2014年5月12日月曜日

STAP細胞騒動を子を持つ親の目から考える

STAP細胞をめぐる騒動が続いている。当初は、STAP細胞論文に見られた数々の不正疑惑から始まって、STAP細胞の存在の有無や実験ノートにまつわる問題、共著者間の問題、組織の問題等々、果てしなく問題が拡散して、STAP細胞騒動は、バラエティ番組がこぞって取り上げるほどに、いまや一種の流行現象にまでなっている。

事の発端は、世界的に有名な学術商業誌Natureに、科学研究の成果とはとうてい言い難い論文が掲載されたという、ごくごく単純な出来事であった。本来ならば、不正が発覚した段階で、著者らや雑誌発行者が謝罪して論文取り下げや掲載取り消しを行えば済むことである。それが、なぜ、このように、問題が拡散して、いつまでも終焉を迎えないのだろうか。

テレビや新聞の報道、ネット上の議論などを暇に任せて見たり読んだりしているうちに、もし、小保方晴子嬢が自分の子どもであったら、と考えるようになった。私なら、親として、いまの状況には、とても耐えられないだろう。そして、ここまで問題を引きずるようなことはしなかっただろうと思う。

親の出る幕ではない、と言うこともできるし、親子とはいえ、当事者は大の大人であり、そうした子どもが犯した不正行為には親は関係ないと言うことも理解できる。しかし、言い換えれば、年齢は大の大人かもしれないが、犯したことは“子どもじみた行為”とも言える。

親であれば、そのことに対して叱責し、論文を撤回し、関係者に謝罪して出直すことを誓わなければならないことを教え諭すことができるのではないだろうか。なんなら、子どもに同席して、頭を押さえつけ、謝罪させ、親として詫び、寛恕を乞うこともするだろう。そして、子どもが、これまでとは全く違う人生を歩むことになっても、幸せになれるように全力をあげて支えてやろうとするだろう。

言い訳や下手な小細工を弄することに荷担することによって、愛する子どもが晒し者にされてボロボロになってしまうことだけは避けたいと切に思う。子どもを闇雲に信じて手を貸すことと、子どもが全うで楽しい人生を歩めるように手助けすることとは全く違うことである。

いまからでも遅くはないであろう。親として何ができるか、何をすべきかは簡単なことである。親だからこそ、親でなければできないことがあることを重々承知のはずであろう。素直に、正直に、ふつうに考え、当たり前の行動をすることが何よりであることがわかっているはずである。

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