2014年10月28日火曜日

新幹線のパンタグラフは2つしかない

この土日に用事で新幹線の「のぞみ」を利用した。これまでに数え切れないほど新幹線を利用しているのだが、私が興味を持ったのは、16両編成の新幹線に、パンタグラフがたった2つしかないことだ。このことは、先月、ふと気になって、ホームに入ってくる「のぞみ」のパンタグラフを数えてみたときに気がついたことだ。

最高速度毎時270Kmで疾走する新幹線(開業以来50年を経ていても、なお新幹線と呼ぶところにユーモアを感じるが)のことだから、パンタグラフは幾つも付いていると思って数えていたら、何と2つしかなかったことに驚いた、というわけだ。

パンタグラフで電気を取り入れて猛スピードで走行すること自体、凡人にはとてつもなくすごいことと思えるのだが、たった2つというのには、素直に恐れ入ったとしか言いようがない。なんて、へんてこな感想と我ながらにあきれてしまうが、パンタグラフがいっぱい付いているとすれば、その方がかえっておかしいと電車に詳しい人は思うかもしれない。

鉄道マニアや列車マニアは多いようで、インターネットに「のぞみ」などの新幹線車両の写真がとってもたくさん掲載されている。それらをいくつか見てみた。どれも列車の姿形の美しさや走行中の“かっこよさ”を見せようと苦心して撮影されたことがわかる。当たり前のことだと思うが、わざわざパンタグラフに着目して撮影しようとする人などいないようだ。私も撮っていないので、新幹線車両のパンタグラフが2つしかないことをここでお見せすることができないのが残念だ(ちっとも残念ではないか)。でも、これらの写真をみると、新幹線車両にパンタグラフが目に付かないほど少ない、ということを“発見”できるのではないだろうか。そんな見方をされたんでは、自慢の写真を掲載した方はがっかりするかもしれないが。

「のぞみ」がホームに止まろうとして目の前をゆっくりと進んでいるのを見ながら、人間の技術力ってすごいもんだな、とあらためて思った。あれっ、おれ、年取ったせいかな、とおもいながら周囲に目をやると、鉄骨造りのホームの屋根があり、その先には高層ビルがある。土と草と木と空気しかなかったところを人間は構造物で埋め尽くしてきたのだと、これも幼稚な感慨にふけって、いかんいかん、と思いなおしながらも、構造物こそ人間の知の結晶だと、つくづく思ったりした。

そう言えば、中学生の時に、若戸大橋が東洋一の巨大橋/長大橋として完成したときに、「おお、これだ。おれは巨大橋づくりをする」と意気込んだことがある。その当時購入した記念切手がいまも切手帳に残っている(下の写真)。久しく手にしていなかったが、セロハンで丁寧に包んであったので、ほとんど痛んでいない。若戸大橋の色と同じく赤の単色だが、当時は、なんて迫力のある図柄だろうとわくわくして切手を眺めていた記憶がある。


無から有を生み出し、未だ見たことも聞いたことも触れたこともない物を人間は生み出してきた。動物にはないイメージするという能力によってだ。他の動物がイメージの能力を備えていたとしたら、人間は万物の霊長にはなれなかったかもしれない。

凡人は、それらを、誰が、どのようにして生み出したか知らないし、知ろうともしない。だが、それらを当たり前のように使って生活している。ごく少数の、とっても頭のよい(イメージ能力が桁外れに高い)人間によって次々と新たな構造物が作り出され、それらの中で、それらに囲まれて、凡人は生活している。そして、ときには、そうした多数の、あるいは少数の凡人が、類い希なるイメージ能力で生み出された構造物を使って人間を不幸にするという悪行を働くこともある。自分の力ではとうてい生み出すこともできないものを産みだした人に何の敬意も払うことなく、私利私欲からか何からかわからないが、我が物顔で間違った使い方をして人間を社会を不幸に陥(おとしい)れることは御免蒙(ごめんこうむ)りたいものだ。

最近、“ものづくり”という言葉が、よく使われる。なんじゃい、その“ものづくり”っていうのは、と常々その言い方に違和感を覚えていたが、その言い方では、小さなものにしろ巨大なものにしろ、人智が生み出す構造物の迫力を少しも伝えていないからだと、いま気がついた。

たった2つのパンタグラフで16両編成の「のぞみ」が細いレールの上を猛スピードで走る。その中で乗客はシートベルトもしないで弁当を食べたり居眠りをしたり、スマートフォンの画面に集中している。そして、時にはトイレに歩いていき、喫煙ルームで立って紫煙を燻(くゆ)らす。人間とは、何と、すごいことを平然とできる動物なんだと、老人は感心するばかりである。

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