲むわけではなく、昼寝は1時間を優に超えていた。ビールや焼酎などアルコールを毎日かなりの量を飲んでいたし、90歳近くまでタバコも吸っていた。健忘症の兆候はあるが、認知症ではない。これも、世界的な研究成果とは真逆の例である。

おそらく、莫大とは言わないまでも、かなりの研究費をつぎ込んで実施された研究ばかりだろうが、速く歩いたり、毎日牛乳を飲んで、昼寝も短時間ですませる、ということをすれば、誰でもが認知症を予防できるかのごとくに大はしゃぎで面白おかしくすすめる番組構成には違和感を感じた。

研究結果からは、確かにそういうことが言えるだろうが、その効果が果たしてどれくらいかをしっかりと説明することが、学術的情報を素人に向けて発信するときには何よりも大事なことだろう。研究では、実際にはほんの僅かな差でも、違いがある、と断定することもある。研究成果としては認められても、そのことと、実際の効果とでは雲泥の差があることも伝えなくてはならないだろう。

朝日放送は、ハナタカ優越館もそうだが、知識や教養を内容とする、というか、もてあそぶバラエティ番組が多いが(おいおい、そんなに朝日放送のバラエティ番組を視ているのかよ-そんなことはないけど)、どれもこれも正確性というか厳密性というか、肝心要(かんじんかなめ)のところを、今流に言えば、スルーしてしまっている。視聴者を甘く見ているというか、バカにしているというか、そんな印象を強く受ける。

2017年3月15日水曜日

稲田防衛大臣の答弁から学ぶ記憶と記録、虚偽と事実

森友学園問題に関連した国会質疑で、稲田防衛大臣の答弁が話題になっている。

籠池園長との関係を聞かれると、「10年ほど前から関係を絶っている」と答弁し、同学園の訴訟にもまったく関与したことはないと断言していた。その根拠は、彼女の記憶だったという。

そして、答弁が虚偽であったことが関係書類等で明らかにされると、自分の記憶では、そういうことだったから、答弁は虚偽ではない、と主張していた。

近代法は証拠主義である。旧時代の自白主義ではない。この桜吹雪が見えねーか、と大見得を切って裁きを行う遠山の金さんでも、自ら足を運んで証拠を積み重ねる。自白主義の時代の裁きを近代の証拠主義に重ね合わせることによって、現代の視聴者に違和感なく楽しめるように工夫した演出である。

稲田防衛大臣は弁護士資格を持ち、夫と共に弁護士事務所を経営しているそうだ。弁護士という仕事の何たるかはよくわからないが、少なくとも、今の時代では、何よりも証拠にこだわる職業ではないかと思う。要するに、記憶より記録を重んじるのが弁護士ではないのか、ということである。

私もかつて、裁判に何回か関わったことがある。弁護士資格はないが、準備書面の作成や口頭弁論など一切合切、自分一人でやったことがある。裁判所の書記官が懇切丁寧に色々と教えてくれたが、繰り返し言われたことは、準備書面を書くときの肝は、感情や記憶ではなくて、事実と証拠に基づくことである、ということだった。そう言えば、相手の弁護士は、いま思えば、容貌も話し方も稲田大臣によく似ていた、というのは私の記憶だ。

自分でも、相手の準備書面と比べると、私の準備書面の方がよっぽっど説得力があった。相手が控訴したりで長い裁判であったが、当方の全面勝訴であった。随分前のことだが、機会があれば、その詳細を、それこそ残されている記録に基づいて公開したいとも思う。

かつて、記録より記憶に残る選手になりたい、という名言を吐いた野球選手がいたが、この伝でいけば、稲田防衛大臣は、さしずめ、記録より記憶を大事にしたい弁護士であり、政治家でありたい、ということだろう。

財務省が、森友学園への国有地たたき売りの経緯を記した記録を即刻廃棄処分にしたのも、仮に、志ある職員が、“私の記憶では・・・”、と詳細を暴露しても、証拠がないと言い逃れできるからだ。官僚の方が稲田大臣よりも一枚上手、ということだ。

安倍首相も、首相夫人の件で色々と攻め続けられても、そうした事実があれば、首相も国会議員も辞めると断言した。しかし、他方では、事実より記憶を重んじる稲田大臣を我が子のようにかばい続けている。お互いに矛盾しまくっていることを堂々と喋りまくっている。思考回路のどこかに欠損部分かバグがあるのだろうか。

稲田大臣の記憶力がその程度だとしたら、幼稚園児が教育勅語を暗唱していたようには、稲田大臣は教育勅語を暗唱できないのではないか。国会の場で、試してみたらどうだろうか。

2017年3月12日日曜日

防災対策に本気に取り組め-東日本大震災から6年を経て

東日本大震災から6年を経た。震災当日、仙台に居住していた息子と連絡が取れずに不安な時間を過ごした。夜の9時になって、公衆電話から無事を知らせる連絡が入った。

震災2か月後に仙台市若林地区、石巻市、南三陸町を訪れたが、被害の大きさに呆然とした。その後も南相馬や浪江も含めて何回か訪れたが、復興が遅々として進まないのを目の当たりにした。そして、その後も、原発事故の処理に手間取るばかりか、事故の甚大さと処理の難しさが次々と明らかにされてきた。そして、その対策に莫大な国費が投入され続けてきた。

その間に、オリンピック招致を決め、原発事故は、アンダー・コントロール(制御下にある)と安倍首相は国際社会に向かって大見得を切った。しかし、制御下にないばかりか、いまや、どうしてよいかわからないで、氷結壁のような効果のない対策を続けている。

報道によると、11日に都内で開かれた東日本大震災の政府主催の追悼式で、安倍晋三首相は、式辞で原発事故に一切触れずに、「復興は着実に進展していることを実感します・・・福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつあると復興の成果を強調したそうだ。

一国の首相として責任ある発言とは思えない。原発事故の処理にはお手上げ状態だから、ボクちゃんは、もう知らない、ということだろう。何かを言えば、自分に跳ね返ってくることがわかっているから、その問題には関わり合いたくなくて、一生懸命に避けて通ろうとしているのだろう。

一説によると、復興が進まない理由として、建築資材と作業員が東京五輪に取られているからということだ。東京五輪の建設に当たった方が建設会社の利益が大きいからだろう。

そういえば、第一次安倍政権の平成18(2006)年に、安倍首相は国会で、巨大地震が発生しても、「外部電源又は非常用所内電源のいずれからも電力の供給を受けられる設計となっているため、外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能であると原発の全電源喪失はありえない旨の答弁をしている。原発事故への対策をおろそかにしていたということだ。

それから5年後の平成23(2011)年に、東日本大震災で原発の全電源が喪失し、原子炉の冷却が不可能になり、事故が拡大したことは周知のところである。

震災復興そっちのけで東京五輪に莫大な国費を投入する安倍政権は、一言で言えば、国民に冷酷・冷淡だ、ということだ。一億総活躍などと国民に対する要求は多いが、国民に対する優しさは微塵も感じられない。だから、防災対策に本気になって取り組もうなんて考えもしないのだろう。

自然災害に対する防災対策の基本原則は、災害の危険があると判断されるところには、住まない、住まわせない、建てない、建てさせない、ということだ。

現在は、災害の危険があるところに大勢の人間が住み、たくさんの建造物が立地している。一目で土砂災害や津波の危険があるとわかるところに多くの住宅や施設が建っており、活断層の上や間近に原発や高速道路、工場がある。

災害が起きるたびに、なんで、そんなところに、なんで、そんなことを、と思う人は多いだろう。被災して人命や物財を失えば、人を悲しみのどん底に突き落とし、心に受けた傷は容易に癒えることはない。そして、復旧・復興には長い年月と莫大な金額を費やすことになる。あ~、あのときに、もっと、対策をしっかりと立てていたら、と反省しきりではないだろうか。いや、そんな反省もしていないようなことを繰り返している。

予測不可能だったとか、想定外だったということは言い訳にはならない。予測不可能であることを予測し、想定外を想定することが、人間の知恵であり、その知恵を働かせて人間を幸福にするのが政治であり、政治家の責務であろう。いまの政権与党の政治家は、そうしたことに懸命になっているとは思えない言動ばかりしている。

防災の研究者は、災害発生の予測や被害想定ばかりに時間とお金とエネルギーを費やしていないで、政治家が復興と防災対策に本気になって取り組むように仕向けるくらいの刺激的な研究成果を出して欲しいものである。

2017年3月10日金曜日

稲田防衛大臣の教育勅語の理解は子ども並み

報道によれば、稲田防衛大臣は、3月8日の参議院予算委員会で、社民党の福島瑞穂議員の質問に、「教育勅語の精神である親孝行や、友だちを大切にすることなど、核の部分は今も大切なものとして維持しており、そこは取り戻すべきだと考えている」と述べたという。

以下に、ネットに掲載されていた教育勅語の画像を再掲させてもらう。句読点もなければ濁点もなく、改行も1か所だけである。漢字とカタカナだけの文章は現代人には読みにくいが、教育が普及していなかった当時のことだから、これを見てスッと理解できた人は、ごくごく少数の連中だっただろう。そして、そういうことを狙った文章構成にしたのだろう。

いまなら、大学入試や就職試験で、こんな句読点や濁点のない文章を書いたら0点を付けられるだろう。いや、「教育勅語」の文体に倣いました、と付記すれば100点を付けるトンデモ先生がいるかもしれない。


縦書きを横書きにしてみると、以下のようになる。

         朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツル
           コト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシ
         テ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育
         ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁
         相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修
         メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣
         メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ
         義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キ
         ハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁
         風ヲ顯彰スルニ足ラン
         斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ
         遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ
         悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコ
         トヲ庶󠄂幾󠄁フ

          明治二十三年十月三十日

           御名御璽

たしかに、上の文章の中には、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ」とある。句読点を入れてカタカナをひらがなにし、ふりがなをつけると、「父母に孝(こう)に、兄弟(けいてい)に友(ゆう)に、夫婦相(あい)和(わ)し、朋友(ほうゆう)相(あい)信じ」となる。まあ、簡単に書けば、お父さんお母さんには孝行し、きょうだいは仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友だちとはお互いに信じ合い」ということになろう。親孝行と兄弟愛、夫婦愛、友愛を唱っているということだ。

親孝行が最初で、兄弟愛が夫婦愛よりも先に来ているところは、戦前の家父長制を象徴しているし、旧民法でも扶養の順序が、親、子、配偶者、となっていたことと同じだ。

親孝行や兄弟愛、夫婦愛、友愛などは、まあ、言ってみれば、時代や国、文化が違っても、誰も否定しない普遍的な価値だ。そうしたことが好ましいことであることは、子どもにもわかることだ。

稲田防衛大臣は、それが教育勅語の核だという。ふざけているのか本気なのか、本当にそう思っているのか、彼女の発言を聞いて、耳を疑った。聞けば、彼女は弁護士資格を持っているそうだ。

教育勅語のような短い文章も読みこなせずに、子どもでも理解できるところしか理解できず、そこを核だと国会という場で、しゃあしゃあと自信満々に語った。無知蒙昧としか言いようがないのではないだろうか。読解力を試されるような小論文試験なら確実に0点だろう。

わかっていながら、そんな発言をしたとすれば、国民を大いにバカにしていることになる。そうなんだろうな。だが、同時に、文章読解力と歴史的認識力が子ども並みであることを披瀝し、私はノータリンですと広言したことになる。そんな自覚もないんだろうな。

2017年3月4日土曜日

森友学園をめぐる問題は共同謀議の発覚ということか

森友学園をめぐる問題が連日報道されている。

あとからあとから“新事実”が掘り出されてきて、あれま~、と驚くばかりだが、この問題は、日本会議のメンバーや、その支持者や追随者、太鼓持ちなどによる共同謀議の発覚、という見方をすれば納得するのではないだろうか。これぞ、まさしく、共謀罪、ということなのだろう。

そういえば、石原元東京都知事が記者会見して、俺は専門的なことがわからないかったから責任がないようなことを得意げに言ってたが、製造業の社長が製品作りについて素人でわからないからといって、問題が生じたときに何の責任も取らずに済まされるだろうか。

石原氏は、何を目的に、どんな理念で知事になったのだろうか。知事の役割や責任を何も考えていなかったということなんだろう。お粗末きわまりない会見であった。すっかりバカにされていた都民の感情はいかばかりか・・・