2014年3月15日土曜日

博士論文審査余話

 ほんまに、よーく、賑わせてくれている、と感心しきりのSTAP細胞騒動であるが、小保方晴子さんの博士学位論文の剽窃がすさまじく、しかも、参照文献リストにあげられている文献が本文とは無関係に他人の論文の文献リストをコピペしたものだった。

 ネット上に掲載された剽窃部分を見たが、目を疑ってしまった。これは、剽窃と言うより転載のたぐいだ。彼女は、他人の文章や図版を転載することが論文を作成することと思っているようだ。何百もの論文を読んだと言うが、転載用のものを探し回っていたということなんだろう、というのは私の娘の感想だ。うん、わかりやすい感想だ。おまけに言えば、転載の天才ということか。でも、見破られる程度のことしかできないとすれば、天才とは言えないか。

 件(くだん)の国立大学の教授が、こんなことを言っていた。

 「学位請求論文を審査した教授連は、なあなあで審査らしい審査をしなかったんだろう。論文にも目を通さなかったんとちゃうか。だいたい、文献リストが章によって形式が異なっているし、リストには順に文献に番号を付けているが、文献の中には、さらに頭に番号が付いているものもあり、文字化けしている部分(たぶん、;が□になっているんじゃないかな)もあるからビックリするよ。そんなの、ちょっと目を通すだけで目に付くものだ。このことだけでも、だ~れもちゃんと読んでいないないことがわかるし、目を通してすらいないことがわかるってもんだ」。

 「審査結果は教授会で報告され(その審査報告は公開されていて、ネットでも読める)、最終の合否は教授会で審議、判定されるという手順を踏む。ということは、最終責任は教授会が負うことになる、ということだ。疑義があれば教授会で議論される。そのときには、審査に当たった者のうち、主査と呼ばれる審査委員の親分みたいのが説明することになる。名ばかり主査の場合は、審査委員のうちの誰かか、何人かが質問に答えたり、反論したりして、審査結果の正当性を主張することになる」。

 「ところがだ。教授会のメンバーが誰一人として論文に目を通すこともないとすれば、審査結果報告に対して質問したり、疑義を正そうとすることなんかできるわけがない。だから、シャンシャンシャンで合格ということになってしまうんだな、これが。中には何か質問しないと気が済まない質問マニアや、せっかくの審議だから質問が全くないのは不自然だと思う真っ正直者が、配られた数枚程度の審査結果報告書の字句の誤りなんかを『マイナーなことですが・・・』なんて指摘することもあるけどね。
 それに、審査対象が多いときには、審査報告は1件3分でお願いしますなんて議長が言ったりするからなあ。まあ、どうせ誰も真剣に聞いたりすることもないとわかっているからだ。教授会でパソコン持ち込んで内職している連中や居眠りこいている者も少なくないしね」。

 「学位請求論文っていうのは、公開審査や教授会の前の一定期間、少なくとも、その研究科に所属する学生から教員まで誰でもが閲覧できるようなっているはずだから、パラパラッとでも目を通す機会はある。パラパラっと見て気がつくのは形式的なところだから、文献リストがなんか変だぞ、というくらいは、専門が違っていても、いやしくも研究者なら、すぐに気がつく。しかも、本文のどこにも参照や引用したことを示す番号などがないというから、何かおかしいどころか、絶対におかしいと思うはずだよ」。

 そう言ってから、「まあ、そういうことは私の身近にもあったけどね」と以下のような実例を体験談を交えて話してくれた。

 「一つは、自分が行ってもいない海外調査をさも実際にやったようにして、他の研究者の論文を丸写しして博士号を取ったケース。これは、盗用された研究者が大学に連絡して発覚した。学位論文そのものを見てのことではなく、その一部がそれより以前に紀要に発表されていて、それをインターネット上で見て、自分の研究が丸写しされていたことを知った。そのことを大学に連絡したということだ。そこで調査委員会が設置されて、明らかに盗用であると結論づけたが、それがそのまま学位論文の一部になっていたこともわかった」。

 「その結果、学位取り消しだけでなく除籍になった。在籍していたことすら抹消になったというわけだ。教授会では、除籍までする必要があるのかといったことや指導教員の責任についても侃々諤々の議論がなされたが、指導教員で主査だった教授は転任していたことやらなんやらでお咎めなしに終わった。議論の中では、何でもかんでも学位を出すような風土が問題だ、なんていうチョット乱暴だけど本質を突いていてギクッとする発言もあったけど、その発言をフォローするような意見も出なかった。結局、全部、本人の責任ということで最も厳しい処分をして終わった」。

 「もう一つは、研究の内容や水準に関わらずに論文博士を出してしまおうとしたケース。
 ちょっと説明すると、論文博士というのは、博士課程在学中に学位申請論文を作成して学位を取得する課程博士に対して、学位申請論文だけで取得した博士号のことを言う。大学院の博士課程を中退したり3年の期限内に学位請求論文を完成できなかったとか博士課程に在籍したことがない場合でも研究実績が優良であったりと理由は様々だが、要は博士課程在籍の有無を問わずに博士号が取得できる制度を利用して得た博士号のことを論文博士というわけだ。課程博士も論文博士も博士であることには何ら変わりがないが、論文博士を取るのはけっこう大変なんだ。
 事前に、論文も含めて学位申請の資格があるかを審査する内見委員会というのがある。3人の委員で構成される。まあ、その名の通り、まずは内々で見ておこう、といったようなものだ。この内見委員会っていうのは、いわば論文博士を取りたいという人の推薦人の集まりみたいなものだ。その内見委員会が、“審査の結果、こんなに立派な研究をしていて学位申請論文も審査を受けるに値する”というようなことを教授会で説明し、審議されて可否が決められる。可となれば論文博士の審査を行うことを学長に上申して許可を得る。審査委員会が構成され、論文審査が行われる
 ところが、この制度を悪用して(と言ってもよいほど簡単に)論文博士を出している/出そうとすることもある。例えば、博士号を持たない教授や助教授にその大学院の同僚が審査委員になって論文博士を出すなんてこともある。審査される方もする方も度胸があると感心するけどね。私なら恥ずかしい気もするけどね」。

 「ちょっと横道にそれたけど、こういうことがあった」。

 「同僚の教授の専門そのままの内容のテーマで論文博士の申請が教授会に出て、審査委員会が構成されることになり、5名の委員が候補に挙げられていた。委員の顔ぶれを見ると、主査はもちろんのこと、他の委員も、その論文のテーマに詳しいと思われない面々が並んでいた。
 同僚の教授はビックリした。そこで、委員の構成がおかしいのではないかと質問した。彼がそのテーマに関して日本で早くから着目していることは学会でも知られており、なんで、その審査委員会に自分が入っていないのか問いただし、こうしたことはアカデミック・ハラスメントに相当する、とも言っていた。ずいぶん思い切ったことを言うもんだと、聞いていた私は驚いたというか感心したというか、どうなってるんだと思った。
 教授会はざわついた。司会(議長)をしている研究科長は大層とまどっている様子だった。後で知ったが、審査委員会の人選に研究科長が深く関わっていたからだ。というより、研究科長が気心の知った(お仲間の)教授や准教授に主査や副査になることを依頼したようだ。ところが自らは何の説明することもなく、素知らぬ顔で、そのことに関して出席者に意見を求めた。事情を知らない出席者は、何事かと、おそらくは半ば興味津々、半ば自分には関係ないよという風に装っていたが(いつものことだが)、中には良識派というか仲裁派というか、そうした何人かが、再考した方がよいという意見を述べた。
 その結果、全く異例のことだが、委員会構成案について、その同僚の教授と主査となる教授との間で話し合えということになった。うーん、そういう落とし方もあるんかいな、と思った。研究科長はどんな心境だったかわからないが、まあ、一応は良識的な結論だったかな。
 
 聞いたところによると、その後、主査を予定していた教授が副査となる予定の准教授とともに、同僚の教授の研究室に相談に来たそうだ。相談と言っても複雑な話し合いだったそうだが、その内容は後でまた触れるとして、結局、副査として予定されていたお仲間の一人で論文もわずかしかなく学位もないことから結構な年齢になっているが昇任できないでいる准教授が同僚の教授と交代することで合意したそうだ。一緒に来ていた副査予定の准教授は納得のいかないようだったが、ともかく、当初の委員会構成案は白紙に戻ったということだ。そして、再度、委員会構成案が教授会に提出された。今度は、そこに同僚の教授の名前があった。そして、その委員会構成案は何の質問もないままに可決された」。

 「同僚の教授は、審査が始まってから渡された学位申請論文を読んで驚いたそうだ。分析の方法や結果の提示が間違いだらけで、言いたいことをダラダラと述べているだけで、取り上げている文献の読み方も自分勝手で、本当に読んだのかわからないような都合のよい解釈ばかりで、文献リストにも不備がたくさんあったという。聞けば、主査や副査の何人かが1年かけて指導していたという。どこをどう指導していたのかわからないが、その学位申請論文を誰もしっかりと読んでいなかったことが明らかだったと言っていた。
 にもかかわらず、最初の審査委員会では、主査をはじめ他の委員は、みんな、学位申請者はよく頑張ったと口々にほめていたという。論文の内容ではなくて、よく頑張ったことを評価することが審査委員会であるかのような雰囲気であったそうだ。それならば、専門に関係なく、お仲間で何でもハイハイという輩なら誰でも審査委員にできるし、論文の内容や質の如何に関わらずに審査紛(まが)いのことができるというものだ。
 同僚の教授はその論文を時間をかけて何回も読み、触れられている文献に直接当たるなどして、不備や誤りの箇所について赤鉛筆や赤のフエルトペン、赤のボールペンで逐一マークしたりメモを書きこんでいったという。論文は、どのページも真っ赤になったそうだ。しかし、他の委員はそのようなことをしていなかったので、もっぱら同僚教授が指摘していることを聞いているだけであったという。主査は、ハイハイって調子で同僚教授の指摘をメモしていたそうだ。そして、「どうですか、修正してもらいましょうか。正誤表というかたちで」と提案してきたという。
 正規に提出された学位申請論文の審査だから、本来は、その提出された論文を審査するわけだから、ルール上は、その論文がダメなら、それで終わりなんだけどね。まあ、ワープロの変換ミスや誤植などのうっかりミスの類ならば軽微な修正は認められようが、1年もかけて指導したというから、その間に、本人はもちろんのこと、指導していた者も気がつきそうなものだけどね。結局、よく頑張ったから、これで終わりということでは可哀想だ、みたいなことで、主査から申請者に指摘されたことについて“正誤表”を出してもらうということになった。同僚の教授は不本意であったが、なにせ4対1では、それ以上言っても無駄だと思い、「いま、指摘したことは全部ではない。まだまだ、おかしなところがたくさんある」と言って、その場は多数に従うことにしたそうだ。
 
 そういうことで、主査がメモしたことを文書にして申請者に伝えることになり、作成された文書が数日後にメールで委員全員に配信された。その冒頭には、“よく頑張っていて、委員会でも高く評価されました”というようなビックリする一文が記されていて、続けて、“以下のことについて正誤表を提出して下さい”みたいなことが書かれていたそうだ。同僚の教授は、冒頭の一文は誤解を受ける旨を主査に返信したが、それに対する反応はなかったという」。

 いちいち、「~したそうだ」とか「~ということだった」と書くのは面倒なので、以下からは、知り合いの教授が同僚の教授から聞いたことを知り合いの教授の同僚の教授(何かややこしいが)の言葉として書いていくことにする。又聞きを文章にするから件の教授の癖のある話しぶりをふつうの言葉で表現するのは結構大変だ。

 それから4か月ばかりが過ぎた。その間に主査からは何も連絡がなく、ある日に突然、“正誤表が来ました”旨のメ-ルが来て、委員各自の郵便ボックスにコピーが入っていた。正誤表とは言えない程のページ数で、あっちもこっちも書き換えてあった。しかも、ページがとんでいて、欠落しているのか、ページの打ち間違いかわからない。自分の分だけがそうなのかと思い、しばらくして主査に連絡すると、“気がつかなかった”ということで、確かめてみたら送られてきた“正誤表”そのものにページの欠落があった。他の委員の誰もがそうした連絡をしていなかったというから、主査はもとより、コピーを受け取った他の委員も目を通していなかった、ということだ。
 4か月ばかりかけて修正したんだろうが、指摘した点以外の不備や間違いはそのままであった。しかも、修正したというところにも間違いがあった。もとの論文にも一貫性がなかったが、“修正した”ことで、さらにわけのわからない論文になっていた。
 あらためて審査委員会が招集された。“これは正誤表と言うべきものではなく、別論文だ”という感想を述べた委員もいたが、それに加えて、自分は、元論文と修正文の不備と間違いを指摘して、みんなは、本当にわかって読んでいるのかを質(ただ)した。まあ、読んでいないよ、ごめん、とは言えないから、なんだかんだと言っていた。驚いたことに、最終の公開審査の質疑応答で説明してもらえばいいようなことを主査が言った。そこで、“このままでは、とても合格点は出せないし、公開審査の場で的確な説明を得られるとは思わない。私はしっかりと不備と間違いを指摘する”旨を言うと、委員の一人が、“あなた一人でそんなことを言っても・・・”と、あたかも4対1では私に勝ち目はないかのようなことを言った。不備や間違いよりも多数決か、と反論すると、そうじゃないけど、と言い訳をした。そりゃそうだろう。いくら何でも、不備や間違いがあっても多数決で決めたということになれば、審査した方の見識が問われることになるからだ。そこまで自分を犠牲にして強引に合格させるとなると、何かそうする理由があると疑われることになるだろう。公開審査で明らかにダメな論文ということになると、不合格しかないよ、と言って、そのときは私は授業があるので退席した。
 その後の議論がどうなったかは、全くわからない。その後、主査からも他の委員からも何の説明もなかったからだ。1~2週間たった頃だったろうか。廊下で主査に出くわしたので、その後どうなったかを聞いたところ、“取り下げるように勧告して、その通りになった”ということだった。“それはよかった。もし、そのまま進めて強引に合格させたら、渡された申請論文と修正文、それと私が指摘したことを公開するつもりだった”と言うと、ヘラヘラと笑っていた。私は、“取り下げで、あなたや他の委員にもよかったじゃないですか”と言っておいた。
 その後も、他の委員からも、その件については何も話しがなかった。推薦しておいて取り下げを勧めるというのは異常な事態だと思うが、そういう感覚はないのかもしれない。この件の第一首謀者の研究科長からも何の話しもなかった。迷惑をかけたくらいの一言があるかと思ったが、全くの知らんぷりである。こちらからも何も言わなかった。敢えて言う気分になれなかったし、言ってもくだらない言い訳しか返ってこないだろうし、審査の結果だからとか何とかもっともらしいことを平然として口にするくらいだろうと思ったからだ。何か言えば自分に跳ね返ってくると考えているんだろう。
 その後、教授会で取り下げ報告があったが、誰も質問しなかった。内見委員会が推薦したにも関わらず、審査委員会で取り下げを決めたということは、本来ならば内見委員会の審議結果が妥当ではなかったことになり、常識的に考えれば、その内見委員会自体が問題にされなければならないだろう。しかし、教授会では研究科長も主査も何らの釈明もなく、もう、誰も関心を寄せることもなく、一言、取り下げがあったという報告だけで、何事もなかったかのように過ぎた。なんてこった、と腹が煮えくりかえる思いであったが、一言言う気持ちにもなれなかった。

 以上が件(くだん)の教授が同僚の教授から聞いた事の顛末だが、まあ、なんていうか、‘無理も通れば道理引っ込む’ではないが、部外者の私が聞いても、驚きというかやりきれないというか、教育の世界ってのは信頼できないというか、油断ならないというか、そういう連中が大手を振っている中で真面目に教育と研究に従事している先生や真剣に学んでいる学生のことを思うと、気の毒だな、と思うと同時に、何か、いやーな気持ちになる。こう言っては何だけど、腐っている、と感じる。膿がたまっている。

 件(くだん)の教授はこんなことも言っていた。

 大学院の博士課程を設置することが、その学部や研究科の格を上げることになるから、どこもかしこも博士課程の設置に夢中になる。そして、博士課程の定員が多ければ、それだけ予算も多くなるが、設置されたらされたで、今度は定員を確保することと、3年という博士課程の修業年限で博士号を取らせることが責務としてのしかかってくる。どちらも、そうするように文部科学省が目を光らせている。定員も確保できず、3年という修業年限内で博士号が出せないとなると、文科省のお目見えが悪くなる。下手をすると博士課程の運営がまずいということで指導を受けることになる。

 そこで、博士課程の入試を容易にして進学や入学がしやすいようにして定員を埋めようとするから、まともに研究ができるかどうかわからないような者まで合格させてしまう。昔は、博士課程の入試といえば、専門試験や面接のほかに外国語の試験も2科目あったが、いまでは外国語の試験をしないところもある。英語もまともに読めない者が博士課程に在籍している。すると、当然、そうした大学院生は3年でまともな研究成果なんかあげられるわけがない。中には博士課程に入学できたんだから自分は頭がよいなんて勘違いしてしまう者もいる。

 ひどいのになると、どこかの博士論文なんかを引き合いに出して、あの程度の論文で博士号がとれるのだから自分にも簡単に博士号を出してくれるものだと高を括ってかかる者もいて、ふつうに指導しても何で自分にはそんなに厳しいんだと文句を言う者もいる。仕舞いには自分の無能さを棚に上げてアカデミック・ハラスメントだなんて騒ぐ奴もいる。それでも、手取り足取りして何とか学会で発表させたり学術誌に論文を投稿させたりする。そうすると、ますます図に乗ってというか、自分はいっぱしの研究者であるかのように、これまた勘違いをする。

 そんなことだから、大量の博士課程の院生を抱えたりすれば、一人ひとりに時間をかけて研究者として自立できるように指導するなんてことができるはずがない。まあ、研究領域によっては、手子(てこ)として作業に従事させられれば、それでいいと割り切っていることもあるかもしれないけど、そうして3年間過ごした院生が自力でまともな博士論文なんか書けるはずはない。だから、学位は出すけど、その学位論文に価値がないことは指導した人間が一番わかっているはずだ。それでも、博士課程の院生を大勢抱えて修業年限内に博士を大勢出していることは少なくとも悪い評価にはならない。小保方晴子さんの博士論文の不正をきっかけに早稲田大学におけるコピペだらけの博士論文が問題になっているが、そうした博士論文が大量に生み出されてくる背景にも同じようなことがあるということだ。

 そんな中では、論文の質やレベルなんか問題にならなくなって、何でもいいから博士号を出してしまうという風土というか文化というか、そんなものが、その研究室や専攻、研究科に形成されてしまい、自分たちのやっていることが、とんでもないことだなどいう感覚がマヒしてしまうというか、そういうことに鈍感になってしまう。こうなってくると、もう教育や研究の世界ではなくなってしまう。だから、造詣が深くない輩がわけしり顔で偉そうに振る舞い、その取り巻きが、好い目を見ようとしたり、おこぼれを頂戴しようとして支えることになる。こうして何事もお仲間うちで進めるから内部から批判やまともな意見が出ようがないし、批判したりまともな意見を言う人間は無視されるか潰される。

 知り合いの教授の以上のような話を聞くと、なんだ、博士課程なんて高校入試や大学入試よりも簡単で、希望すれば誰でも入れるんだ、と思ってしまう。そして、博士課程と言えば、頭のよい若者が大勢いて何かすごい研究をしているのかと思ったけど、全然そうじゃなくて、へんてこな連中が集まっているだけなんだ、と思ってしまう。‘末は博士か大臣か’なんてことを耳にして育ってきた頭の硬い古くさい人間である私は、博士論文といえばすごい研究の成果で、博士といえば学識豊かな立派な人物と思い込んでいたが、悲しいことに、そうした思いがガラガラと崩れ去ってしまった。
 でも、待てよ。件の教授の体験談が伝えるような博士課程や博士論文ばかりではないだろう。在職中に何人かの博士号持ちに接した経験から言うと、さすが、と思わせる若者もたくさんいたし、仕事の関係で訪れたことのある幾つかの研究室では、教授も大学院生も真っ向勝負で教育や研究に当たっていることをヒシヒシと感じたし、そうしたところでは、不正やデタラメは通用しないだろうと思った。だけど、そうしたところは地味で目立たないから、優れた研究成果をあげていても、あまり注目されないんだろう。
 粗製濫造気味に大学院の設置を認可し、それに乗っかって好き放題にしているところをどうやって是正、改善していくかは容易ではないだろう。内・外部からの指摘があっても、何だかんだと言い繕って守りを固めることだろう。認可した側も認可された側も、そうした指摘にまともに応えようとすれば、それまでしてきたことを自らが否定することになり、責任を取らなければならなくなるからだ。
 

 問題の根は深いが、考えようによっては、解決することは容易かもしれない。しっかりとした基準に則って、デタラメや不正に目をつぶらずに、下手な小細工を廃し、ごくごく常識的で当たり前の判断を素直に実行さえすればよいことだ。そして、教育や研究の世界こそ、そうした良識がまともに通用する世界でなければならないと思う。

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