2017年4月25日火曜日

トマトとピーマンとパプリカとシシトウとオクラを植えた

好天の今日、一昨日購入した野菜の苗を猫の額ほどの家庭菜園とプランターに植えた。きのうは、昨年来放置していた菜園やプランターの雑草をとり、土を耕して新しい土を追加した。そして、今日、トマト3株、ピーマン2株、パプリカ1株、とシシトウ1株、オクラ2株を植えた。

保護路の運動不足がたたって、チョット体を動かすと、すぐにしんどくなってしまうので、苗の購入、耕し、植え付けを毎日少しずつ、3日もかけておこなったというわけだ。

昨年は、植え付け前に多めの石灰で土壌改良なんてことをよくわからないままにやって、肥料もすきこんで数日放置してから植え付けたのだが、どの苗も生育が悪く、実の付きも悪かった。そこで、今年は、土壌改良用の土と野菜用の土だけ追加した。これでうまくいくかどうかはわからないが。

オクラは寒さに弱いので、支柱を立ててビニールで覆った。これも、やっつけ仕事だから、見た目は最悪。

イチゴはすでに白い花をいっぱいつけている。今年もソコソコ収穫できそうだ。

こんなことも、世の中物騒になったらできなくなる。年寄りのささいな楽しみも平和があってこそだ。

2017年4月23日日曜日

臨戦態勢みたいな議論をやめて政治家は必死になって戦争が起きないように意を尽くせ

北朝鮮からミサイルが日本に向けて発射されたらどうするか、と言ったような議論が政治家や何が専門かわからないがミサイルや迎撃装備に詳しいらしい人、タレント、胡散臭い元議員などが、得意げに、不安顔で、また、笑顔で、深刻ぶって、また、おふざけ、おちゃらけで、写真入り、絵入りで・・・バラエティ番組を賑わしている。

安倍首相は、ミサイルの弾頭に化学兵器を搭載していたら云々(うんぬん:安倍首相はでんでんと読むそうだ)と語っている。

そんなことだけを取り上げれば、いまや日本は臨戦態勢にあるかと思いきや、放送各局は、のど自慢やらゴルフの中継、ドラマなど娯楽番組満載である。

どちらが正常な感覚なのかわからないが、戦争が起きても自分は大丈夫と “ 確信 ” している輩は、憲法の平和主義や九条のことなどは一切口にすることなく、知ったかぶりをして、あるいは、ミサイルなんて飛んでこないと高を括って、得意顔で面白がって危機感を煽(あお)り、金を稼いでいることだけは確実なことだ。

一大事にならないように、平和国家として国民の生命、財産を守るために、政治家が必死になって奔走しているというニュースは入ってこない。そうした取材もしていないようだ。

日本は、太平洋戦争の時もそうだったが、指導層は自分の都合のいいように考え、行動する。そして、それに追従するバカどもが結託して、国民を不幸に陥れた。

そうした歴史を顧みることなく、“ 戦争ごっこ ” よろしく、わけしり顔で臆面もなく半可通を押し通している。そんなバカどもを番組に招いているテレビ局と、そんな番組に大金をつぎ込んでいるスポンサーらは、もし、一大事が生じたら、責任を取る覚悟があるのか。そんなことは考えもしないだろう。無責任の極みである。

どのような形にせよ、武力衝突が起きれば悲惨な結果を招き、多くの人を不幸のどん底に陥れる。

飛んでくるミサイルを打ち落としたこともない得体の知れない無駄の極みと言える兵器について何だかんだと議論する暇があるのなら、ジャーナリストや評論家は自分で情報を集め、分析し、政治家を動かせ。

国民から賞賛され、信頼感を得たければ、政治家は必死になって平和の維持に奔走せよ。

本も読んだことのないおバカタレントや芸人は、半可通の言うことに耳を傾けることなどせず、武力衝突や戦争は全体ダメだと、それだけでいいから大声で叫べ。

企業の広報担当者は、広告代理店にすべてを任せるのではなく、番組をよく検討し、戦争を煽るような輩が出演する番組にはスポンサーにならないことだ。我が社は平和国家を一層繁栄させるために努力しています、といったテロップを流すだけで消費者の絶大な支持を得ることだろう。

そして、年寄りは、危なっかしいことを言う奴には、金輪際投票しない、と声を出すだけで、日本を世界に冠たる平和国家として守る責任を果たすことができる。

いままで知らなかったが、「国民保護法」なる法律が日本にはある。内閣官房のウェブサイトに「国民保護ポータルサイト」があって、こんなことが書いてある。

国民保護法は、正式には「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」といい、武力攻撃事態等において、武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、国民生活等に及ぼす影響を最小にするための、国・地方公共団体等の責務、避難・救援・武力攻撃災害への対処等の措置が規定されています。

 そして、「武力攻撃やテロなどから身を守るために(パンフレット)」も掲載されている。そのパンフレットを見ると、こんなことで国民を守っている気になっているのかと唖然とする。

2017年4月22日土曜日

「ほぼ現役世代」とは何のこっちゃ-「ほぼ政治家」のたわごと

報道によると、自民党のプロジェクトチームは、日本老年学会などが高齢者の定義を「75歳以上」とすべきだとの提言を受けて、70歳までを「ほぼ現役世代」とし、この年齢まで働ける社会にすべきだとする提言の骨子案をまとめたそうだ。

報道の要約で申し訳ないが、その骨子案では、65歳までを「完全現役」、定年から70歳までを「ほぼ現役世代」として、それまでの経験を生かして地域と一体となった仕事や社会活動に参加してもらうということだそうだ。そして、そのために、公的年金の受給開始時期を遅らせると受給者に有利になるような政策を検討することなどをプロジェクトチームの上部組織である「一億総活躍推進本部」の提案として政府に提言するとのことである。

このブログでも書いたが(2017年1月6日)、予想通り、老年学会などが高齢者の定義を75歳以上としたことの“効果”が早速でた。

平成28年度版の『厚生労働白書』では、「生涯現役社会」の実現が唱われているが、上の「ほぼ現役世代」や「一億総活躍」も同じように、とにもかくにも、公的年金はじめ社会保障関係費の支出をいかに抑制し、削減するかが政府の狙いなのである。

なぜ、社会保障関係費の支出を抑制、削減しようとするのか。もっともらしい理由は、人口が急速に高齢化していて、退職世代の割合が増大し、働く現役世代の割合が減少しているから、社会保障費が国家財源を圧迫する、というものである。

しかし、しかし、である。そんな理由は子どもでもわかる。そして、自民党がプロジェクトチームとやら大げさな組織を作って、どれだけ時間をかけてどんな議論をしたか知らないが、年をとっても年金を受け取らずに働け、という提案を出すに至った、というのでは、子どもでも考えつくことにすぎない。何を議論していたのか。お粗末の一言に尽きる。

ここで、考えなければならないことは、社会保障費が国家財源を圧迫することが問題なのか、ということだ。

年金の減額や高齢者に対する医療費や介護保険料、介護費の負担増などが着々と進められている。そして、他方では、国家予算窮乏とはとても言えない金遣いをしている。

軍事費や軍事研究のための予算が大幅に増額されている。首相夫人ということだけで、有閑マダムの遊びに王妃の下僕のごとくに国家公務員を秘書として付き添わせている。

東京五輪の開催のために大見得を切って莫大な費用を浪費している。原発事故の後始末に事故の責任を問うことなく効果のない対策に莫大な費用を湯水のように使っている。

大企業優遇策として企業税の軽減を図り、パナマ文書が暴露したように、税逃れを放置していて税収の増加を本気になって図ろうとしていない。ただ消費税増税という手軽な政策で弱いものいじめをしているだけだ。

ほぼ政治家」は、国家の将来と国民の福祉を考えた財政改革に命がけで取り組むなんてことはしようとしない。民が温和(おとな)しいことをいいことに、民を愚弄する愚策と悪政しかできないことが、「ほぼ現役世代」などという戯言(たわごと)になって表れた、ということだ。あほくさい。

2017年4月17日月曜日

戒名を自分で作ってみた

ふと、思い立って、戒名を自分で作ってみた。これまで、幾度となく肉親や親族の葬式で戒名に接してきた、というよりは、何かと煩わしさと疑問に思うところが多々あったことと、つい最近も親族の葬式で戒名が話題になったからだ。

広辞苑には、戒名とは、「受戒の際に、出家者あるいは在家信者に与えられる名」であって、「本来生前に与えられるものであるが、平安末期から死者に対して与えられるようになった」とある。

戒名というのは、死ぬと坊さんが付けるものと思っていたが、「本来生前に与えられるものである」ことを70歳近くになるまで知らなかったとは不覚であった。

インターネット上の記事で知り得たことだが、戦国時代の武将は、いつ命を落すかもしれなかったことから、 生前に戒名を授かり、それを呼称として用いていたそうだ。有名なところでは、武田信玄の「信玄」や上杉謙信の「謙信」などは戒名だそうだ。知らなかった。

よく引き合いに出されるのは、立川談志が生前に自分で付けた戒名だ。「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわ うんこくさい いえもと かって こじ)とは、希代の落語家としての面目躍如だ。もっとも、戒名は自分で付けることもできるとはいえ、寺によっては、そうした戒名は受け付けないこともあるそうで、彼の場合は、それを受け入れてくれる寺に葬られたそうだ。

葬式もしない、納骨もしない、ということであれば、そんな気遣いをせずに自分で戒名を作ればよい、ということで、自作することにしたわけだが、宗派によっても、戒名のタイプがいろいろと違うそうだ。インターネット上には、そうした情報が溢れていて、戒名作成ソフトのようなものもあって驚いた。

我が家は、一応、曹洞宗ということだから、それらしいものを作った。ここで公表するのは憚(はばか)れるので内緒にしておくが、複数作ってみた。複数あってもいいんじゃないかとおもったからだ。〇〇別名△△というわけだ。自作だから、思い切って最高ランクの戒名に、ということで、「〇〇院▢▢△△大居士」と「〇〇〇▢△△大権現」とした。

「権現」は神号だそうだから、一般には戒名には用いないようだが、徳川家康の戒名が東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士だそうだから、まあ、恐れ多いこととは知りながら、ちょっと拝借、ということで許してもらおう。

広辞苑に、戒名とは、「受戒の際に、出家者あるいは在家信者に与えられる名」とあることは先ほど記したが、ついでに広辞苑で「受戒」を引くと、「仏門に入るものが仏の定めた戒律を受けること」とあった。

私は、出家者ではもちろんないし、在家信者というわけでもないから、受戒しているわけでもない。また、戒名とは、「生前に信仰の厚い、またはお寺や社会に貢献した故人が仏門に入ったことの証としてつけられる名前」という記述もネット上にあったが、どれも私には当てはまらない。

俗名が生前の名前で、戒名は死後の名前くらいにしか思っていなかったから、死後に自分が知らない名前だと、三途の川を渡るために順番待ちしていて、自分の番が来たときに、他人が勝手に(と言ったら語弊があるかもしれないが)つけた戒名で呼ばれても自分のこととわからないじゃないか、という実にくだらない無用の心配から、自分で戒名を作ろうと思った、ということだ。それと、聞くところによれば、坊さんに戒名を作ってもらうと何十万円もかかるということで、こりゃ大変、と思ったからだ。

「ギヨエテとは おれのことかと ゲーテ云ひ」(斎藤緑雨:1868<慶応3>年-1904<明治37>年)。ゲーテ(Goethe:1749~1832)は、「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」で知られるドイツの詩人で作家、劇作家だが、かつて日本では、ゲーテをギヨエテと呼んだことがあることをからかった川柳だ。

かつてのアメリカ大統領ドナルド・レーガンも、日本では、新聞などで当初はリーガンと読んでいたと記憶している。リーガンとは誰のことかとレーガン言い、ということになる。

アリストテレスも、英語では、Aristotle (アリストートル)だし、プラトンはPlato(プレイトー)だ。ドイツ車フォルクス・ワーゲン(Volkswagen)は、原語ではフォルクス・ヴァーゲンだ。

厄介なのは、漢字を使う中国や韓国、朝鮮の人名だ。毛沢東は、日本では、「モウ・タクトウ」だが、原語読みではMao Tse-Tung(マオ・ツォートン)で、英語圏では、Maoとするのが通例だ。習近平は、「シュウ・キンペイ」と呼び習わされているが、原語読みでは、Xí Jìnpíng(シー・ジンピン)だ。シュウ・キンペイとは誰のことかと習近平言い。アーペイチンサンとは誰のことかと安倍晋三言い。

韓国、朝鮮の人名は、かつては日本語読みしていたが、近年では原語読みすることがほとんどだ。古い人間には、金日成(キン・ニッセイ)や朴正煕(ボク・セイキ)と聞かされていたが、現在では、朴 槿恵(パク・クネ)や金正恩(キム・ジョンウン)と原語読みしている。

Japanも外から付けられた国名だが、現在では、日本人も、日本のことを英語ではJapanとふつうに呼んでいる。これに対しては、外国から押しつけられたと騒ぐ改憲派も、改称しろとは言わない。

あの世では、各国、各民族入り交じっているだろうから、〇〇とは誰のことかと△△が言い、と大混乱していることだろう。

2017年4月15日土曜日

世界の平和安全のために日本政府は必死になって行動すべきだ

あたかも開戦前夜のような論評がマスコミを賑わす一方で、安倍首相は花見を主催して駄句を披露して悦に入っている。渦中の昭恵夫人も“堂々と”笑顔を見せている。

新聞の首相動静欄には、14日には、熊本地震1年の追悼式で挨拶をして、その夜にはホテルニューオータニで開催された「桜を見る会」の前夜祭に昭恵夫人と出席している。そして、きょう15日の午前中に花見である。

花見が悪いと言うわけではない。被災地を視察して、何を見て何を考えたのかはわからないが、被災者・被災地に寄り添う気持ちがあるならば、花見で浮かれて政権のおごりを示すような駄句を披露して悦に入るなんてことはできないのではなかろうか。私にはできない。ましてや、米軍のシリア爆撃に対して戦争を煽るが如きの支持声明を出しておいてである。

そうした安倍首相との対比で私がとても印象に残ったのは、中国の王毅外相の発言である。

AFPBB Newsによれば、彼の発言は次のようなものである。

戦争が起きれば、その結果は全員が負けるという状況で、誰も勝者にはなれない」と述べたという。そして、衝突を誘発する側がどちらであっても「歴史的責任を負うことになり、相応の代償を払うことになるだろう」と言い、「対話こそが唯一可能な解決策だ」と訴えたそうだ。

中国の内政、外交に見られる日頃の横暴を棚にあげておいて何を白々しい、と言うのは簡単だし、自国の利益を優先して機に乗じて見え透いた“ええ格好しい”じゃないか、と王毅外相を揶揄することもできよう。

しかし、私の印象は違う。嫌らしいほど大国の自負を露骨に押し出しての名演技とは思いつつも、他方では、とてもうらやましい気分にさせられた。

何を言いたいかというと、こうした訴えを、安倍首相始め安倍政権の閣僚が声を大にして何度も何度も国際社会に向けて発信し、必死になって行動して欲しかった/欲しい、ということだ。それでこそ、日本人は、自国に確固たる誇りと愛国心を持つことができるだろう。

ミサイルの迎撃のことばかりに関心が向いているようだが、自国に何の被害も生じることなく100%迎撃できるわけではないことは、軍事評論家でなくてもわかる。兵器の性能評価は、詳しいことはわからないが、100%は期待されていないのであろう。それが、たとえ、50%や60%であったとしても、高い確率と見做されているのではないだろうか。もっといえば、“ないよりは、まし”程度ではないかとも思う。

飛んできたミサイルの99%は迎撃できた、と軍事的には大成功と戦争遂行者は自慢したとしても、残りの1%で多くの人が犠牲を強いられることになる。ミサイル迎撃の議論は確率の問題ではないと言うことだ。 最新式の武力や兵器を幾ら用意しても、戦争を起こせば、悲惨な結果が生じることを、これまでに、イヤと言うほど学んだはずである。日本政府は、世界平和のために、武力行使を徹底的に批判し、頭を使って必死になって行動することを願わずにはいられない。

2017年4月9日日曜日

いま、国民の知性と誠実さと優しさが問われている-安倍政権に欠けている3つのもの

教育勅語を学校教材として利用してもかまわないとか、道徳教材に時代錯誤的な内容を盛り込むとか、中学の保健体育に銃剣道を武道種目に加えるとか、森友問題での対応とか、共謀罪の成立を強引に推し進めようとしていることや、稲田防衛大臣や今村復興大臣の振る舞いなどなど、何か奇妙で腹立たしく、息苦しいことばかりが続いている。

その原因は何だろうと考えていたら、ふと、気がついた。

安倍政権は、知性に欠け、誠実さに欠け、優しさに欠けている、ということだ。要するに3欠状態(酸欠状態)だ。

この酸欠状態から抜け出すには、国民が、知性と誠実さと優しさを発揮して、悪政を正すほかはないだろう。

2017年4月6日木曜日

証人喚問で虚偽の陳述をすると偽証罪になるが、議員や官僚が議会で虚偽の発言をしても偽証罪にならないのはなぜだ

国会の証人喚問や参考人招致の報道を視ていて何か腑に落ちないと感じていたのだが、その理由がやっとわかった。

議員や官僚が虚偽の発言や答弁をしても、何のお咎めも受けないってのは、おかしくね? ということだ。

議員や官僚にこそ、厳しく偽証の罪を負わせることがなければならないだろう。

議会は神聖な場でなければならない。デタラメやウソで固めた議論は、国民を冒涜するものである。政治家と官僚はウソをつく人間である、なんてしたり顔で言う輩もいそうだが、議会で虚偽の発言をしたら、直ちに偽証罪で罰せられる制度を早急に作るべきだ。

ウソをついたら首相を辞めるとか大臣職を辞するとか議員を辞める、なんて自罰らしきものでお茶を濁すことを許しているから、まともな議論ができないのだ。

2017年4月5日水曜日

きょう、ウグイスの初音を聴いた

今日、4月5日の午後、鶯(ウグイス)の初音を聴いた。

毎年、春になると、喧しいくらい朝からウグイスが鳴き続ける。近くの林の中に何羽いるかは定かではないが、競い合うように、これぞとばかりに喧しいほど澄み切った高音を奏でる。

春告鳥(はるつげどり)の別名を持つように、桜の開花が視覚を通してということならば、鶯は聴覚を通して春の到来を教えてくれる。

清少納言の枕草子にもあるように、日本人は(といってよいかわからないが)、古くから鶯の鳴き声を愛(め)でてきたが、夏の盛りにも鳴き声を聞くことがあり、初秋まで鳴いていることもある。枕草子には、そんな時期の鶯を品のない者は「虫食い」と呼ぶと言って残念がっていて、春にだけ鳴くのであれば、どれほど味わい深いものか、などと言っている次のような一節もある。

夏秋の末まで老い声に鳴きて、虫くひなど、良うもあらぬものは名をつけかへて言ふぞ、くちをしくすごき心地する。・・・春なくゆゑこそはあらめ。「年立ちかへる」など、をかしきことに歌にも文にも作るなるは。なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。

鶯の初音にウキウキするような気持ちにさせる政治状況の到来を望むばかりだ。真に賢くて品性のある信頼に足る政治家たちよ登場してくれ。

善政を施すために、年がら年中、国会で競い合って論争し、メディアは、その内容を喧しいほど国民に伝えるのであれば、そんな喧しさなら大歓迎だ。

悪政を悪政と理解できずに得意になって税金を無駄遣いして国民を翻弄するだけの厚顔無恥な政治家は、「虫食い」ならぬ「金食い」という別名で呼ばれるのがふさわしいだろう。

2017年4月4日火曜日

安倍首相夫人付の国家公務員に悲哀を覚える

森友学園問題で浮上した安倍昭恵・安倍首相夫人付国家公務員の件で、妻が面白いことを言っていた。

仕事ができるとか頭脳明晰とか、知性溢れるとか、熟慮に熟慮を重ねて余人には真似のできない素晴らしい言動で人々を感心、感動させるわけでもなく、ただ首相夫人ということで好きに任せて得意げに遊び回っている中年女性を公務としてお守りしているのが、頭が良い上に一生懸命に勉強して国家公務員試験を突破してきた優秀な女性であることに、とても違和感を感じる、ということだ。

有り体に言えば、無思慮で我が儘な有閑夫人の暇つぶしの相手に、もっと大事な仕事を任せられるはずの国家公務員を“あてがう”ことにした安倍首相とそれを許した連中は、国家予算と人材の無駄遣いを共謀したということで処罰ものだ、ということである。

報道によれば、森友学園の籠池理事長(当時)への返信ファックスは、安倍首相夫人付の女性が勝手にやったことだと、あたかも、とんだ迷惑行為をしてくれたかのように管官房長官らが言っているそうだ。官僚からは、その女性を庇(かば)うような声は聞こえてこない。

誠意ある上司なら、“ とんでもないことだ。安倍昭恵の命令に従ってやったことだから、彼女が責めを受ける理由は何もない ” と声を大にして擁護に努めるだろう。教育勅語を信奉するアナクロニズム(時代錯誤)に凝り固まった安倍首相や昭恵夫人、その仲間の国会議員たちは、教育勅語でいう「博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ」(広く人々に愛を注ぐ)を実践すべく、庇い立てしないのか。

国家公務員法には次のような条文がある。

第九十六条   すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務しなければならないのであって、特定個人のために勤務してはならないのである。ましてや、「私人」であると安倍首相が広言している昭恵夫人に奉仕することは、国家公務員法違反であり、安倍首相自らが法律違反を奨励していることになる。

第百一条   職員は、法律又は命令の定める場合を除いては、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、政府がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。


政府が為すべき責を有する職務にのみ従事しなければならないのだから、昭恵夫人の遊びに付き合うことは国家公務員法違反である。

そうだからといって、安倍首相夫人付の彼女自身が罰せられなければならない、ということではない。国家公務員法には次の条文もある。

第九十八条  職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

上司の職務上の命令に忠実に従わなければ国家公務員法違反になるから、命令に忠実に従って昭恵夫人の遊び相手として、内心は、喜んでか、しぶしぶかはわからないが、それを職務として精励恪勤し続けたのだから、責められるべきは、法律違反であることを重々承知の上で職務命令を下した者たちと、それらの輩を放置している検察や警察である。

安倍首相夫人付の女性公務員たちは、名前や顔写真がネット上に公表されている。もし、自分の娘であったとしたら耐えられないだろう。そして、騒動の責任をなすりつけるような連中を名誉毀損やハラスメントで訴えるだろう。

2017年4月2日日曜日

森友学園問題の構図-騙されてはいけない虚構の対立関係

叩き売りかのような国有地格安払い下げに端を発した森友学園問題が、予想通りと言うか、予想に反してと言うか、ドラマチックと言うか、漫画チックと言うか、三文小説風と言うか、ミステリー調と言うか、戯作風と言うか、講談よろしくと言うか、弁証法的と言うか、ドタバタとした展開を続けている。

何で、そんなに安く国有地が払い下げられたのか、という疑惑は、そこに、不正な行為が“志を同じくする”有力政治家連中の仲間内で共謀して行われた、という確からしい推測をもたらした。一連のことを素直に見つめれば、自然にそういう推測に行き着くだろう。そして、そこに、高級官僚が自己保身と出世のために大いなる“忖度”が働いていた、と考えが及ぶのも、至極当然の推測プロセスである。

国会での一連の質疑応答の中で、官僚が交渉記録を廃棄したと強弁し続け、首相始め政権与党の大臣や議員が、国有地払い下げの不自然な過程と篦棒(べらぼう)な価格での払い下げによって国民に損失を与えたことなどは歯牙(しが)にもかけずに、問題の原因究明に一切取り組もうとせず、お仲間・身内のかばい合いに終始した。

そうした第一幕から、森友学園(籠池一家) 対 安倍政権(安倍一家)の同類茶番劇の第二幕が開いた。次々と古顔、新人の役者が登場し、演出家が変わったかと思うほど新たな展開を迎え、観客は感心するやら興奮するやらで、大いに盛り上がりを見せることになった。マスコミやジャーナリスト(といえるかどうか疑わしいような政治評論家もどきも含めて)、役者の役割が明確鮮明になり、とても分かりやすい言動で対立関係が描かれることになった。

うん? わかりやすすぎるのではないか? 韓国ドラマか水戸黄門シリーズを見ているようではないか。

しかし、しかし、である。騙されてはいけない。そこでの対立関係は、敵・味方の関係ではない。悪人、善人の関係ではない。仲間同士の内輪もめに過ぎないからだ。近親憎悪のようなものだ。思想信条が同じでお互いに親しすぎたり性格がとても似通っていることからくる悪口の言い合い、ケチのつけ合い、憎しみ合いにすぎない。暴力団の内部抗争や内ゲバと同じである。

そこにあるのは単なる打算(損得勘定)だけだ。国民のため、国のためなどという真っ当な政治理念や知性などは全くない。己の利益をいかにして確保し、拡大していくか、ということだけだ。

政治家や官僚にとっては、10億や20億の金額は端金(はしたがね)に過ぎない。自分の懐が痛むわけではないから、その端金で自分がいい目を見ることができれば、いとも簡単に処理することになる。麻生財務大臣が大臣席でニタニタ笑っているのも、“おまえら、そんな端金のことで何を目くじら立てているんだ。ばっかくせい。俺の一声で、なん百億何千憶何兆も動かせるんだぞ”と思っているからだろう。

そういえば、森友学園が小学校開設予定地としていたところからゴミが出てきて、その処理費用を8億円と算定して値引きの根拠にしたが、この8億円という数字はなかなか意味深長である。

籠池理事長が提出したという3通りの工事請け負い契約書は、それぞれ23億8,400万円、15億5,000万円、7億5,000万円だった。工事業者は、正式な契約金額は15億5,000万円だという。ふむふむ。

23億8,400万円-8億円=15億8,400万円。
 7億5,000万円+8億円=15億5,000万円。

ごみ処理費用の8億円を引いたり足したりすれば、正式な契約金額になるではないか。できすぎじゃない?

誰かがアドバイスしたとしか思えない。そういえば、松井大阪府知事によれば、異例というほど近畿財務局が出向いて大阪府と何度も打ち合わせをしたそうだから、そのあたりのことも打ち合わせの際に十分に検討して確認されたのではないだろうか。籠池理事長(前理事長になったようだが)が、松井府知事にはしごを外されたと言ったのは、そういうことではないのか。

おそらく、安倍信奉者のような小物政治家や政治評論家気取りの連中などは、その辺の詳細を知らされていなくて、おべっかを使うのはこの時とばかりに安倍首相と首相夫人の擁護に血道をあげているのだろう。

ヘーゲルの弁証法を半可通的に適用すれば、正-反、と来たから、今度は合が第三幕になるはずだ。合に至ることをドイツ語ではアウフヘーベン(Aufheben:日本語では、止揚<しよう>とか揚棄<ようき>とわけのわからない訳があてられる)と言うが、その過程では、それまでの段階の実質が保存される。

安倍首相が、“国有地売却に自分や妻が少しでも関与していれば首相はもとより国会議員もやめる”ようなことを断言したのも、その後のいきり立った反論も、極右イデオロギー(思想傾向、観念形態)に凝り固まった仲間の支持は盤石(ばんじゃく:きわめて堅固)であると確信しているからだろう。

そして、その背後で、教育勅語を教材として使うことを否定しないという政府の答弁書が出され、道徳教育が教科化されて、笑止千万の教材が作られ、辺野古基地造成に反対する沖縄県知事を損害賠償で訴えることが検討されている。稲田防衛大臣の件はお預けになっている。

とんでもないことだらけだ。臭いものには蓋をして、トカゲのしっぽ切りで、第三幕が大団円、ということになれば、もはや、この国は救いようのない非文明国に陥落してしまう。

やりたい放題で弱い者いじめを平気で繰り返す政権の支持率が低下しないほど、日本人は魂を抜かれてしまったのか。全国の老人よ、健康づくりにばかり勤しんでいないで、御意見番として、子のため孫のために政治的感覚を研ぎ澄まそうではないか。