2015年9月22日火曜日

自家製のおはぎを食べ過ぎた

妻が急に思い立って、「おはぎ」を作った。ずっと昔に作ったような作らなかったような。本人も、よく覚えていないくらいに久しぶり作った。

小豆を買ってきて、時間をかけて「つぶ餡」を作った。糯米(もちごめ)も買ってきて粳米(うるちまい)と混ぜて炊いた。出来上がった「おはぎ」は迫力満点の特大サイズである(下の写真)。

 
「おー、うまそう~」と夕食に食べた。本当においしかった。2つをよく味わいながら食べてから、漬け物とお茶で仕上げ、と思っていたが、甘い物好きなのに、「おはぎは食べられない」と娘は何と「おはぎ」に見向きもしないでレトルトのカレーを食べだした。

せっかく時間をかけて母親が作った「おはぎ」を食べない娘に、「お彼岸には、おはぎを食べるものだ」なんて、突然、伝統文化礼賛論者みたいになってしまった私は、「あれ、俺も年をとったかな」と思いながらも、「おはぎ」の後味を楽しみながら「おはぎ」談義をしようかと思ったが、強烈なカレーの香りに誘惑されてしまい、「食べたいの?」という娘に、素直に、「うん」と言ってしまった。

「おはぎ」とは、また、別の味を楽しんで、「おっ、うまいな」と、つい言ってしまった途端、「もう、おはぎ、食べないの。せっかく時間をかけて、一生懸命作ったのに」と妻からのクレーム。「そうよ、せっかく作ったのにね~」とは娘の弁。自分では食べないくせに、母親の味方をする。妻も娘には食べろとはひとことも言わないのに、私には「さあ、もっと食べて」と無理強い気味に勧める。

若いときなら、「おはぎ」の4つや5つは食間でも食後でも軽く食べたものだが、年には勝てないもので、この、でっかい「おはぎ」は2つ食べれば十分すぎるくらいなんだが、ここで食べないと、「もう作ってやらない」と言われそうな気がして、「じゃ、もう一つ食べようかな」と、口中にカレー味が残っていて何の味だかわからなくなってしまったが、“頑張って”食べた。

というわけで、「おはぎ」食べ過ぎという、しょうもない話しでした。

昔、お彼岸になると、「おはぎ」を各家庭が大量に作って、重箱につめて親戚やら隣近所やらに配ったものだ。「おはぎ」や「ぼたもち」が行ったり来たりすることになるのだが、一日中食べていた気がする。どの家庭でもそうだったんだろう。面白い習慣というか、贅沢な無駄だったんだろうな。

お寺にもお供え物として持っていった。本堂の2階の壁に沿ってぐるりと何段もの位牌が並べられていて、一番下の段の、大人の腰の高さくらいのところがお供え物を置く段になっていた。そこに、各檀家がもってきた「おはぎ」が重箱やら皿に盛られていた。どれくらいの数だったろうか。それはそれは壮観だった。つまんで食べてもいいということだった。好きなだけ食べてもよかった。もっとも、線香の煙と香りが満ちている中では、子どもでも食べる気はしなかったが。

ついでに、「おはぎ」や「ぼたもち」について、あらためてチョット調べてみた。転載しておくことにする。うーん、知らなかったことも多い。勉強になった。

『広辞苑』(岩波書店)より
〇お‐はぎ【御萩】
「はぎのもち」の別称。「彼岸に―をこしらえる」

 〇はぎ‐の‐もち【萩の餅】
糯米(もちごめ)や粳米(うるちまい)などを炊き、軽くついて小さく丸め、餡(あん)・黄粉(きなこ)・胡麻などをつけた餅。煮た小豆を粒のまま散らしかけたのが、萩の花の咲きみだれるさまに似るのでいう。また牡丹に似るから牡丹餅(ぼたもち)ともいう。おはぎ。はぎのはな。きたまど。隣知らず。萩の強飯こわいい。

『世界大百科事典』(平凡社)より
 ぼた蛭(牡丹蛭)ぼたもち
もち米、または、もち米とうるち米をまぜてたき、半つぶしにして小さく丸め、アズキあん、きな粉などをまぶしたもの。春秋の彼岸につくって仏壇に供え、親戚縁者などへ配る風習があった。ぼたん蛭のなまった語で、別に〈萩(はぎ)の花〉〈萩の蛭〉〈おはぎ〉ともいう。いずれも形や色をボタンやハギに見立てたもので、萩の花の語は《日葡辞書》に Faguino fana として書かれている。《本朝食鑑》(1697)は、手軽に蛭つきの音も立てずにつくれるので〈隣知らず〉、またついたかどうかわからぬので〈夜舟(よぶね)〉というだじゃれめいた異称を紹介し、庶民の食べもので貴人の食とされることは少ない、ともいっている。江戸では天保(1830‐44)ころから〈三色ぼた蛭〉で人気を集めた店があった。鵬町三丁目(現,千代田区)にあった〈お鉄ぼた蛭〉がそれで、〈ぼた蛭だけれどお鉄は味がよし〉などと川柳や狂詩によまれている。(鈴木 晋一)

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