サッカーのワールドカップで日本が予選リーグで1勝もできずに敗退したことは残念であったが、わたしは、悔しいとか戦術的にどうとか、敗因がなんちゃらとか言うつもりは毛頭無い。
負けたのは対戦相手が強かったからで、それ以外には何も言うことはないし、言う必要もない。だから、精一杯戦った選手も精一杯応援したファンも、「いやー、相手は強かったなー」と明るく感想を述べればいいのだ。
長友選手がインタビューの場で、最初はにこやかだったが、すぐに感極まったのか、泣いてしまった。色々な思いがあったのだろうが、泣いてはいけない。
ザッケローニ監督が、選手の起用と采配は自分の責任だということで、試合終了後に即座に退任を表明したのは潔すぎる気もしたが、くどくどと反省の弁などを披瀝しなかったことは、さすが名将だと思った。
世界に伍して奮戦したことを称えるべきであり、ああじゃない、こうじゃないと、反省やら批判やらを、専門家だろうと素人だろうと、わけしり顔に口にするのはいただけない。ロドリゲスの、何の気負いもなく平然とゴールを決める、あの天才的プレーに、「いやー、すっごい! さすがだ」と素直に感嘆して、「そんな選手相手に、よくがんばった。えらい!」と日本選手を褒め称えればいいのだ。
そういえば、わたしが小学生の時のことであるが、ちょっと変わっていて、生徒からも他の先生からも敬遠されていた先生のことを思い出した。筆まめというか、当時は、年賀状や暑中見舞などを書くことが大好きだった私は、その先生にも、版画刷りの年賀状を出した。覚えてはいないが、きっと、その先生向けに何か文章を書いたと思うが、折返し頂戴した年賀状に、「反省ばかりしている奴にろくなものはいない。反省からは何も生まれない」と書かれていたことを覚えている。
たぶん、高学年になっていたと思うが、小学生には、すぐには理解しにくい文面であったことと、何か、すごく一人前扱いしてくれているような気がして印象が強かったので、長く記憶に残っている。その先生が、なぜ、何を思って、そうした言葉を年端(としは)もいかない生徒に伝えようとしたのかわからないが、後から思えば、きっと、そうした言葉でしか表現できない何かを体験したのだろう。それからは、反省を美徳とするような風潮に疑問を持つようになった。そして、幾ばくかは、その先生の言葉が、その後の私の生き方に影響を与えたかもしれない。
ついでに、もう一つ。その小学校の校長先生が、朝礼や何かの際など、ことあるごとに、「気がついたら、気がすむまで」と生徒に話していたことも記憶にへばりついている。ひょっとすると、校舎のあちこちに標語として書かれていたのかもしれない。これまで、その言葉通りには、なかなか行動できなかったが、その言葉は、ときには、なにかしようとするときの後押しになっていたことは確かである。
話が少しずれてしまったが、ワールドカップの試合の件に戻れば、相手の強さをしっかりと理解、賞賛できずに、うじうじと反省したり、また、外野がわけしり顔で批判したりしてしまうと、それまでの努力とせっかくの奮戦を台無しにしてしまい、また、同じようなことを繰り返すことになる。
優勝候補のスペインも、サッカーの本場イングランドも、強豪イタリアもロシアも予選で敗退した。勝負は、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。負けて反省ばかりして、ひいきの引き倒しのように批判していたのでは、勝負の醍醐味が薄れるし、後味が悪い。選手は精一杯にプレーしたことを誇りに思い、ファンは精一杯応援したことで満足することが、次の試合に通ずることを肝に銘じてほしいと願う。
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