2014年2月26日水曜日

この国のかたち

 故人となられた作家・司馬遼太郎氏の作品に『この国のかたち』と題された随想がある。彼の作品の多くを読んだが、随想の類は何となく敬遠していたから、『手掘り日本史』や『街道をゆく』なども手にしたり目を通したことはあるが、しっかりと読んだことはない。ただ、そのネーミングには感心もしたし、考えるヒントをもらった気がした。そして、いま、まさに、「この国のかたち」を考えなくてはいけないな、と思う。

 チチハルで捕虜になり、シベリアに2年間抑留されてすっかり体を壊して帰還した父は、私が小学校1年生の時に結核で入院し、7年の入院生活の後に一度も退院を経験することなく病院で亡くなった。入院のために病院の黒い大きな車が迎えに来たことを覚えている。

 そのとき私は、左足の脛(すね)を骨折していて布団に寝ていた。祭りの山車(「やたい」と呼んでいた)の引き綱に足を取られて転んだ拍子にボキッと音がした。痛くて大泣きしたときに、若衆の一人が山車に乗せてくれたが、いやがって泣き続けた。誰かが家に走って行ってくれたようだった。母親がとんできた。おんぶされて、そのまま近くの整骨院(「骨接ぎ」と呼んでいた)に行った。泣き通しだったと思う。怖い顔をした年配の整骨医だったがとても優しかったことを覚えている。たぶん、すぐにギブスをされたのだと思う。そして、また、母親に背負われて帰宅した。

 父が入院したのはその日ではないと思うが、布団に寝ていたまま見送りしたことを覚えているから、骨折してから、そう何日も経っていたとは思えない。そのとき、父が私に何か言ったのか言わなかったのか覚えていないし、父の姿も浮かんでこない。子どもの骨折に夫の入院と母親は大変だったと思う。私の反戦、護憲の原点はそんなところにあるようだ。かつて厭戦という言葉を目にし、耳にしたのは高橋和巳の本だったか小田実の発言だったか・・・。そういう言い方もあるのかと思った。

 母が、「戦争に負けてよかった」というようなことを、ぽつりと漏らしたことがあった。私が高校時代のことではなかったかと思う。夫を戦争にとられ、戦時中は小さな子ども2人を抱えて夫の実家(本家)で慣れない農作業に従事するなど苦労の多い大所帯での疎開生活をし、自分の実家は戦火で失われ、帰還できたが抑留生活でボロボロの体になって帰ってきた夫は長い入院生活の末に小さな家一軒を残して亡くなった。それでも、戦争に負けたからとか、日本が勝っていれば、というのではなく、何が、母をして「戦争に負けてよかった」と言わせたのだろうか。「軍人がえばる(威張る)時代はよくない」というようなことも言っていた気がする。軍国主義反対とか反戦平和などということを口にしたわけではないが、戦前、戦中の生活経験から出た率直な感想なのだろう。

 この国のかたちが、どのようにして、誰によってつくられていくのか。よーく考えて行動していきたいものである。

2014年2月24日月曜日

減量作戦開始

 この数週間、自分ながら、よく食べると感心すると同時に、体が何か警告を発しているような感じがしていた。このまま大食を続けると、糖尿病か高血圧、肝臓を痛めてしまうのではないかと思った。

 血圧は低いし、これといった持病があるわけではなく、通院もしていないし、常備薬の世話になっているわけでもない。ただ、頬あたりが丸くなってきたし、メタボと診断された胴回りが一層拡張してきたことと、そのために、無理なく穿(は)くことができるズボンがなくなってきた。先日、鐔(つば)付きの帽子を買おうと思って試着して鏡を見たら、殻付きピーナッツに帽子をかぶせたような姿になっていて、買うのをやめた。
 
これまで自分が快調だと感じていた体重は65Kg前後だが、いまは74Kgくらいある。10Kgほどオーバーしている。これでは、しこたま持っている背広やブレザー、ズボン、ワイシャツ類もタンスの肥やしになっているのも仕方がない。

 さて、減量開始の今日は、遅い朝食はカボチャ入りのおかゆを1杯だけ。それに、牛乳と野菜ジュース。夕食は、ふだんより数品減らして、米飯と味噌汁にマトンと野菜の炒め物(ジンギスカン風)、ゆでジャガイモ半個分、漬け物。食後のデザート類や間食はゼロ。不思議と一日中空腹感はなかった。

 歯科医院への往復で30分ほど急ぎ足で歩いたので、少しはカロリーを消費したのではないだろうか。それに、ちょっと難しい頭脳労働に結構な時間を費やしたので、減食とカロリー消費の効果はあったのではないかと思う。

 さてさて、どれくらい続くか楽しみだ。この調子でいけば、1か月もすれば、確実に減量できるのではないかと思う。食べたものを手帳に記した。

 入りと出の差し引きで体重は決まるだろうから、理屈は簡単。料理上手で、おいしいものをたくさん食卓に並べてくれる妻には申し訳ないが、しばらくはこれまでの健啖家を返上して、減食に努めることにする。

 飢餓状態が長寿遺伝子を活性化させるとか、年をとっても肉を食べなければいけないとか、小太りくらいが長生きするとか、いろいろなことが言われているが、いまは、とにかく、自分がベストコンディションと考える体重まで落とすことに専念することにしよう。
 
 これも昔の話になるが、高校時代に菜食主義的食事を数ヶ月続けたことがある。マレイ・ローズというオリンピックの競泳金メダリストの父親が著した本を当時読んで、マレイ・ローズの食生活をまねしてみようと思った。その本は、いま手元になく、題名も忘れてしまったので、amazonでマレイ・ローズを検索語にして調べてみると、『世界記録を生んだ栄養食―マレイ・ローズの父の手記』(花田 達二訳、ベースボール・マガジン社 、1964年)というのがあった。そうそう、この本だった。中古品で、18,500円の値がついている。近くの公立図書館の蔵書検索で1冊見つかった。

 私は中学から続けていたバスケットボールに夢中になっていて、ジャンプ力や瞬発的スピード、ボールさばき、ガード力、シュート力など技術的には自慢できるものがあったが、課題は持久力であった。試合時の持久力に自信がなかったわけではないが、練習時の長距離走でチームメイトに後れをとることが多く、長距離は苦手、という意識があった。

 水泳競技には持久力が何よりも求められる。17歳のマレイ・ローズは、1956年のメルボルン大会で400mと1500m、800m(200m×4)リレーの自由形で3つの金メダルに輝き、4年後のローマ大会では、400m自由形で金メダル、1500mで銀メダル、800m(200m×4)リレーで銅メダルを獲得した。その食生活が野菜中心であったことに驚いた。そして、それで持久力がつくのならやってみようかと思った。

 いまとなってはうろ覚えだが、開始3日間は絶食して、それまでの老廃物を全部排出したことと、肉や魚は一切口にしなかったことは、よく覚えている。牛乳や卵、チーズは食べた。タンパク質は大豆など植物タンパクで摂ればいいということで、豆腐や納豆をよく食べたような気がする。米飯もそんなに食べなかったのではないかと思う。そして、それまでは、夕食を終えても9時頃には空腹を覚え、寝る前にもう一食というくらいの毎日であったのが、食事の量が減少したはずなのに不思議と空腹感を覚えなかったように記憶している。

 そのときに、なぜかセロリが異常に好物になった。バリバリかじって噛みしめた。その味が何ともいえなかった。一種の中毒だったかもしれない。その本にセロリのことが書いてあったのかもしれない。高校にはアルマイトの弁当箱を2つ持って、1つの弁当箱にはセロリを何本も入れていた。級友には、あきれられて、誰も「俺にもくれ」と言わなかった。家族もあきれていた。

 その効果だと思うが、長距離走も苦にならなくなった。そればかりか、毎日の練習後に運動場の200mトラックを15周する3000m走では先頭を切ることが多くなった。もともと太ってはいなかったが、食生活が変わっても体重はほとんど変化しなかったのではないだろうか。

 いつ、なぜ、どのようにして、その食生活を止めたか全く忘れてしまったが、減量を開始して、そんな記憶がよみがえった。持久力をつけようというかつての目標に比べて、手持ちの服が再び着られるようにという何ともつまらない目標ではあるが、何となく、うまく成功するような予感がする。

2014年2月21日金曜日

冬季五輪

 冬季五輪も終盤。メダルの期待に応えた選手も、残念な結果に終わった選手も、あまり注目されていなかったのにメダルを獲得した選手も、みな一流選手。メダル獲得数や活躍する選手に関する事前の“予想”に選手も観衆も振り回されたことだろうが、超一流の選手が一堂に会して、それまでの厳しい練習の成果を全力で発揮し合うのを見るとき、人間はすごいな、と素直に思う。

 それにしても、新しい種目や競技方法が色々と出てきて、オリンピックも大きく様変わりしている。古くて頭の硬い人間には、オリンピックは、「より速く、より高く、より強く」を競う場というイメージがある。人間の限界に挑む選手の姿を見ていて、つい力が入り、奥歯をグッとかみしめたり、ハラハラドキドキする。

 そのためではないだろうが、右の奥歯が痛み出したので、きょう、歯医者に行った。朝に予約をして11時に来るように言われたので15分ばかり歩いて家族がかかりつけの歯科医院に行った。1時間ほど待たされて、まずは歯科助手のような人の問診があってから、治療台に乗った。よだれかけをされて、口をすすいで待つこと15分。きょろきょろ見回していたら、「大丈夫ですか?」と、近くの診療台で患者の口内清掃のようなことをしていた歯科助手とおぼしき人がマスクを外してニコニコ顔で近寄ってきた。「あっ、大丈夫ですよ」と返事をしたが、“この爺さん、ぼけとんのと違うか”と思ったようだ。帰ってきて妻に話したら、「じっと座っているのがふつうでしょ。そんなことする人はいませんよ」と叱られた。

 そういえば、こんなこともあった。受付で、「予約を入れていた者ですが」と言って保険証を出すと、「上がって下さい」というので、スリッパを履こうとしたら見当たらない。「あれ」と思って、キョロキョロしていると、受付嬢がカウンターを回って出てきて、「これです」と目の前の機械の赤いボタンを押した。機械の中から清潔になったスリッパが出てきた。同時に一足分出るように出口がちゃんと2つなっていたが、出てきたのは片方だけだった。すると、受付嬢はおもむろに機械の前面片方を開けて、もう片方のスリッパを取り出してくれた。「うまく出んのよ」と待合室の椅子に座っていたご老人が声をかけてきた。こんなところにも抗菌機器があるんだ、と感心したというかあきれたというか。

 あれ、話が飛んでしまった。悪い癖だ。オリンピックの競技種目のことだったな。

 競技種目に優劣はないことはわかっているが、この競技でも金メダルかと、つい競技種目を比較してしまう。「より速く」もなければ、「より高く」もなければ、「より強く」もないような気がする競技やコチョコチョとしたことを採点して優劣を決める競技というのはオリンピックの種目としてどうなんだろうと思ってしまう。

 昔、というと、またか、と自分でも思うが、トニー・ザイラーというスキーヤーがいた。当時のアルペン種目の花形、回転、大回転、滑降の3種目で金メダルを取った天才スキーヤーだ。1956年にイタリアのコルティナダンペッツォで開催された第7回大会でのことだ。ちなみに、この大会で、猪谷千春選手が回転で銀メダルをとった。冬季五輪では日本人初(アジアでも初)のメダリストになったことで知られている。

 実は、その、トニー・ザイラーのサインを私は持っているのだ。握手もした。一緒に写真を撮ることができなかったのが残念だが、札幌のデパートで買い物をしていたときに、たまたま彼のサイン会に出くわして、「おーっ」とばかりに駆け寄ってサインをもらい、握手をしたのだ。忘れられてしまったのか、ちらっと見て通り過ぎる人ばかりで、サインを求める人はほとんどいなかった。かれは机の前にぽつんと座っていた。わたしは、彼が俳優として活躍していた頃の映画も見ているから、実物(本人)を目の前にして興奮していた。何か言葉を交わしたが、寂しそうであった。かつてスキーでも俳優でも大成功をした人が、地方のデパートでサイン会をしている姿を見て記憶している人は多くはないだろう。

 妻は、札幌で滑降競技を実際にコースサイドで見ているので、そのすさまじさをよく語ってくれたが、冬季五輪の花形は、やはりアルペン競技、その中でも、回転、大回転、滑降ではないかと思う。まだ一度も放映されていないようなので、冬季五輪が開催されている感じがしない。

 森・元首相の真央ちゃんに関する発言は、彼の知性のなさを伝えるものだ。彼がかつて日本の首相であったことと、依然として政界にいること、そして、彼を東京五輪の組織委員会会長とする勢力って、いったい何なんだ。

2014年2月19日水曜日

ターナー展に行ってきた

 娘からチケットをプレゼントされたので、用事のついでに妻とターナー展に行ってきた。趣味というわけではないが、美術館や博物館で芸術作品や文化財などを見て回るのが好きだ。

 これまでにいろいろなところに行ったが、有名なところではルーブル美術館やオルセー美術館、大英博物館、スミソニアン博物館か。バングラデシュの国立博物館も、これぞ博物館と感動したことを覚えている。いずれも圧倒される規模で、見終わると満足する以上にグッタリと疲れてしまうのが常だ。

 北海道や上野、京都、大阪の有名な美術館、博物館、各地にある埋蔵文化財センターには機会があれば立ち寄っている。熱海のMOA美術館や伊東の池田20世紀美術館、和泉市久保惣記念美術館にも何回か行ったことがある。鳴門の大塚国際美術館には家族4人で行ったことはあるが私は入館しなかった。家族は入館したが、その間、私は鳴門公園を散策して鳴門海峡の景色を堪能していた。そのときは、技術の粋を集めた原寸大の陶板がとはいえ、本物を鑑賞できる外国の有名な美術館に比べて入館料がベラボーに高いと思ったからだ。
 
  そうそう、もうずいぶん前のことになるが、ノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell 1894~1978)の作品展に行ったことがある。ビックリしたことを覚えている。もう、最高、っていうか、スゲッ、っていうか、震えた、っていうか、まったく俗っぽい表現になってしまうが、そんな印象を受けた。ポケット版の作品集をいまも持っているが、見るたびに、天才だな、この人は、と思う。

 教科書や何やらで目にしていたものを実際に見ると、感激したり、あれ、こんなものかとか、人間ってすごいな、と思ったりするが、私が美術館や博物館に足を運ぶのは、一つひとつの作品や文化財を鑑賞するためというよりも、そこが別世界に連れて行ってくれる場であったり、別世界で遊ばせてくれる場であるからかもしれない。

 さて、話が横道にそれてしまったが、ターナー(Joseph Mallord William Turner(1775~1851が、英国最高の巨匠というのを知らなかった。イギリスに短期間ではあるが滞在していたときにも、ターナーの作品を大量に収蔵しているテート美術館というのも知らなかった。

 紙や板、カンバスとさまざまな地に描かれた水彩画と油絵の大小さまざまな作品100点以上が展示されていた。平日なのに、多くの老若男女が熱心に見入っていた。見応えがあった。そして、例によって、くたびれて、喉が渇いた。

 作品に添えられた説明の中に「水彩、グワッシュ」というのがあって、「グワッシュ」がなんだかわからなかったが、後で調べたら、ポスターカラーのような不透明水彩絵の具の一種で水溶性のアラビアゴムを媒剤とするだそうだ。そういえば、水彩画といっても、ふつうの透明水彩絵の具で描いたものとずいぶんちがう印象で、これって、水彩画?とも思った。水彩画というと、白地の画用紙に描くイメージしかなかったので、一つ勉強になった。どこかで、「グワッシュ」を目にしていたかもしれないが、記憶になかった。これまでの絵画鑑賞の態度が好い加減だったからだろうが、ターナーの水彩画がそれだけ印象深かったからかもしれない。

 印象深い作品だったが、気がついたというか興味を持ったことが3点ある。鑑賞の印象とか美術評論とは遠いことだが。

 第1には、ターナーの作品には、絵画の右下なんかに書かれている作者の署名がどの作品にもないことである。これまで見た絵画の中には署名が入っているものが多く、へんてこな署名がかえって目障りと思ったこともあるから、気がついたのかもしれない。でも、フェルメールやゴッホの作品にも、モナリザにも署名はなかったようだから、ターナーだけのことではないということか。この辺のところが美術鑑賞を取りたてて趣味にしているわけではない物好きの早合点というところかもしれない。小品にはコレクションの番号が小っちゃく刻印されていた。

 第2には、大作の多くにみられることだが、作品の上半分に空(そら)が描かれていることだ。その空(そら)の雄大さ(変な表現か?)から、細かく描かれている人物がとても小さく感じる。望遠描写と言ってよいような構図だ。そのためか、開放感があるというか奥行き感があるというか、とてつもない大きな絵にも関わらず、圧迫感を感じさせない。空(そら)の描き方が秀逸、なんて言ったら、こら素人が、と怒られるかもしれないが、やたらに空(そら)が気になった。

 第3には、ターナーっていう画家は面白い人だな、と思ったことだ。王室に取り入るような絵を描いたりしたかと思えば、パトロンの意に反した絵を描いて援助を失ったり、戦勝をもて囃す絵ではなくて、海戦の犠牲者や悲惨さを描いて王室から依頼がなくなったりしている。風景画の巨匠として知られているが、豊かな知性をもって人間を描くことにも優れていた画家だと感じた。そういえば、先日、テレビ番組でみた大阪商船嘱託画家の大久保一郎氏が描いた戦時徴用船の悲劇的な絵にも心を打たれた。絵画がもつ記録性と画家の人間性というべきか。そんなことが、ちらっと頭をよぎった。

 見終わって外へ出ると寒風。首をすくめた。帰りの道順を間違えて、寒空の下、大回りをしてしまい、だいぶ歩くことになった。おかげで、芸術鑑賞と運動がいっぺんにできた一日であった。

2014年2月14日金曜日

大学の学期末試験 Part 2

 知り合いの国立大学の教授が今年もぼやいていた。学期末の定期試験を採点しているそうで、こんなことを言っていた。

 授業中に、「前年の試験で、このことについて出題したところ、授業でそういうことではないよ、と繰り返し話していたのに、そういうことではないことを書き連ねている答案が多かった」(何かわかりにくい話だが)と今年の授業でも繰り返し話をしておいたにも関わらず、同じように、そうではないことを書き連ねている答案が多かった、ということだ。

 テキストを用意して、かんで含めるように話をしても、きっと、居眠りをしていて何も聞いていないし、テキストも読んでいないのだろう、と言っていた。

 「そりゃ、君の授業がつまらなくて退屈しているからじゃないのか」と言うと、「つまるかつまらないかは問題じゃない。知らないことを知る喜びとか、新しいことを知って自分が成長したという感覚を味わおうとしないよ、いまの学生は」と言っていた。まあ、教師なんだな、と思う。たしかに、大学で難しい話を聞いて、自分もわかったつもりになって、知ったかぶりして誰かにとくとくと話していた頃が懐かしく思い出された。

 こんなことも言っていた。「試験を受けに来たのか、部活の前にちょっと寄ったのかわからないような学生も多いんだ。クラブのロゴ入りのユニホーム姿で、中には机にラクロスのスティックが入った袋を寄せ掛けていたり、通路にはクラブ用のでかいバッグやらタオルを置いているし、本気に試験を受ける気があるんかいな、と思うよ。こっちは、万全の体制で臨んでいるのに」。

 また、こんなことも言っていた。「学ぶということは、日常とは違う世界に踏み込むことなんだが、そのことがわからないから、日常的感覚に引っかかるものしか理解できないし、しようとしない」。

 「おー、何やら、よくわからないぞ」というと、「こういうことだ」と言って例を挙げてくれた。

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 地位という言葉がある。英語ではステイタス(status)だ。日常的には、地位が高いとか低いと使うことが多い。ところが、statusには状態とか状況という意味がある。既婚か未婚か離婚かといったような状態を指すときにはmarital statusという。日本語では婚姻上の地位なんて言う。辞書には、次のような例も載っている。
 the present status of development (発展の現状)
 social status (社会情勢)
 status of booking (航空券上に示される利用区間の予約の状況)

 「従業上の地位」という用語もある。平成24年7月の総務省統計審査官室の資料では、次のように説明している。

政府統計における「従業上の地位」の扱いについて
1 「従業上の地位」に関する統計分類について
「従業上の地位」とは、仕事をしている人をその地位によって分類したものであり、
一般に、雇用者/自営業主/家族従業者 等の分類であると考えられている。
「従業上の地位」に関する統計分類としては、ILOが定めている「従業上の地位に
関する国際分類」(International Classification of Status in Employment, ICSE)がある(別紙1参照)。我が国の各統計調査における「従業上の地位」の区分は、おおむねこの国際分類に従っている。


 別紙1を参照すると、次のようなことが書いてある。

「従業上の地位に関する国際分類」(ICSE:International Classification of Status
in Employment)は、国際労働機関(ILO)によって1958年に初版が設定され、1993年に開催されたILO第15回労働統計家会議において改定された。
ICSE-93は、次のグループ(項目)から成る。(日本語の項目名は仮訳である。)
①雇用者(employees)
②雇用主(employers)
③自己採算労働者(own-account workers)
④生産者共同組合のメンバー(members of producers' cooperatives)
⑤寄与的家族従業者(contributing family workers)
⑥分類不能(workers not classifiable by status)


 もうわかると思うが、そこで言う「地位」は、地位が高いとか低いと言うときの地位とは別物だ。そうしたことを何回言っても、「従業上の地位」について説明させると、会社の中での社長とか部長といった役職名とか、コンビニの店長とか書いている。日常的感覚から離れられない、というか日常的感覚でしか物事を考えていない、考えられないんだな。残念だよ。
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 教授はそう言ったが、「まあ、考えようによっては、日常的用法から離れた使われ方は、なんか霞ヶ関の論理とか永田町の論理みたいじゃないのか。従業上の地位って聞けば、ふつうは社長とか部長、平社員というように社内でのランク付けのことと思うよ」と言うと、「まあ。そういうことも言えるかもしれないけど、それじゃあ、大学で学ぶ意義なんかないじゃないか」と力なく答えたが、次のような例も話してくれた。

 経験科学という用語があるそうだ。かつて、カルナップという哲学者が、経験的事実で命題の真偽を判定する学問のことをそう名付けたそうだ。経験的事実というのは、人間が生きているこの3次元空間で五感で観察可能な対象のことだという。まあ、素人なりに解釈すれば、実際に見たり聞いたり触ったり嗅いだり味わったりできるものやことのことなんだろう。そうしたことで、言っていることが本当かウソかを判断する学問のことというわけだ。言ってみれば、証拠だな。目撃証言や物証で犯罪を立件することと同じと考えればよさそうだ。
 論理学や数学は、そうした経験的事実で命題を証明したりすることはないから、経験科学と区別して形式科学と呼んだという。ふーん。そういえば、論理学は別に事実がどうのこうのという議論はしないようだし、数学は4次元空間や5次元空間などという想像でしか語れない世界のことを扱っているものな。そう考えると、文系とか理系という分類とは全然ちがうんだ。一つ賢くなった。物理学や化学が経済学や社会学、心理学と同じように経験科学に分類されて、数学が論理学と一緒の形式科学で、物理や化学とちがうというのは驚きだな。というより、新鮮な感じがするな。これからは文系と理系ではなくて経験科学系と形式科学系という区分も受験生に教えた方がいいのかもしれないな。

 教授が言うには、そうしたことを説明しても、経験的事実というのは自分が経験したこととか、経験科学というのは自己の経験に照らしてなんとかかんとか、というように書き連ねるということだ。経験というと、自分が体験したこととしか理解できないということのようだ。経験的事実とか経験科学というのはそうした私的な体験のことを言うんじゃないよ、と口を酸っぱくしても頭の中に入れようとしないと言う。要するに、ここにも日常的感覚でしか言葉を使えないということが表れているということのようだ。

 もっとも、そうした答案は居眠りしていたり代返で出席回数だけを稼ごうとしている学生のじゃないか、ちゃんと調べたのかと聞くと、「そんなこといちいちできるか」とのことだった。なんだ、ちっとも経験科学的じゃないな、と言うと、「だけどな、・・・」ということだった。

 そして、もう一つ愚痴っていたことは、一流企業や役所に就職も決まって卒論の発表も終わって、という卒業年次の学生が、「就活や卒論で忙しくて授業に出られなかったけど試験を受けさせて下さい」と平然とした顔で言ってくることや、出席はしているものの100点満点で20~30点しかとれていない答案を見ると、「どうしたらいいんだよ」と、くら~い気持ちになると言うことだ。「ほら、昔からホトケの何々先生っていたじゃないか」というと、「ホトケじゃなくて、ホットケだよ」と下手な駄洒落が返ってきた。

 まあ、学生に対する大学と企業や役所の見方がかけ離れているのもしかたがないかもしれないし、就職も決まっているんだから落第させるのは酷だというのも日常的感覚かもしれないな。いっそのこと、試験は大学入試センター試験みたいに全国共通にして授業担当者や当該学部、当該大学の恣意が働かないようにするのも一考に値するかもしれない。とはいえ、そうなれば、大学教師の大半は授業を持たせてもらえなくなるかもしれないし、学生は授業より共通試験の勉強に励むことになるかもしれない。

雪景色

 今冬は例年になく寒い。年をとったせいか、運動不足なのか、自分の身体的衰えから、そう感じるのかもしれないが、2週続けて雪が降ったのは、この地に住むようになって初めてのような気がする。

 きょうは、朝からどのテレビ局も雪のニュースで大賑わいだ。首都圏の降雪状況を無理矢理とも言えるほどに深刻ぶって報じている。雪に弱い大都市を印象づけようとしているかのように、交通マヒ状態を繰り返し伝え、にこやかに応じる歩行者へのインタビュー風景を流している。東京に雪は似合わない、とでも言うかのように。でも、どことなく、おもしろがっている風でもある。

 着飾った女性記者かアナウンサーかレポーターかはわからないが、ちらつく雪を背景にして、「滑って転んで怪我をした女性がいます」とか若い男性記者が「歩道は先ほど除雪したので雪はありませんが、ご覧のように公園の柵の中には雪が積もっています」なんて言っている。

 降雪で首都圏が混乱するのは確かにニュースではあると思うが、雪国で20年暮らした経験がある人間からすると、もっと大事なニュースがあるんじゃないの、と言いたくなる。全局がこぞって特番のように大騒ぎしてまで取り上げるなんて、この国のジャーナリズムはどうなってんだ、と言いたい。

 とはいうものの、昔懐かしさに、雪の写真を撮りまくった。といっても、記録しておく程度のものだから、芸術性は全くない。


 
住宅地内に人影はない




 
車に積もった雪が溶けかかってフロントガラスを滑り落ちていくときに褶曲したようだ。こんなのを見たのは初めてで、“おっ、珍奇で貴重な現象”と自分勝手に思って撮った。


 
昔、誰もまだ踏んでいない雪の上を歩いて、“前人未踏”の地に自分の足跡を、なんて感情の高ぶりを覚えた。まー、若いときは、つまらないことにも何か意味を見いだして勝手に感動するものなんだろうな。そのときのことを思い出して、長靴で歩いてみた。