2014年2月26日水曜日

この国のかたち

 故人となられた作家・司馬遼太郎氏の作品に『この国のかたち』と題された随想がある。彼の作品の多くを読んだが、随想の類は何となく敬遠していたから、『手掘り日本史』や『街道をゆく』なども手にしたり目を通したことはあるが、しっかりと読んだことはない。ただ、そのネーミングには感心もしたし、考えるヒントをもらった気がした。そして、いま、まさに、「この国のかたち」を考えなくてはいけないな、と思う。

 チチハルで捕虜になり、シベリアに2年間抑留されてすっかり体を壊して帰還した父は、私が小学校1年生の時に結核で入院し、7年の入院生活の後に一度も退院を経験することなく病院で亡くなった。入院のために病院の黒い大きな車が迎えに来たことを覚えている。

 そのとき私は、左足の脛(すね)を骨折していて布団に寝ていた。祭りの山車(「やたい」と呼んでいた)の引き綱に足を取られて転んだ拍子にボキッと音がした。痛くて大泣きしたときに、若衆の一人が山車に乗せてくれたが、いやがって泣き続けた。誰かが家に走って行ってくれたようだった。母親がとんできた。おんぶされて、そのまま近くの整骨院(「骨接ぎ」と呼んでいた)に行った。泣き通しだったと思う。怖い顔をした年配の整骨医だったがとても優しかったことを覚えている。たぶん、すぐにギブスをされたのだと思う。そして、また、母親に背負われて帰宅した。

 父が入院したのはその日ではないと思うが、布団に寝ていたまま見送りしたことを覚えているから、骨折してから、そう何日も経っていたとは思えない。そのとき、父が私に何か言ったのか言わなかったのか覚えていないし、父の姿も浮かんでこない。子どもの骨折に夫の入院と母親は大変だったと思う。私の反戦、護憲の原点はそんなところにあるようだ。かつて厭戦という言葉を目にし、耳にしたのは高橋和巳の本だったか小田実の発言だったか・・・。そういう言い方もあるのかと思った。

 母が、「戦争に負けてよかった」というようなことを、ぽつりと漏らしたことがあった。私が高校時代のことではなかったかと思う。夫を戦争にとられ、戦時中は小さな子ども2人を抱えて夫の実家(本家)で慣れない農作業に従事するなど苦労の多い大所帯での疎開生活をし、自分の実家は戦火で失われ、帰還できたが抑留生活でボロボロの体になって帰ってきた夫は長い入院生活の末に小さな家一軒を残して亡くなった。それでも、戦争に負けたからとか、日本が勝っていれば、というのではなく、何が、母をして「戦争に負けてよかった」と言わせたのだろうか。「軍人がえばる(威張る)時代はよくない」というようなことも言っていた気がする。軍国主義反対とか反戦平和などということを口にしたわけではないが、戦前、戦中の生活経験から出た率直な感想なのだろう。

 この国のかたちが、どのようにして、誰によってつくられていくのか。よーく考えて行動していきたいものである。

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