2014年2月14日金曜日

大学の学期末試験 Part 2

 知り合いの国立大学の教授が今年もぼやいていた。学期末の定期試験を採点しているそうで、こんなことを言っていた。

 授業中に、「前年の試験で、このことについて出題したところ、授業でそういうことではないよ、と繰り返し話していたのに、そういうことではないことを書き連ねている答案が多かった」(何かわかりにくい話だが)と今年の授業でも繰り返し話をしておいたにも関わらず、同じように、そうではないことを書き連ねている答案が多かった、ということだ。

 テキストを用意して、かんで含めるように話をしても、きっと、居眠りをしていて何も聞いていないし、テキストも読んでいないのだろう、と言っていた。

 「そりゃ、君の授業がつまらなくて退屈しているからじゃないのか」と言うと、「つまるかつまらないかは問題じゃない。知らないことを知る喜びとか、新しいことを知って自分が成長したという感覚を味わおうとしないよ、いまの学生は」と言っていた。まあ、教師なんだな、と思う。たしかに、大学で難しい話を聞いて、自分もわかったつもりになって、知ったかぶりして誰かにとくとくと話していた頃が懐かしく思い出された。

 こんなことも言っていた。「試験を受けに来たのか、部活の前にちょっと寄ったのかわからないような学生も多いんだ。クラブのロゴ入りのユニホーム姿で、中には机にラクロスのスティックが入った袋を寄せ掛けていたり、通路にはクラブ用のでかいバッグやらタオルを置いているし、本気に試験を受ける気があるんかいな、と思うよ。こっちは、万全の体制で臨んでいるのに」。

 また、こんなことも言っていた。「学ぶということは、日常とは違う世界に踏み込むことなんだが、そのことがわからないから、日常的感覚に引っかかるものしか理解できないし、しようとしない」。

 「おー、何やら、よくわからないぞ」というと、「こういうことだ」と言って例を挙げてくれた。

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 地位という言葉がある。英語ではステイタス(status)だ。日常的には、地位が高いとか低いと使うことが多い。ところが、statusには状態とか状況という意味がある。既婚か未婚か離婚かといったような状態を指すときにはmarital statusという。日本語では婚姻上の地位なんて言う。辞書には、次のような例も載っている。
 the present status of development (発展の現状)
 social status (社会情勢)
 status of booking (航空券上に示される利用区間の予約の状況)

 「従業上の地位」という用語もある。平成24年7月の総務省統計審査官室の資料では、次のように説明している。

政府統計における「従業上の地位」の扱いについて
1 「従業上の地位」に関する統計分類について
「従業上の地位」とは、仕事をしている人をその地位によって分類したものであり、
一般に、雇用者/自営業主/家族従業者 等の分類であると考えられている。
「従業上の地位」に関する統計分類としては、ILOが定めている「従業上の地位に
関する国際分類」(International Classification of Status in Employment, ICSE)がある(別紙1参照)。我が国の各統計調査における「従業上の地位」の区分は、おおむねこの国際分類に従っている。


 別紙1を参照すると、次のようなことが書いてある。

「従業上の地位に関する国際分類」(ICSE:International Classification of Status
in Employment)は、国際労働機関(ILO)によって1958年に初版が設定され、1993年に開催されたILO第15回労働統計家会議において改定された。
ICSE-93は、次のグループ(項目)から成る。(日本語の項目名は仮訳である。)
①雇用者(employees)
②雇用主(employers)
③自己採算労働者(own-account workers)
④生産者共同組合のメンバー(members of producers' cooperatives)
⑤寄与的家族従業者(contributing family workers)
⑥分類不能(workers not classifiable by status)


 もうわかると思うが、そこで言う「地位」は、地位が高いとか低いと言うときの地位とは別物だ。そうしたことを何回言っても、「従業上の地位」について説明させると、会社の中での社長とか部長といった役職名とか、コンビニの店長とか書いている。日常的感覚から離れられない、というか日常的感覚でしか物事を考えていない、考えられないんだな。残念だよ。
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 教授はそう言ったが、「まあ、考えようによっては、日常的用法から離れた使われ方は、なんか霞ヶ関の論理とか永田町の論理みたいじゃないのか。従業上の地位って聞けば、ふつうは社長とか部長、平社員というように社内でのランク付けのことと思うよ」と言うと、「まあ。そういうことも言えるかもしれないけど、それじゃあ、大学で学ぶ意義なんかないじゃないか」と力なく答えたが、次のような例も話してくれた。

 経験科学という用語があるそうだ。かつて、カルナップという哲学者が、経験的事実で命題の真偽を判定する学問のことをそう名付けたそうだ。経験的事実というのは、人間が生きているこの3次元空間で五感で観察可能な対象のことだという。まあ、素人なりに解釈すれば、実際に見たり聞いたり触ったり嗅いだり味わったりできるものやことのことなんだろう。そうしたことで、言っていることが本当かウソかを判断する学問のことというわけだ。言ってみれば、証拠だな。目撃証言や物証で犯罪を立件することと同じと考えればよさそうだ。
 論理学や数学は、そうした経験的事実で命題を証明したりすることはないから、経験科学と区別して形式科学と呼んだという。ふーん。そういえば、論理学は別に事実がどうのこうのという議論はしないようだし、数学は4次元空間や5次元空間などという想像でしか語れない世界のことを扱っているものな。そう考えると、文系とか理系という分類とは全然ちがうんだ。一つ賢くなった。物理学や化学が経済学や社会学、心理学と同じように経験科学に分類されて、数学が論理学と一緒の形式科学で、物理や化学とちがうというのは驚きだな。というより、新鮮な感じがするな。これからは文系と理系ではなくて経験科学系と形式科学系という区分も受験生に教えた方がいいのかもしれないな。

 教授が言うには、そうしたことを説明しても、経験的事実というのは自分が経験したこととか、経験科学というのは自己の経験に照らしてなんとかかんとか、というように書き連ねるということだ。経験というと、自分が体験したこととしか理解できないということのようだ。経験的事実とか経験科学というのはそうした私的な体験のことを言うんじゃないよ、と口を酸っぱくしても頭の中に入れようとしないと言う。要するに、ここにも日常的感覚でしか言葉を使えないということが表れているということのようだ。

 もっとも、そうした答案は居眠りしていたり代返で出席回数だけを稼ごうとしている学生のじゃないか、ちゃんと調べたのかと聞くと、「そんなこといちいちできるか」とのことだった。なんだ、ちっとも経験科学的じゃないな、と言うと、「だけどな、・・・」ということだった。

 そして、もう一つ愚痴っていたことは、一流企業や役所に就職も決まって卒論の発表も終わって、という卒業年次の学生が、「就活や卒論で忙しくて授業に出られなかったけど試験を受けさせて下さい」と平然とした顔で言ってくることや、出席はしているものの100点満点で20~30点しかとれていない答案を見ると、「どうしたらいいんだよ」と、くら~い気持ちになると言うことだ。「ほら、昔からホトケの何々先生っていたじゃないか」というと、「ホトケじゃなくて、ホットケだよ」と下手な駄洒落が返ってきた。

 まあ、学生に対する大学と企業や役所の見方がかけ離れているのもしかたがないかもしれないし、就職も決まっているんだから落第させるのは酷だというのも日常的感覚かもしれないな。いっそのこと、試験は大学入試センター試験みたいに全国共通にして授業担当者や当該学部、当該大学の恣意が働かないようにするのも一考に値するかもしれない。とはいえ、そうなれば、大学教師の大半は授業を持たせてもらえなくなるかもしれないし、学生は授業より共通試験の勉強に励むことになるかもしれない。

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