2017年8月31日木曜日

なぜ、賢くもない人間がリーダーとして君臨するのか-人間社会の不思議か

「つれづれなるままに、日くらし硯(すずり)にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」というのは、徒然草の冒頭の一文であるが、 天才数学者たちの業績と人生に関する翻訳本を読んでいて、ふと、思ったことがあるので、つれづれなるままに日くらしパソコンに向かって・・・。

世に天才や本当に頭脳明晰な人間は少なくないが、そうした人たちが組織や活動のリーダーになれない/ならないのは、なぜだろうか。

何を今更、そんな甘いことを言って、人生経験が足りないんじゃないか、と言われそうだが、ちょっと歴史についてかじってみても、そして、在職中の経験や毎日報道される政治家の動向から、さらには大企業や官公庁をめぐる事件について否応なしに飛び込んでくるニュースから、どう見ても頭脳明晰とは到底言えないような者たちが、浅知恵・半可通を恥じることなく、ヌケヌケと言ったりやったりできるのか、不思議に思わざるを得ない。

そして、もっと不思議なことは、そうした輩を支持し、従う者たちが多いことだ。

麻生副総理兼財務相は、29日、自ら率いる派閥(麻生派)の研修会で講演した際、「(政治家を志した)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人を殺したヒトラーは、いくら動機が正しくても駄目だ」と述べたことが報じられている。

国内だけではなく、外国からも批判が殺到しているが、派閥の研修会に参加して、そうした講演をありがたがって聴いていて何の疑問も批判もしない/できない麻生派の自民党員て、みなバカなのか。

歴史から学ばないという批判もあるが、学ぼうとしても歴史を知らないのだから学びようもないだろうし、歴史を学ぼうともしていないのだから、歴史から学べるわけがない。そのことは、安倍首相や、その取り巻きにも当てはまるだろう。そんな輩が、日本は昔から何とかとか、日本の伝統はとか、日本の良さをなんとかかんとか大仰に言い募(つの)るのだから、笑止千万である。

ちなみに、笑止千万は、広辞苑によれば、「たいそう笑うべきこと」のほかに、「はなはだ気の毒なこと」という意味がある。

無恥ゆえに知りもしないことを自分勝手に曲解して得意げに口にしてバカ丸出しを演じて批判を浴びるのは「はなはだ気の毒なこと」とも言えるが、そんな連中に政治が牛耳られている国民こそが、「はなはだ気の毒なこと」なのだが・・・。

北朝鮮のミサイル発射で「Jアラート」が発せられ、戦時体制の如くに大騒ぎして危機感を煽っていることにも批判が多い。「Jアラート」の「J」はJOKE(冗談)の「J」かと思った、という声も聞く。さしずめ、「冗談警報」と言うことか。

新幹線を止めたり連日テレビで北朝鮮のミサイルについて長時間にわたって取り上げていることを北朝鮮は面白がっていることだろう。慌てふためいている日本は、チョットからってやれば、思い通りに、というか思い通り以上に反応してくれる素直で愚かな国で、とても御しやすいと思われていることだろう。

安倍政権を構成する無知無能な有象無象に、武力行使の愚かさと悲惨な結末を語らせることは無理なことなのか。政治家になった以上は、必死になって、それこそ命がけで平和を守るために日夜全力を尽くすべきだろう。そんな努力をしている様子はさらさら見えない。何のために政治家になったのかを真剣に考えている風にも見えない。そんなことを考えるだけの脳みそも持ち合わせていないかのような言動に、ほとほと呆れてしまうばかりか、腹が立ってしようがない。

例年にない暑かった夏も終わる。朝晩の涼風と鳴き出した虫の音に快適な季節の到来を感じるが、森友問題と加計問題も未だ終わっていない。

2017年8月15日火曜日

72回目の終戦記念日に思うこと-悔しさと怒り

今年も終戦記念日がやってきた。すでに72回目だ。戦後生まれも、いまや“立派な老人”だ。

君が代斉唱と祭壇に大きな日の丸の旗。戦前・戦中そのままの風景の中で全国戦没者追悼式が行われることに毎年違和感を覚えるのだが、以下に記す安倍首相の式辞から始まった(首相官邸のウェブサイト参照)。ふりがなも原文どおり。安倍首相が漢字の読み間違いをしない様にという配慮だろう。

天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致(いた)します。
 先の大戦において、三百万余の方々が、祖国を想(おも)い、家族の行く末を案じながら、苛烈を極めた戦場に斃(たお)れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷の地で命を落とされました。いま、その御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 いま、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧(ささ)げられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります。私たちは、そのことを、ひとときも忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
 戦争の惨禍を、二度と、繰り返してはならない。
 戦後、我が国は、一貫して、戦争を憎み、平和を重んずる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。そして、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきました。私たちは、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この不動の方針を貫いてまいります。

 未(いま)だ、争いが絶えることのない世界にあって、我が国は、争いの温床ともなる貧困の問題をはじめ、様々な課題に、真摯に取り組むことにより、世界の平和と繁栄に貢献してまいります。そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のため、希望に満ちた明るい未来を切り拓いていく。そのことに、全力を尽くしてまいります。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

常日頃の言動とはとてつもなく遠い内容で、とても白々しい式辞である。相も変わらず舌先三寸で得意げに式辞を読む。どうしてそんなことができるのか神経を疑う。

日経新聞によれば、「式辞では安倍首相はアジア諸国への加害責任に5年連続で言及しなかった。昨年12月の真珠湾での演説では言及した「不戦の誓い」も戦没者追悼式では2007年を最後に言及していない」。

日本国憲法の前文は次のように言う。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


憲法に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と明記されていることを式辞で言及し、誰が-どこのどいつが-とてつもなく大勢の尊い人命と生活を奪う戦争を引き起こしたのかを一国の首相として明言してから、「戦争の惨禍を、二度と、繰り返してはならない」と決意を示さなければならないだろう。そうではなくて、とってつけたような美辞麗句を並べ立てても、望まずして有無を言わせずに戦地に投げ込まれ、銃を握らされ、激しく飛び交う銃砲弾と投下される爆弾に想像を絶する恐怖に戦(おのの)きながら悲惨な最期を遂げた戦争犠牲者に対する追悼にはならない。

大バカな政治家と軍人によって引き起こされた戦争の犠牲者とその家族や親族、知人・友人らの悔(くや)しさと怒りを現在の大バカな政治家とその取り巻き連中は少しも理解できずに、無知丸出しで時代錯誤的言動を繰り返している。

いま、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧(ささ)げられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります。私たちは、そのことを、ひとときも忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます」とは、なんと傲慢なことか。大勢を死に追いやり、犬死をさせ、人間としての尊厳を踏みにじったのは、どういう輩だ。

他人(ひと)に犠牲を強いて、自分たちは決して被害を被ることがないように常に安全な居場所を確保し、我欲を貪る。終戦記念日が来るたびに、悔しさと怒りで胸が張り裂ける思いである。この思いは、死ぬまで続くだろう。いや、もし、黄泉(よみ)の国があるのならば、この悔しさと怒りを死んでも持ち続けることだろう。

2017年8月9日水曜日

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典:田上富久・長崎市長による「長崎平和宣言」は素晴らしい

昨年と同様に、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における田上富久・長崎市長による「長崎平和宣言」は素晴らしかった(長崎市のホームページに全文掲載)。その一部を以下に掲載する。

 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器に よって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての
加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気 ある決断を待っています。
 日本政府に訴えます。 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加 しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の 参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原 則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、
今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。


そのあとに挨拶に立った安倍首相は、広島平和記念式典の時と同様に誰が書いたかわからないような文章を朗読し、口先だけで「真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です」と読み上げた(全文は首相官邸のホームページ参照)。

そして、こんなことも読み上げた。

昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、広島を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。核を保有する国の人々を含め、長崎・広島を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への思いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取組をしっかりと推し進めてまいります。

広島平和記念式典では広島県知事がオバマ大統領の広島訪問について再三触れていたが、安倍首相もオバマ大統領に言及した。広島県知事がオバマ大統領の広島訪問に触れたのは、安倍首相への皮肉を込めたメッセージと私は理解しているが、安倍首相は、“じゃ、俺も負けずにオバマ大統領に触れておこうか”ぐらいにしか思っていなかったのだろう。

オバマ大統領が「核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました」と言っているにも拘らず、日本は、世界で唯一の被爆国であるのに、長崎市長が言うように、「核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加 しない」。言うことは言うが、やることをやらない。言行不一致の典型だ。

NHK の長崎NEWS WEBでは、次のようなことが報じられている。

長崎の被爆者団体の代表が、平和祈念式典のあと、安倍総理大臣と会い、日本政府が核兵器禁止条約の交渉に参加しなかったことに対して長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長は、核兵器禁止条約の交渉に日本が参加しなかったことについて「あなたはどこの国の総理大臣ですか。私たち被爆者を見捨てるのですか」と述べて、抗議しました。長崎県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「政府は、これまでも現実的な対応と言ってきたが、その成果はまったく見られない。条約に参加しないことに詭弁を弄しているとしか思えない」と話していました。

これが被爆国の首相なのか、となさけなくなる。舌先三寸(くちさきだけで心のこもらない言葉:広辞苑)を連発する安倍首相には閻魔大王を差し向けるしかないようだ。

2017年8月6日日曜日

2017年広島平和記念式典を視聴して


被爆72年になる今年の広島平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)をRCC(中国放送)テレビ公式YOUTUBEで視聴した。 1時間があっという間に過ぎた。

原爆ドームや原爆資料館は何回か訪れたことがあるが、式典には参列したことはなかったので、1週間前には、式典に参列するつもりで宿泊先を探すなどしていたが、猛暑の中で体調に自信がなくなったために中止した。来年は体調を整えて妻と参列しようと思う。

6年生男女の子ども代表による平和の誓いには心を打たれた。大きな声で、心を込めての訴えに比べて、安倍首相の、まさに口だけの挨拶には、やっぱりな、としか感想がない。

諸大臣や自民党の幹部を引き連れているのに、政府代表として平和を全力で守るための具体的施策を国民に、世界に力強く伝えることはなかった。日頃から言ったりやったりしていることが平和への取り組みとはとは程遠いことばかりだから、新鮮味のないあいさつ文を、ただ読むことだけしかできないのも無理もないことか。

松井一實・広島市長による「平和宣言」でとくに印象に残ったところを以下に摘記しておく。

為政者の皆さんには、特に、互いに相違点を認め合い、その相違点を克服するための努力を「誠実」に行っていただきたい。また、そのためには、核兵器の非人道性についての認識を深めた上で、自国のことのみに専念して他国を無視することなく、共に生きるための世界をつくる責務があるということを自覚しておくことが重要です。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。また、平均年齢が81歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々に寄り添い、その支援策を一層充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

湯崎英彦・広島県知事の「あいさつ」でとくに印象に残ったところを以下に摘記しておく。

昨年,オバマ大統領は,ここ広島で,未来において,広島と長崎が,核時代の始まった場所ではなく,人類が道徳的に目覚めた場所として記憶されなければならない,とスピーチされました。その後,私たちはどれだけ歩みを進められたでしょうか。

日本政府には,この地獄の現実を潜(くぐ)り抜けた唯一の国として,そのリーダーとなっていただきたい。核兵器国と非核兵器国の分断を埋め,核兵器廃絶への道のりを全ての国の力で進んでいくために必要な,具体的な提案と行動を提示することをお願い申し上げます。

私たちはオバマ大統領が指摘したように,恐怖の論理,すなわち神話に過ぎない核抑止論から脱却し,「核兵器のない平和」というあるべき現実に転回しなければなりません。


オバマ大統領のかつてのスピーチは触れられたが、安倍首相の言動は何ら触れることもなかったことは象徴的である。特別席(特等席)に鎮座していた安倍首相や閣僚らはどう思ったであろうか。恥をさらしていることに、その場から逃げ出したくなったのではないだろうか。そんな気持ちにもならなかったとしたら、平和を口にする資格はないだろう。

中日新聞の2017年8月7日朝刊には、以下のような記事が載っていた。

松井一実市長は平和宣言で、七月に採択された核兵器禁止条約に触れ、核廃絶への取り組みをさらに前進させるよう各国に提唱。日本は条約に不参加で、安倍晋三首相は式典でのあいさつでも条約に言及せず、式典後の面会で被爆者団体が「怒りを込めて抗議する」と直接批判した。

2017年8月5日土曜日

第三次安倍内閣というのが「大惨事危ない加計」と聞こえた:別名「懲りない内閣」かな

国民を馬鹿にした内閣の改造である。まったく懲りない面々で再組閣をして、安倍首相は悦に入っているようだ。こういうのをアンビリーバブルというのだろう。

マスメディアは盛んに第三次安倍内閣を報じているが、歯を磨いていてテレビの音声が耳に入ってきたら、大惨事危ない加計(だいさんじあぶないかけ)と聞こえて、口中いっぱいの練り歯磨きをごくんと飲み込んでしまった。

改造後の記者会見で、安倍首相は、「私自身、至らない点があり、こうした状況を招いたこと、深く反省をしている。結果を残していくことによって国民の皆さまの信頼を勝ち得る、そのことで責任を果たして参りたい」と語った。聞いた人は、唖然・呆然・愕然・憮然・悄然・憤然・暗然・欝然たる気持ちになったのではないだろうか。

反省とか責任という言葉の意味を全く分かっていない、ということだろう。

結果本位の仕事人内閣」とも言っていた。闇の仕事人が暗躍する内閣というわけだ。とすれば、国民は、それに対抗するには、「必殺仕置き人」に依頼しなければならない恐ろしい社会になってしまいそうである。そういえば、藤田まこと演じる中村主水は、今でいえば下級役人である。「仕事人内閣」に仕(つか)える役人の中に、大勢の仕置き人が潜んでいるやもしれない。

人づくり革命」なんて、漫画っぽい表現も深刻な顔で口にしていた。これを聞いて、ズッコケない人はユーモアを解さない人だ。実にウィットに富んでいる首相であると言いたいところだが、本人は、聞いた人が、それが実に悪い冗談だと思うとは決して考えないところに知性のなさを感じる。

まあ、今回の改造は安倍首相の限界を如実に示しているから、まっしぐらに倒閣へ向けて思い切ってアクセルを踏み込んで、破れかぶれに急加速をしたのだろう。首相の器ではないことを自分であれこれと披露しているだけだということも気が付かない哀れな男だ。

2017年8月2日水曜日

内閣改造だってか・・・ふざけんな!って声が聞こえる

問題の解決をしないままに、内閣改造によって支持率の回復と閣僚の不祥事を不問に付すことを図ろうとしている。とんでもない政権である。

嘘と隠蔽、デタラメ、ルール無視、違法行為、やりたい放題・・・。怒りに加えて吐き気を催すほどである。

もはや21世紀における政治ではない。前世紀どころか、戦前からさらに遡って・・・、いったい、いつの時代の政治に準(なぞら)えたらいいのだろう。

大多数を占める政権与党がやりたい放題になるのは、ある意味では仕方のないことかもしれない。しかし、そのやり方が、とても陰湿・下劣で、政権集団の構成員が無知・無能・不勉強・無責任であるならば、国政を担う資格はない。安倍政権は、まさにその典型である。

主要閣僚を代えずに、似たり寄ったりの閣僚交代で内閣を改造しても、政権集団の「体質」が変わることはない。自らと、お仲間の主要閣僚が辞職してこそ、お気に入りの「美しい日本」と「道徳」が守られ、国民の幸福と国益につながることを肝に銘ずるべきである。