2013年12月7日土曜日

真冬なのに 桜が咲いている

冬真っ盛りの気温13℃の中、近所の桜が咲いている。下の写真は、今日、12月7日(土)の14時頃に写したもの。この桜の木は、満開というわけではないが、1年中花をつけている奇妙な木だ。ここに越してきてから17年になるが、毎年のことだから、きっと、特殊な遺伝子を持っているのではないかと思う。




 
下の写真は、ほぼ同じ場所で紅葉している木
 
 
 
 以下は、きのう撮った冬景色。
 


 

2013年12月3日火曜日

道徳を特別教科に「格上げ」するそうだ

 報道によると、12月2日に、文部科学省の有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」」(座長・鳥居泰彦慶応義塾学事顧問)が、小・中学校で現在は正式教科ではない道徳を特別教科に格上げして検定教科書の使用を求める最終報告書案をとりまとめたという。

道徳が授業時間割に載るようになったのはいつ頃からだろうか。おぼろげな記憶では、たしか、そんな古いことではなかったと思う。そして、一時期、授業から外されたこともあったように記憶している。

道徳教育って何だろうと思って、文部科学省のウェッブサイトを覗いてみたら、「 文部科学省では,このたび,道徳教育の一層の充実に資するため,平成25年度使用分から,小・中学生等への「心のノート」の配布を再開することとしました。また,より使い方の幅を広げることができるよう,「心のノート」のデータを文部科学省ホームページに掲載しています」とあって、小学生の低学年用、中学年用、高学年用、中学生用の4種類の「心のノート」の全文が読めるようになっている。どれも絵や写真をふんだんに用いていて、所々は漫画チックで、といった凝ったデザインのページで埋め尽くされている。

中学生用の「心のノート」を見てみると、次のような著名人が残した文章の一端や言葉などが紹介されている。内村鑑三、和辻哲郎、国木田独歩、吉行淳之介、サン・テグジュベリ、朱子、オルテガ・イ・ガゼット、夏目漱石、ゲーテ、ラルフ・エマーソン、ウィリアム・スミス・クラーク、井上ひさし、梅田晴夫、福永武彦、モーム、野上弥生子、ボールドウィン、伊能忠敬、志賀直哉、阿部次郎、折口信夫、久保田万太郎、ラ・ロシュフコー、ジョージ・ワシントン、キケロ、福沢諭吉、緒方貞子、ワーズワース、八木重吉、バーナード=ショー、山本有三。そして、会津藩士としての心構えを定めた「什(じゅう)の掟」の抜粋や世界人権宣言の抜粋なども掲載されている。

時代を超えた「名言」ということなんだろうが、私の小中学校時代によく聞かされた名前が並んでいるという印象が強い。つまみ食い的に、ちょこっとずつ紹介するのは、日めくりカレンダーにある名言・格言を見るようだ。そういえば、中学生用の「心のノート」に載せられている「志を立てるのに遅すぎるということは決してない」というボールドウィンの言葉を私が知ったのも、高校時代に家にあった日めくりカレンダーからである。毎日一つずつ書かれていた名言・格言の中で、この言葉だけが青春時代の多感な時期の私に強烈な印象を与えたことを覚えている。



むかし、道徳と倫理の違いについて論じた文章を読んだ記憶がある。ある大学の入試問題だったかもしれない。なるほど、と感心したというか、そうなんだと納得したことを覚えているから、相当印象が強かったのだろう。

その文章では、倫理は人の道という普遍的な原理であるが、道徳は権威者が振るう支配の原理というようなことを述べていたように記憶している。そういえば、夏目漱石は、「断片」(漱石全集第11巻 日記及断片、大正8年、漱石全集刊行会、109頁)で、「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらわれる。考は親の権力の強きところ、忠は君の権力の強きところ、貞は男子の権力の強きところにあらわれる」と述べている(原文には句読点がなく、「あらわれる」は「あらはれる」、「ところ」は「處」と書かれているが、ここでは、現代風に書いておく)。検定教科書を使うというのも、いま進めようとしている道徳教育のなんたるかがわかるというものである。

有識者会議のメンバーがどのような面々か知らないが、「心のノート」には、漱石の『それから』から「人間の目的は、生まれた本人が、本人自身につくったものでなければならない」という一文を紹介している。有識者会議のメンバーが、この一文をどう読んで(解釈して)、何を伝えようとしているのか興味あるところであるが、上の「断片」の一節を併記していたら中学生にも道徳教育のなんたるかが理解できるのではないだろうか。

それにしても、「心のノート」の作成に携わった者や有識者会議のメンバーが、大人の世界、政治の世界、はたまた教育の世界が、小・中学生用に作成された「心のノート」に書かれていることと、どれほどかけ離れたものであるかを知った上で道徳を口にしているとしたら、彼らがいかに図太い神経の持ち主であることか。そうした厚顔無恥な人間になりましょうということで道徳教育を教科に「格上げ」するのであれば、まあ、筋は通っていると言うべきかもしれないが、道徳教育を強化しようとする教育政策は、そんな皮肉を言って済まされない危険な政治的潮流の一環と認識するべきだろう。

教科であれば評価が伴う。5段階評価のような数値評価をしないというが、どのような形式にしろ評価は優劣を判定するものである。客観的基準がない下での評価は、評価する側の主観にゆだねられることになる。それは、多くの場合、好みや共感の程度の表明という形になって現れる。そうした“評価もどき”で人格の優劣を判定するようなことが教育の世界でまかり通るようになることは恐ろしいことである。

「心のノート」に目を通すと、わざわざ道徳教育と銘打って取り上げなければならないような内容とは思えない。これまでの教科で十分に扱うことのできるものばかりである。それらを精神訓話調に仕立て上げているだけである。とくに中学生用の「心のノート」の内容は、社会学や心理学、哲学、倫理学、歴史学、文学など、オーソドックスな学問領域の成果をしっかりと教えればすむことばかりである。いま進められている道徳教育“改革”に関して、それらの学問領域の教師や研究者が真正面から批判的検討を行わなければ、自らの専門的学識を貶めることになるだろう。

2013年11月16日土曜日

大学入試改革?

 文部科学大臣の諮問を受けて、中央教育審議会(中教審)が大学入試制度の改革を審議しているということで、いろいろ論議されている。共通一次試験も大学入試センター試験も経験したことのない世代には、何を大騒ぎしているのか理解できない。

 中教審というのは、昔から胡散臭い審議会で、中教審答申というと、何かと物議を醸すことが多いという印象が強いが、中教審答申で教育制度や教育内容が大いに改善されたという話を聞いたことがない。おまけに、今回は、「教育再生実行会議」とやらますます胡散臭い組織が介在していて、大学入試センター試験に換えて「基礎」と「発展」という二種類の達成度テストを導入することを提言している。教育再生実行会議の提言 こちらも覗いてみようか。「人づくりは、国づくり。教育再生への取組み始まる~教育再生実行会議」

 うーん、「基礎」と「発展」ねー。これまでの教育や入試制度は、「基礎」と「発展」をぜんぜん考えてこなかったということなんだ。それにしても、頭のいい人たちが考え抜いて(と思いたいが、大して考えもしなかったのかな)出した提言が、とくに目新しくもなければ、さすが、というほどのものでもないところに、日本の教育レベルが現れているとも言えるのかな。再生というのだから、今の教育は死んじゃっているということなんだろうな。おー、怖いことだ。

 提言を読むと、いろんなことを言っていて、益々わけがわからなくなってくる。「若者の力を引き出していく上で重要なこの時期に知識偏重の1点刻みの試験のみによる選抜や、逆に、学習への意欲や努力の減退を招くような学力不問の選抜によって、本来伸びるはずの若者の能力を損ねることがあってはなりません」という一文がある。1点刻みがダメなら何点刻みならいいというのだろうか。

 入試は定員内の合格者数を高点順で決めていくのがふつうだろう。その場合は、1点刻みでも10点刻みでも変わりがない。マラソンでもゴルフでも同じで、1秒差だろうと10分差だろうと、1打差だろうと10打差だろうと順位には変わりがない。要するに、入試の成績は比率尺度ではなくて順位尺度ということである。実際の合否判定では、小数点以下の数値も用いられるそうだが、100m競争で0.1秒差だから同順位にしようなんて誰も言わないのと同じで、順位を決める際には差の大きさは関係がないということである。そのことを知識偏重と言うのなら、教育再生実行会議のメンバー全員は「基礎」学力を欠いているとしか言いようがない。まずは「基礎」レベルの「達成度テスト」を受けてほしいものである。
 

 「各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する」ということも書かれている。

 何でもいいから色々やることが「丁寧な選抜」方法ということらしい。色々やらないと知識偏重ということでお咎めがあると大学側が受けとめるように仕向けているとも言える。
 もっとも、上の提言に添えられた資料を見ると、いままでも各大学は様々な入試を行っているようで、平成24年度の国公私立全入学者594,358人のうち、一般入試による入学者数は333,889人(56.2%)である。学力で大学に入学している学生は半分しかいないというのは、ちょっとビックリするのは古い人間だからか。そんな状況では教える側は大学教育の水準とか専門教育とかを真剣に考えて教育に取り組むことができないんじゃないだろうか。アカデミズムなんていうのは、いまの大学には関係ないんだろうか。
 一般入試での入学者数の割合を設置主体別に見ると、国立84.1%、公立73.3%、私立49.1%となっているから、一般入試以外の方法による入学者割合の増加を図るというのは、国公立大学に関してのようである。

 こんなことも言っている。
 「国は、メリハリある財政支援により、以上の取組を行う大学を積極的に支援する。国及び大学は、大学入学者選抜の改革について、その成果を検証し、継続的な改善に取り組む。公務員の採用においては、特に平成14 年度以降、人物評価の重視に向けた見直しが図られてきており、引き続き能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用が行われることが期待される」

 一般入試ばかりやっていると補助金を減らすぞ、と脅かしている。各大学は、おそらく、無節操に右へ倣えで、あれこれとつまらないことを真面目くさってやることになるになるのだろう。そして、わかったようなわからないような基準を立てて、「人物評価」をしたり顔でやることになるのだろう。「学力評価」に比べて「人物評価」の方が価値ある評価方法と錯覚しているのは、実は大学の教師なのかもしれない。評価とはいうものの、「人物評価」は、得てして単なる「好み」になってしまう。ごくごく一般的で誰もがあまり考えずに下せる評価の基準は「明朗快活」であったり「人付き合いの良さ」であろう。それらは、「人柄の良さ」とも言い換えることができる。

 個人のそうした資質は訓練や努力によって「向上する」こともあるかもしれないが、「学力」のように到達基準が明確ではないし、「人生経験」によるところもおおきいであろう。高校を卒業したくらいの年齢の人間が「人物評価」で高い評価を得るほど成熟しているとすれば、かえって気味が悪いのではないだろうか。それに、大学の教師がまともに「人物評価」できるとも思えない。理由は二つある。一つは、研究に夢中で、専門的知識や技術を教えることに熱心な、まさに大学教師と言える教師に今流の「人物評価」まで求めることは難しいのではないかということである。もう一つは、残念なことではあるが、的確に「人物評価」ができるほどの教師が大学に大勢いるだろうか、ということである。派閥まがいの徒党を組んだり、その中に取り入ろうとして事の是非を考えもしない教師が少なくないと聞く。そうした教師が行う「人物評価」がどのようなものか想像するに難くない。

 推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試の際に課せられる小論文などは各大学が公表していて、ウェッブサイトや受験用の問題集などから見ることができるが、こんな問題でどのように採点しているのか疑問に思うものも少なくない。おそらく、10点刻みとかA、B、Cとか大雑把な点数付けをしているのだろうなと想像する。まあ、好い加減なんだろうな、と素人は思う。

 ましてや、面接や「生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動」など、あれやこれやを勘案するとなれば、もう、何でもありで、どういう基準で評価されるのか/するのか、受験生も評価する側もさっぱりわからないのではないだろうか。

 学力以外で入学してくる学生に大学らしい高度の専門的知識・技術を身につけようとする意欲を期待することは難しいだろう。「もっと易しく、わかりやすく教えて欲しい。そうでないと息子は大学嫌いになってしまいます」と母親から要求があった例を知人の国立大学教授が話していた。「へっ!?」と口に出てしまったが、恐ろしい時代になったものだと思った。そんなことが、これからはもっと起きるのだろう。

 国を挙げて大学を歩行者天国(ちょっと古いか?)というかストリート・パフォーマンス場というか、群衆で溢れかえる雑踏にしようとしているのだから、「教育再生」も「人づくり」も何もあったものではないだろう。そんな中で4年間も過ごさせて大卒の肩書きを与えることが「人づくり」であり「国づくり」というのでは、学費を負担する親や税金を負担する国民はバカを見るだけではないだろうか。あー、ヤダヤダ。

2013年9月1日日曜日

喫煙考

妻に付き合って近くにある公立の図書館に行った。

タバコを吸いたくなったので、「ちょっと一服してから行く」」と妻に告げて、図書館周辺のベンチに腰掛けてタバコを吸おうと思ったらライターがない。どこかに落としたようだ。

近くでタバコを吸っていた同年配の人がいたのでライターを借りた。携帯で電話をしていたようだったが、ニッコリとして使い捨てライターを貸してくれた。
ベンチに戻って、フーと一服。外でゆっくりタバコを吸うのは至福のひとときだ。

しばらくすると、ライターを貸してくれた人が話しかけてきた。

「この間、ここでタバコを吸っていたら、『ここでタバコを吸ってはダメです』と警備員姿の奴が言いやがった。頭にきて、なんだよ、お前、と言ってやった」と言うので、「すみません」と謝っておけばいいのに」と言うと、「そうなんだけど、病院に電話していていて、ちょっと気持ちが落ち着かなかったので」と何かの事情があっったらしくて、神経に障ったようなことを言っていた。そして、「こっちは灰皿もちゃんと持っているし、散らかしているわけでもないのに、偉そうに言いやがって。あいつはきっと役所の幹部を退職した奴だな」と付け加えて図書館に入っていった。

そういえば、以前にはここに喫煙場所の掲示があって灰皿も置いてあったのに見当たらないが、喫煙禁止の看板もないし、吸い殻が何本か落ちていたので、ここでタバコを吸う人が結構いるようだ。

何となく後ろめたい気持ちでタバコを吸い終わって図書館に入ると、先ほどの人が書架に沿って置いてある椅子に腰掛けて本を読んでいた。きっと、タバコを吸いながら読みたいな、と思っているんじゃないかと想像した。

図書館の帰りにスーパーに寄って買い物をすませ、カートを押しながら駐車場に向かった。駐車場への連絡通路の入り口に灰皿があるところでタバコを吸っている同年配の人がいたので、ここでも、また、「ちょっと、すみませんが」と声をかけたら、ぎょっとした目で振り返った。喫煙を注意されたかと思ったようだ。

「すみませんが、火を貸して頂けますか」と言うと、ほっとしたような笑顔を見せて、「あっ、どうぞ」と使い捨てライター貸してくれた。火をつけから「ありがとうございます」と言ってて返すと、ニッコリとして受け取って立ち去ったかと思うと、すぐに振り返って、「ちゃんとつきましたか」と念を押すように、私が口にしているタバコをのぞいた。タバコに火がしっかりと付いていなかったことを見ていて、気になったようだ。タバコ飲みは、火がしっかりと付かなかったタバコを吸うのは何となくいやな気分になるからだ。

ライターをどこかに落としてしまったことで、今日は新たな出会いを経験した。

かつては、タバコのやりとりや火の貸し借りは、どこでも頻繁にやられていた。外国でも、初対面の人と挨拶替わりによくタバコの交換をした。マッチが主流の時代では、風で火が消えないように、貸した方が手をかざしてやったりもした。

喫煙できる場所が制限されて、喫煙者も少なくなった。宮崎駿監督の「風立ちぬ」の中に登場する喫煙シーンに対して日本禁煙学会(こういう学会があることを知らなかった)が制作担当者に要望書を送ったという。

要望書はこれ  http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.pdf
NPO法人・日本禁煙学会のサイトはこちら  http://www.nosmoke55.jp/

タバコなんか吸わない方がいいに決まっている。健康によくないし、まわりに迷惑をかけるし、灰やヤニで部屋はパソコンは汚れるし、服や床を焦がすし、金はかかるし・・・
しかし、時代の風景も消し去ろうという感覚には理解しがたいところがある。というより、時代の風潮に乗ってかさにかかって責め立てる姿勢には、何か恐ろしいものを感じる。

喫煙を弁護したり擁護する気持ちはさらさらないし、色々わかっていても、愛煙家はタバコを離すことができないのは悲しいことだ。まあ、根性無しの中毒患者なんだろうね、というのは自分に対してだけで、ジブリの宮崎駿監督や鈴木プロデューサーのような愛煙家には親しみを込めてエールを送りたい。

2013年8月31日土曜日

我が家で一夏を過ごしたセミを紹介

何匹もの蝉が一斉に鳴いていました

アブラゼミ

アブラゼミ

アブラゼミ

クマゼミ
私が子どもの頃には山に行かないと見られなかった。セミ捕りをするときに、このクマゼミが捕れるととてもうれしかった記憶がある。いつ頃からか、アブラゼミよりもクマゼミの方が多くなったようだ。それも、町中や住宅街でもたくさん見るようになった。鳴き声から、「シャーシャー」と呼んでいた。
クマゼミ
 



クマゼミとアブラゼミの共演


クマゼミとアブラゼミの共演

2013年8月27日火曜日

消費税の増税

消費税の増税に関する有識者からのヒヤリングが26日から始まった。新聞各社の報道によれば、
参加した7人の民間人のうち、反対意見を述べたのは、山根香織 主婦連合会会長ただ一人で、給料も上がらない今の状態で増税を強行すれば、貧困や格差が必ず拡大するというのが反対の理由のようだ。

主婦連合会の会長らしい発言だ。増税でどこにしわ寄せがいくかは、苦しい生活を強いられている農民から更に年貢を引き上げる悪代官が登場する時代劇を見ればわかる道理。

一方、経団連の米倉会長は、「法律に明記されている消費増税を撤回すれば国際的信認を失う」という理由で増税に積極的に賛成したという。同様に、5人は予定通りに来年4月に8%に引き上げるべきと主張したそうだ。

そんなことで国際的信認を失うと本気で思っているとしたら、日本の経済界のトップに君臨する人間はずいぶん幼稚だと世界は見るのではないだろうか。国民の生活に真摯に向き合う姿勢が感じられない人間を頂く日本の経済界は、まだまだ未成熟というところかもしれない。

岩田一政 日本経済研究センター理事長は、増税には賛成しているが、向こう5年間、毎年1%ずつ上げるという増税の方法について言及している。一挙に一級に8%、10%とするよりも、その方が個人消費や住宅投資に対して優しいやり方で、デフレ脱却にも効果的というのが理由のようだ。

熱めの風呂にドブンと入ると、アッチッチとなるが、温めのお湯につかっていて、徐々に温度を上げていけば、それほど暑さを感じないのと同じ理屈。まあ、それが優しいやり方というのなら、そうなんだろうが、知らないうちに飼い慣らされていることになるのは恐ろしいことでもある。

甘利 明 経済再生大臣は、「総理は、とにかく理想的にはデフレをスムーズに脱却して、スムーズに予定通り(引き上げを)行えれば、それが一番いいと思っていらっしゃると思います」と述べたという。

俗に言うガス抜きをしっかりやって、有識者の皆さんから貴重なご意見を頂いたということでシャンシャンシャンでは子ども騙しで、それに付き合う有識者って、どれくらい責任を負うつもりなんだろうか。

所得税にしろ消費税にしろ、それに見合った政策が行われれば国民は文句を言わないはずだ。その議論がなくて、財源が足りなくなるから税金を上げると言うだけなら、放蕩息子が小遣いが足りなくなるたびに親に金をせびるのと同じだ。守ってやるから金を出せ、というのなら、暴力団のみかじめ料と同じだ。

国民は、財源が足りないと言われても、本当かどうかわからない。景気が上向いていると言うが実感がないのと同様に、財源が足りないと言われても、けっこういろいろなところに大金がつぎ込まれているようなので、どこが財源が足りないのかと思う。そして、国民の生活向上とか安寧な生活のために税金が使われているという実感がない。

かつて福祉国家とか福祉社会という言葉がはやったが、いまはちっとも聞かない。

消費税を上げても経済が活性化するわけでも国民生活が向上するわけでもないとしたら、いったい、その責任は、だれが、どのようにして取るのか。そこの所を有識者はしっかりと確認してほしいものだ。
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2013年8月15日木曜日

終戦の日

68回目の終戦記念日。日本の独立が回復して61年目の年。

もう、そんなに経ったのか、と言ってよいのか、まだ、それしか経っていないのか、と言ってよいのか。日本はずいぶん変わった、と言ってよいのか、ちっとも変わっていない、と言ってよいのか。幼稚で考え無しのような発言を繰り返す個人や集団に国を任せているところは、昔も今も変わっていないと言えるのではないだろうか。

発言や行動が実に「軽い」政治家や評論家ばかりが表に出ている。知恵も無ければ心情も無い。知ったかぶりで得意げに話すが、その内容は軽薄で、幼児的である。

戦没者を慰霊することは当然のことであり、その家族に深く哀悼の意を表することも、また当然のことである。しかし、そのことと、日本のために戦って散ったと軍神として崇め奉り、英霊を祀ることを国民の責務のごとくに語り、行動することとは大違いである。

死に追いやり、犠牲を強いた側に対して目を向けずに、あたかもそれと同じ側に立っているかのように、そして、いわれのない理由で死に追いやられ、犠牲を強いられた人々の無念さや悲しみを慮ることなしに、“よくやった”、“ありがとう”、“お前たちは偉い”とばかりに、遺族が涙する中で平然と浅知恵を披瀝する厚顔無恥さに怒りを覚える。

真剣に学んだことも考えたこともなく、親の経済力と七光りだけで大手を振って歩いてきたような輩には期待しても無駄なことかもしれないが、なんで、“国民が悲しむのを見ることはつらい”、“もう戦場に国民を送るようなことは絶対にしない”と言えないのか。それこそが英霊に対して誓うべきことではないのか。国を守るというのは民を守るということではないのか。民を犠牲にして何を守ろうというのか。

かつて高橋和巳は『散華』を著し、それに対して小田実は『難死の思想』を対置させた。若かりし頃、この二つの言葉-散華と難死-に接したときの衝撃を私は思い出す。

戦争で戦って死ぬことを賛美することほど愚かなことはない。そして、そのことを強制することほど残酷なことはない。

軍神だとか英霊だとか言って戦死者を華々しく称える人々や集団は、二度と国民に犠牲を強いたり、残虐な行為を強制させるようなことをさせないために尽力すると言うようなことは一言も言わない。ちなみに以下を覗いてみて、人々はどのような感想を持つだろうか。

http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/
http://eireinikotaerukai.com/

安倍首相は、今年の戦没者慰霊式で、「世界の恒久平和に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう全力を尽くす」と述べたという。日頃の言動からして、とても本心とは思えない。

外国の批判を配慮して終戦の日に靖国参拝をやめて、玉串料だけを払ったという。こういうのを子ども騙しというのではないだろうか。外国の批判を配慮して、ということは、自国の国民はすべて靖国神社に参拝に行って欲しいと思っていると決めつけていることになる。

テレビのニュースで、首相が靖国参拝を延期したことに対して感想を求められた若者が、興奮気味に、何で行けないのか、首相でしょう、と語気強く語っていた。何もわかっていない若者に唖然とした。こういう状況が浅知恵で見栄っ張りだけの輩の暴走を許してしまうのだ。残念ながら、そうした若者だけではなく、無知蒙昧な中高年や老人も、また少なくないことが、日本をいよいよ危うくさせている。

2013年8月2日金曜日

大学の学期末試験

知り合いの国立大学教授が、こんな話をしていた。

この時期、大学では、学期末試験や成績評価が行われているようだ。彼は、試験や採点、成績評価がイヤでイヤでしょうがないらしい。なぜかというと、試験をして採点すると、何のために授業をしたのか虚しくなってしまうからだそうだ。

彼は、学生が毎回の講義内容をちゃんと理解したかどうかをできるだけ客観的に評価できるような試験問題をじっくり練って作成しているという。授業中にも、このところは重要なところだからしっかりと理解するようにと繰り返し説明し、試験にも出すことをそれとなくにおわしても、いざ試験をすると、ちゃんとした解答を書く学生はわずかだそうだ。大多数は問題文さえ読んでいないかのようなことを書いているという。

教科書に指定した本を買わない学生もいるという。授業をしっかり聞かない、教科書も読まない、授業中に質問もしない、ということになれば、当然、授業の復習のような試験問題にさえ正しく答えることはできない。そんな当たり前のことを理解できないはずはないのに、そうした学生が多いそうだ。

そうなれば、これも当然のごとく、試験を受けても単位を取得できる点数には遠く及ばないことになる。それでも、試験の日には、ふだんの受講生数よりも遙かに多い学生が来て、150人収容の教室がいっぱいになる。事前にシラバスに受験要件として授業への出席回数が授業回数の3分の2以上と書いてあるにも関わらず、そうらしい。聞けば、授業に出なくても試験さえ受ければ「通してくれる」授業も多く、そうしたことを学生はよく知っているからだという。

「なめとんのか、おめーら、どの面下げてきたんだ」、とは言えないから、「今日はふだんよりも出席者が多いね」、なんて皮肉のつもりで言っても、笑いもしなければ何の反応もなくて、それもイヤーな気分にさせられるという。

ちなみに、シラバスという耳慣れない言葉は、授業の内容や進め方、成績評価の方法などを学生に示したものだそうだ、最初耳にしたときには、何のことかわからなかった。むかし私が学んだ大学では、そんな言葉を聞いたことがなかったから。

さて、採点の段になると、これまた苦労が多いという。出題した十数問の問題のそれぞれに配点を記してあるので、それに従って100点満点で採点していくが、「おいおい、授業中に話しただろう、詳しく。それなのに何でや。まったく。何も聞いていないのかよ」、と嘆きたくなる迷答、珍答が続出するという。

なんか書けば点をくれると思っているんだろうな、と言う。そして、そうした試験も中にはあるようだ。彼に言わせれば、そうした試験はする方もされる方も楽だからで、100人も200人も受ける試験では、ぱっぱっ、と眺め回して、授業とは関係ないことでもなんか書いてあれば内容なんか無視して10点刻みとか20点刻みで採点してしまうのが手っ取り早いからだという。そうした試験では落第点が出ないし、出席しなくても単位が取れるから、学生にとっては、こんなすばらしい授業はないことになる。そういえば、むかしもそんな授業があったような気がする。

彼の場合、一問一問じっくりと採点していくので、時間がかかることになる。百数十人の採点をするには1週間はかかるらしい。ちょっと時間かけすぎのような気もするが、答案をまじめに読むとなると、そのくらいはかかるのだろう。何も書かれていないとほっとするという。問題文に答えられないのなら、同じ0点になるのだから、グチャグチャとデタラメなことを、しかも、薄い字だったりちっちゃな字だったり、誤字だらけでいっぱい書くなよ、と言いたくなるそうだ。しかも、持っている知識で勝負しているつもりらしいが、まるで「知識持っていない」ことを堂々と宣言しているような答案には閉口するそうだ。

そして、極めつけは成績評価ということで、まともに成績を出したら受講学生の半分以上は「不可」になってしまうそうだ。彼の授業の一つでは、百数十人中八十人を超えてしまうそうだ。要するに、100点満点で60点未満が7割近くを占めることになる。もちろん、80点、90点を超える学生だって何人もいるのだから、問題が難しいとかへんちくりんな問題ばかりということではない、という。その辺のことは私にはよくわからないが、採点していて面白くはないだろうな、とは思う。

ちなみに、90点以上が「秀」、80~89が「優」、70~79が「良」、60~69が「可」で、60点未満が「不可」という。この区分はむかしも同じだったような気がするが、「秀」はなかった。「秀」が「優」よりも上なんだと知った。これもちなみにだが、『広辞苑』では、「優」は、「すぐれていること。まさっていること。また、成績の段階の一つ」とあり、「秀」は、「すぐれたこと。ひいでていること。また、すぐれた人」とある。「優秀」というのは同じような意味の文字を重ねることによって、優れていることを強調しているということか。「優」には「成績の段階の一つ」と添えられているが、「秀」にはそれがないところを見ると、成績評価のカテゴリとしては最近のことであることがわかる。

まあ、問題が難しかったことにして、と彼は考えて、といってもいつものことのようだが、思い切って「不可」を50点未満まで下げて、授業への出席回数を加味して成績評価をやり直すのだそうだ。それでも、まだ、「不可」が多いと、後ろめたい気持ちを持ちながらも、えいやっと、40点以上であれば、「まっ、いいか」と合格点にするそうだ。「本当かいな?」と聞くと、本当とも冗談とも言わなかったが、そんな点数で単位が取得できた学生は、かえって面食らうか、甘いもんだと教員をバカにするかどっちかだろう。

そんなこんなで、この時期は憂鬱な気分で過ごすそうだ。大学の教授も大変だな、と思ったが、いっそのこと、試験も評価もなくしてしまえば良いのにとも思った。「意味ないじゃん」という声が聞こえそうだ。そんなことに気を配ったって、だれも褒めてくれないよ、と言うと、「まあな」とわけのわからない返事が返ってきた。
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2013年7月21日日曜日

参院選開票中

参院選の開票中だ。自民党の圧勝のようだ。

NHKのウェッブページ(http://www3.nhk.or.jp/senkyo/)によれば(23:53現在)、次のようだ

自民党と公明党で、過半数に必要な63議席を大きく上回る議席の獲得が確実になり、衆参両院で多数派をしめることなった。いわゆる衆参のねじれが解消されることになるということだ。そして、「安定した政治の中で経済政策を前に進めて欲しいという大きな声を頂いた。政治をしっかり前に進めていきたい」という安倍総理大臣の談話を載せている。

民主党は20議席を下回り、平成10年の結党以来、最も少ない獲得議席となることが確実になった。そして、「国民の信頼を得るための努力は道半ばであり、続けたい」という海江田代表の談話を載せ、引き続き、代表として党の立て直しに取り組みたいという考えを示したと伝えている。

共産党は、東京、京都、大阪の3つの選挙区で議席を獲得し、共産党が選挙区で議席を獲得するのは平成13年の東京選挙区以来12年ぶりであることを伝えている。

NHKのまとめでは、推定投票率は51%前後で、前回(3年前)の投票率を7ポイント程度下回る見通しのようだ。

22日0:22現在の速報では以下のようになっている。

改選  自民 民主 維新 公明 みんな 生活 共産 社民 みどりの風 大地 社大 諸派 無
       34      44        2      10         3          6         3         2              4              1         1         1      5
今回       64      15        7      10         7          0         6         0              0              0         1         0      2

この結果を、どのように受け止めたらよいのだろうか。国民は何を期待してこれだけ多くの票を自民党に投じたのだろうか。

安倍首相は、「安定した政治の中で経済政策を前に進めて欲しいという大きな声を頂いた」と述べたという。「安定した政治」や「経済政策を前に進める」ことを国民が望むのは当然であり、政治家にその責任があることも当然のことであるが、問題は、その中身であろう。 

時代を後退させるような危うさを感じさせる政策ばかりが打ち出されているような気がしてならないが、そう思うのは私だけだろうか。

妻が公立の図書館から借りてきた『まんがで読破 岡倉天心・作 茶の本』の中に、「西洋は発展拡張のため平和を犠牲にした。一方、東洋は侵略に対して非力な調和を生み出した」という一文があり、とても印象に残った。

岡倉天心の『茶の本』(原著は天心自身が英語で書いたThe Book of Tea)の中にある言葉のようだ。翻訳すら読んでいない私には、その詳細はわからないが、非力な調和という言葉は私にとって新鮮であり、衝撃的であった。国防軍だ、たくましい日本だ、憲法改正だとわめいている政治家が抱いている国家像とは正反対の日本のあり方を私たちに教えているように思えてならない。
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2013年7月18日木曜日

羽生三冠、棋聖位を防衛

17日に行われた棋聖戦で、羽生善治三冠(棋聖、王位、王座)渡辺明三冠(竜王、王将、棋王)の挑戦を3勝1敗で退け、棋聖位を防衛した。これで棋聖通算12期となり、獲得タイトルの合計が84期となった。この調子でタイトルを積み重ね、空前にして絶後の記録を作って欲しい(既にその域に達してはいるが)。

棋聖戦中継サイトとニコニコ動画の両方で観戦した。やらなければならないことをそっちのけで(全くしていなかったわけではないが)、終局まで観戦してしまった。

小生は羽生さんの大ファンであり、追っかけとまではいかないが、タイトル戦は欠かさず観戦している。『羽生の頭脳』も熟読している。ちっとも上達しないが、将棋大好き人間である。

将棋は不思議なゲームである。下手な横好きには勝ったり負けたりが当たり前だが、プロの世界でも、ものすごい数の将棋が指され、長い年月をかけて定跡が研究されてきていて、しかも偶然が左右する余地は全くないにもかかわらず、勝ったり負けたりする。

羽生さんが勝つと自分のことのようにうれしくなって気分満天だが、負けると憂鬱になる。というか、羽生さんが負けるのを見ること自体が私には信じられないことである。

そういうわけで、17日はウキウキした気分で過ごすことができた。おまけに、息子からうれしい電話もあった。

2013年7月15日月曜日

トンカツづくりに挑戦

北海道産の豚肉を買って、トンカツづくりに挑戦した。

まずは筋切りのために包丁を研いてからと、砥石を用意して、せっせと研ぐ。

妻の指導の下、筋切りをしてから塩こしょうで下味をつけ、小麦粉を両面によくなじませてから、卵を溶いたボールに6枚の豚肉を入れて、溶き卵をよくなじませてからパン粉を付けた。

せっかくなじませた小麦粉がとれちゃうのでは、と思ったが、「平気平気、大丈夫」と妻。こういう所の剛胆さは主婦家業のベテランならではと感心する。

あまり厚い肉ではないので叩くことはしなかった。その代わりに、と自分勝手に考えて筋切りを入念にした。

パン粉はまぶすのではなくて、肉をパン粉の上にのせて押しつけるようにしてしっかりと絡ませることを知った。こうすると、余分なパン粉は落ちて、ちょっと衣が少ないかな、という感じになる。

衣ばっかりのフライなどは、パン粉を何回もまぶしているから、身と衣の間がスカスカになってしまうんだろうな。パン粉の付け方にも技があることを知った。

下ごしらえがすんだので、汚れた皿や包丁、まな板などを洗って、小一時間ほど用を済ませることにした。その間、ラップをかけて寝かしておいた。

さて、揚げる段になって、いざ勝負と俄然やる気が出てきた。おいおい、大げさな。

妻がフライパンに油を注ぐ。ん、何と手早い。170~180度が適温という。割り箸を入れて、気泡が出てくる温度らしいが、そのことを妻にいうと、「そんな面倒な。こうして」と言って、火にかけたフライパンの中にパン粉をチョコッと入れて、「うん、まだまだ」と言う。

長年の経験がものを言うキッチンでの妻の言動には、素直に従おうという気持ちになる。

2つの大皿にキッチンペーパーを敷いておいて、3枚ずつ揚げる。きつね色になる頃を見計らって一度大皿に移す。そして、もう一度、揚げる。二度揚げだ。

チョット揚げすぎたか、きつね色が濃くなってしまったが、カラッと揚がった。邪魔にならない程度の衣はサクサクして、肉は柔らかく、おいしいトンカツであった。娘にも好評で、4枚が家族の胃袋に収まった。残った2枚は冷凍した。



連休最終日とダイハードと参院選

3連休の最終日。と言っても、退職老人には“毎日が日曜日”なので何の意味が、と思うが、それでも、連休最終日というのは、やれやれ明日からまた仕事、という気にさせて、何となく落ち着かない気分になる。カレンダーに従ったサラリーマン生活の長い習慣は、そう簡単にはぬぐいきれないものらしい。

きのうはレンタルショップで、「ダイ・ハード ラスト・デイ」を借りてきた。「ダイ・ハード」のファンだったが、この作品はいただけない。壊すだけ壊す場面ばかりで、まあ、アメリカ的ではあるが、筋も何もあったものではない。ブルース・ウィルスもよたよたで、CIAの息子との“共同作戦”もわけがわからない。あ~、見て損をした。あほくさ。 

検索サイト・インフォシークのトップページに真っ赤な下地に白抜きの「実感を、その手に 自民党」というドデカい広告が出ていてビックリした。自民党も赤旗を降るようになったのかと思った。
 
ちなみにその広告をクリックしてみたら下のようなエラーが出た。  

おっとっと、なんじゃこれは?
OKタブをクリックしたら、首相のドデカい顔写真に「日本を、取り戻す」という添え書きがあった。

日本は、いま、どっかに行っちゃっているか、どっかにくれちゃったままになっているらしい。うかつにも知らなかった。

ちなみに、『広辞苑』で「取り戻す」を引くと次のように書いてあった。

いったん与えたり、失ったりしたものを再び自分のものとする。取り返す。狂言、胸突「有様ありようはあの借状が―・したさの調儀でおりやる」。「調子を―・す」

誰が、誰に日本を与えたり、誰が日本を失ったのだろうか。日本が日本を失った、というのも変なことだし・・・。なんか、よくわからない表現だな。なんとなくわかったような気が利いたような、カッコいいような表現とされているのだろうけど、日本語としておかしくない?

「自民党の参議委員選挙公約」が、
「たくましい日本」へ。「やさしい日本」へ。「誇りある日本」へ。
といったカテゴリにまとめられて掲載されている。それぞれに句点(。のこと)が付けられているのには違和感がある。こうした表形式で表示する場合には、句点は打たないのが日本語として普通だからだ。日本語を取り戻そう、ということを気がつかせるためなのかな~。

日本は、これまで、ずっと、「たくましくなく、やさしくなく、誇りなく」来たんだ。

そういえば、国民に優しくないものな、この国は。以前、マレーシアの当時のマハティール首相が、マレーシアをcaring society にすることを将来計画の中に掲げていた。caring societyを日本語にすれば、国民に優しい社会、ということになろうか。

それぞれの公約項目をクリックすると、まず、下のように画面全体が真っ赤になる。
 
その状態が10秒くらい続く。そして、おもむろに画面が変わって公約内容が出てくる。その10秒なにがしかの間に、ひょっとすると、「インターナショナル」でも流れているのではないかと、スピーカーをonにしたけど、無音だった。

憲法についての公約では、「憲法を国民の手に取り戻す」とあった。憲法って、国民のものじゃなかったん? 誰かほかのものが奪っていたんかいな。

どうも、なんか、おかしいぞ、一連のスローガンは。馬鹿にしないでよ~、って歌の出だしがあったような。国民はバカだ、って思ってる節が見え見え。バカには、これくらいのスローガンで、っていう感じだな。でも、老人はだまされないぞ。

餃子づくり

日曜日の夕食はギョウザということで、午前中に近くの野菜直売所とスーパーへ材料の買い出しに行った。

ちなみに、餃子について『大辞泉』では次のように説明している。

《(中国語)》中国料理の点心の一。小麦粉を練って伸ばした薄い皮で、豚のひき肉や細かく刻んだ野菜を包んで半月形にし、焼いたり、蒸したり、ゆでたりしたもの。チャオズ。

直売所ではニラ一束90円、とキャベツ一玉85円、ショウガ2個130円を買って、ついでに朝取りトウモロコシ2本200円、ナス4本100円を買った。ここの直売所は安くて新鮮ということで、平日でも大勢の客を集めているが、土日には遠方からの客も多くてごった返すほどの賑わい。優に100台を超える収容力のある駐車場も満杯になるほどだ。

餃子には豚の挽肉が定番だが、きょうはヘルシーにと鶏の挽肉にした。

キャベツやニンニク、ニラ、椎茸、ショウガ、ネギを刻んだりすり下ろしたりなどの下ごしらえは妻が全部やった。

さて、挽肉と混ぜる段になって、手でよく捏ねる(こねる)ようにと妻に言われてやってはみたものの、冷蔵庫に入れておいた挽肉の冷たさに閉口した。

箸で混ぜていたら、それではダメだと妻が平然とせっせと捏ねている。「えっ、冷たくないの?」と聞くと、「冷たいけど、これくらいのことは、いつものこと」と言う。

うーん、家事も大変だと、遅まきながら、えらく感心してしまった。こんなことで感心してしてもらってもうれしくないかもしれないが、くだらないテレビ番組を見ながら「メシまだできないのか」なんて言っていたチョット前までの自分を恥ずかしく思った。

よし、今日は俺が100個作ると50枚入りの皮を2袋買ってきたのだが、さて具を包む段になって、皮が小さめなのに気がついた。もっとも、作り始めて具の量が100個分には足りないことがわかったので結果オーライだったが、それでも、遊び心を出して皮を二枚使って作ったUFO型の餃子も含めて70個できた。

フライパンを2つ使って焼いた。まあまあ上手く焼くことができて、家族3人で40個をたいらげた。わかめスープとサラダとキムチと固めに炊いた白米大盛り1杯に加えてトウモロコシまで食べて・・・。

うーん、老人にしてはよく食べたと我ながら感心。そういえば、飽食の時代、なんて言葉がはやったこともあったけ。



2013年7月14日日曜日

蝉が鳴きだした

ようやく、といった感じでが鳴き始めた。例年よりも遅いのではないだろうか。

昨日は、猛暑の中、ウグイスが良い声で鳴いていた。不思議な気分だった。

おっ、いま、目の前を大きなクロアゲハが舞っていった。

そういえば、いまは参院選挙期間中なのだが、郊外の、といっても農村地域といった方がよいかもしれないが、私が住んでいる住宅団地には選挙カーも運動員も見ることがない。年寄りばかりの地域だからかなー。

でも、年寄りの投票率の高さは馬鹿にできないぞ。

2013年7月13日土曜日

老人割引デビュー

猛暑の中、涼を取ろうと妻と博物館に行った
「高齢者割引」の案内があった。
おっと、そういえば老人手帳があったことを思い出した。

持ってこなかったので、免許証でも良いかと尋ねたところ、「はい、けっこうです」と受付嬢のさわやか笑顔。
手に取ったが生年月日を確認することもなく、返してくれた。

おー、見たくれで“立派な老人”であることを既に確認済みであったのだ。ガックリというか見事というか・・・

入場料が半額になった。記念すべき老人割引デビューだ!(年をとるのも良いもんだな~、なんて・・・ う~、こんなのでか、セコイというか、単純というか)

妻は未老人なので割り引きなしと思いきや、なぜかスーパーのカードで20%引き。都合二人で560円の割引。やったー、ってか。

館内を回る前に喉が渇いたので併設の喫茶店へ。
妻はケーキセット。私はチョット洒落てコーヒーフロートを、と思ったが、メニューにない。

「できます?」と聞いたところ、おばちゃんウェートレスが「たぶん」と答えて引き返し、厨房でゴチョゴチョと話していて、「大丈夫です」ということだったので、「じゃあ、それを」と、久しぶりのフロートを楽しみに待った。

出てきたのは、フロ-トには違いはないが、チョボッとした黄色いアイスクリームがアイスコーヒーの上にチョンと載っているだけ。

「かたっ!」 スプーンで切り取れない。なんか、古いアイスクリームって感じで、ちっとも甘くない。おまけに、大きな四角い氷が4つも入っていて・・・ クリームとガムシロップを大量に入れて、ゴチャゴチャとかき回して飲み干した。これで550円。ガックリ。

その後、博物館で古代にまつわる展示を楽しんで帰宅。と、まあ、そんな「老人割引デビュー」の一日でした。