2015年7月23日木曜日

新国立競技場建設をめぐる議論に見る政治家の阿呆さ加減

新国立競技場の建設計画案が白紙に戻った後に、各界でさまざまな議論が行われているが、政治家の阿呆さ加減を代表する発言の極めつけは、なぜか五輪組織委員会の会長に収まっている森喜朗・元首相が、7月22日に東京の日本記者クラブで講演した際の発言と記者の質問に対する返答だろう。

知性のかけらもない発言内容は、逐一(ちくいち)論(あげつら)うことが阿呆らしいくらいであるので、ここではしない。その詳細は、ハフィントンポスト日本版に掲載されているから、是非ご覧いただき、こういう発言を得意になってする低レベルの阿呆な人間が、“大物”として君臨し、重責を担っている日本は、全くおかしな国である。

肝心なことは、森発言にしろ、下村文部科学省大臣にしろ、はたまた、舛添東京都知事にしろ、安倍首相もそうだが、新国立競技場の建設計画問題に関して、国家財政の問題や財政健全化計画と全く関連させることなく無駄話をしていることである。政治家の発言とは言えないお粗末きわまりないものである。

どうして、そのような無駄話を阿呆面して平気でできるかと言えば、要するに、他人(ひと)の金を使うことで自分の腹は痛まない、という感覚だからだろう。国家の財源が国民の労働から生み出される血税によるものであることなど、ちっとも考えていない、ということである。

国民は、懸命に働いてせっせと税金を払っても、阿呆どもは、どうせ自分の金ではないからと、面白がって他人の金を自由に使い、足りなくなりそうになったら、もっとよこせ、と有無を言わせずに取り立てればいい、と考えているわけである。時代劇に出てくる能なしで欲深な悪代官と全く同じである。私利私欲に走り、目先のことしかわからず、考えもせず、将来の日本にツケを残すことを一向に気にもかけない脳天気な与太者ばかりが政治を行っている。こんなことを許しておいて日本の将来は大丈夫だろうか。

2015年7月22日水曜日

第56期王位戦七番勝負第2局も羽生王位が快勝

羽生王位が挑戦者広瀬八段を117手で破り、2連勝した。実に愉快である。

この第2局は一日目の昨日から羽生王位の作戦が功を奏しているようだった。そして、2日目の本日は、角桂と金の2枚替えという駒損の強襲で60手目あたりから羽生王位のペースになり、徐々に差を広げてゆき、と金と金で後手番の広瀬八段の王を追い詰めていった。

70手目を過ぎた頃からは明らかに羽生王位の勝勢になり、間もなく終了かと思われたが、広瀬八段が長考を繰り返して粘り続け、反撃の機会をうかがう展開になった。

将棋ソフトの評価値は1,500台、1,800台、2,000台と次第に先手有利に傾いていき、終盤には、一時、8,000台までいった。大きな差がついたということだが、そこには、挑戦者広瀬八段が、この一戦の重さを思い、投げるに投げられずに必死に考え続けたことが表れていると思う。

羽生王位は、この1勝で通算勝数を1,320とし、現役最高齢の加藤一二三九段に並ぶ歴代2位タイとなった。ちなみに、歴代1位は、故大山康晴十五世名人の 1,433勝である。113勝の差であるが、年間40勝するとして、3年で追いつく数字である。年間25勝すれば棋士として優秀と言われているから、40勝は最優秀ともいえる。

羽生4冠(名人、王位、棋聖、王座)は、1985年12月18日に四段に昇段して中学生棋士としてプロデビューしたから約30年経っている。その期間に1,320勝しているから、平均すると年44勝になる。棋戦の数に変化がなく、対局数にも大きな変化がなければ、3年で113勝は可能だと期待したい。

加藤一二三九段は、羽生4冠が凄まじい活躍をするまでは、私が一番好きな棋士だった。残念ながらいまでは順位戦はC級2組、竜王戦は6組と最下級のクラスにまで落ちてしまったし、近年は対局数も少なく、勝率も5割を大きく切るようになったので、これからも勝ち数を積み上げることができても、羽生4冠に並ぶだけの勝ち数をあげることはないと思うので、羽生4冠が独走態勢で歴代1位に向かって突き進むだろう。ずっと応援したいと思う。

2015年7月18日土曜日

歯科医院に床屋に温泉に-老人のある一日

もう2か月以上も歯医者に通院している。近所の歯科医院から4か月に一度の検診の案内をもらったのが4月で、歯石の除去などをしてもらった。その日の夕食中、咀嚼していると金属の異物を感じた。出してみると、長細い金属片。どうも虫歯治療の詰め物のようだ。おそらく、歯石の除去のときに詰め物の一部もひっかいたのだろう。そのために、詰め物が剥がれたのだろう。でも、舌で探ってみても、詰め物が取れたような感覚がなかったので、まっ、しばらく様子を見るか、と数日経ったら、食事中に奥歯に激痛が走った。家にあった鎮痛剤を飲んでも、さほど痛みが治まらない。

翌日、電話で事情を話して診療時間最後の所に予約を入れてもらった。大繁盛の歯科医院なので、予約していないと受け付けてもらえないからだ。

そういえば、昔、ハワイに滞在していたときに、治療せずに放っておいた虫歯が悪化して痛み出して歯茎(はぐき)もはれてきたので現地の知り合いに歯科医院の予約を頼んだところ、数週間先にならないと受診できないと言われて困ってしまったことがある。そのときには、幸いというか、ほどなくして膿が出尽くして痛みが引き、その後は、だましだまししているうちに帰国することになって日本で治療ができた。

詰め物を持って歯科医院に行って見せると、「端っこのが剥がれたようですね。まあ、たいしたことはないですが」と言って、簡単な治療をした。しかし、相変わらず痛みは続いた。1週間後の予約日に行くと、レントゲンを撮ってから、「ここが少し虫歯になっていますね」と画像を見せられたが、よくわからない。少しの虫歯にしては痛みが強い。

麻酔を打ってから、例のキュイーン、キュルキュルキュル、キッキッキッキッキ、ガリガリガリ(とは、いまはしないが、どんな擬音語で表現したらよいか難しい音だ)の音と振動(そんなに振動するわけではないが)で、痛みに弱くて、鼻で上手く息ができない私は、麻酔をしているので痛みはないはずだが、痛くないことを体が受け入れないらしくて、肘掛けをグッと握った手と治療倚子に押しつけている背中に汗をかいた。

そんな治療を続けていたが、どうも、治療している歯のもう一つ奥の歯茎が痛んでいるようだが、虫歯にも歯周病にもなっていないということだった。激痛のようなことはないが、噛むと鈍痛がまだすると訴えると、いま治療している歯の治療が終われば痛みも消えるようなことだったので、治療を続けた。

冠をかぶせてやっと治療が終わり、きょうは、いわば最終点検日だったが、まだ、治療を終えた歯のもう一つ奥の歯のところが食べ物をグッと噛むと鈍痛がする。そのことを伝えて、痛みが続くわけではなく、我慢できないこともないから、ひどくなったら治療をお願いすることにしたい旨を言うと、ひどくなると大変だし、治療も長引くと言われて、それではお願いしますということになった。

というわけで、また、麻酔を打たれて、キュイーン、キュルキュルキュル、キッキッキッキッキ、ガリガリガリ、と歯が削られて、仮詰めをした。これで、また、何週間か通院することになった。

自慢ではないが、抜けた歯は1本だけだ。始めて歯科医にかかったのは中学1年の時。上の前歯2本の歯茎近いところにちょっとした虫歯ができたようだった。たぶん、学校の検診で指摘され、歯科医院に行ったのだと思う。同級生の家だった。そのときに何かを捏(こ)ねて詰めたような塗ったような記憶があるが、それから大学性になるまで歯科医にかかったことはなかった。歯科検診でも、その前歯2本の治療跡は何もないらしくて、治療した歯と認定されたことはない。自然治癒-再石灰化-したのかもしれない。昔のことだから、歯は朝起きて磨くくらいだったし、そんなに丁寧に磨いた記憶もないから、もともと丈夫な歯だったんだろう。

抜けた1本は、下の奥歯で、大学時代に虫歯になっていたのを放っていおいて、いまでもハッキリ覚えているが、夜中の3時に激痛で耐えられなくなって、下宿のすぐ近くにあった歯学部付属病院に駆け込んだ。夜間外来があったわけではなく、勝手に入り込んだような記憶がある。若い歯科医が親切に応急措置をしてくれた。そのときに、ひどくなっている虫歯を診て、「正露丸でも詰め込んだの?」と言った。「えっ、そんなことしていませんが」というと、「こっちの人は歯が痛むと正露丸をすり込むからね。そんなことしちゃダメなんだけどね」と教えてくれた。そして、翌日あらためて正式に受診し、抜歯した次第だ。

それ以来、歯科医にはけっこうまめに通うようになったこともあって、奥歯は上も下もがっちり治療してある。それらが、年をとるにつれて、いわばガタがきているのだろう。

というわけで、きょう土曜日の午後3時半から4時半までは歯科医院の診療倚子に座っていた次第。そうそう、歯科医院にもお年寄りが多かったが、気がついたことは、老男子がけっこう洒落た靴やサンダルを履いていたことだ。私のサンダルは一応バックストラップ(バックバンド)付きなのだが、合成樹脂製の安物で、もう5年も履いている。

この歯科医院は土足で診察室に入るようになっている。治療中は診療倚子を後ろに倒されて水平仰向けになるので足下がもろに見えるようになるから、患者は履き物にも気を遣うのかもしれない。サンダル履きで行って、足のツメが伸び放題になっているのに気がついたときには気が引けたこともある。

帰ると、娘が温泉に連れて行ってやるとのこと。まあ、久しぶりに時間的余裕ができて、温泉にでも浸かりたいと思ったのだろう。もっとも、入浴回数券は私が買って持っていたものだから、連れて行ってやるも何もないのだが、車に乗せて行ってやるということのようだが、その車は私の車だから、運転だけはする、ということに過ぎない。

温泉に行く途中に床屋に寄った。髪は途轍もなく薄いのだが(世間ではハゲと言うらしい)、それなりにボサボサになっていて、暑苦しくなってきたので、ばっさり切ってもらうことにした。以前にこのブログにも書いた老人割引のある例の床屋さんだが、土曜の夕方だからか、混んでいた。

散髪倚子は10脚もあるのだが、理容師が10人いるわけではないので、「8番にどうぞ」と言われて散髪倚子に座ったが、散髪開始まで30分も座っていることになった。首から青いエプロンを掛けられているので雑誌も読めず、周りをキョロキョロと見回したり、前の大きな鏡に映る自分と睨(にら)めっこするしかない。

歯科医院の診療倚子よりは座り心地はいい、なんて思ったり、そう言えば、歯科医院でも治療中はエプロンを首に回されていたっけ、とか、リクライニングできるのも一緒だな、とか、でも、歯科医院には老人割引はなかったな、とか、今日は口中と頭の手入れの日か、とか、まったくもって、つまらないことをあれやこれや思って時間を潰した。

「どのようにしますか」と聞かれたので、「夏向きに全体を短く」と頼んだ。「バリカンを使って良いですか」と聞かれたので、「バリカンでもカンナでも」と言うと(矢でも鉄砲でもとまでは言わなかった)、にたっ、と笑ってから、まるで、ジョニー・デップ演じるシザーハンズのごとくに、バババババっと刈り終えた。それは見事なもので気持ちよかった。ものの10分ほどで終わった。この短さが私には快感だ。すっかり軽くなった頭で(中身のことではない)妻と娘が待っている間に買い物をしているスーパーへ。

さて、温泉だが、露天風呂にゆったりと浸かり、高温サウナでオールスター戦を見ながらやら汗を出し、中温サウナでは塩を全身にまぶして、これも汗を出す。小学校2年生という男の子が中温サウナに入っていて、お喋りをした。小2の子どもって、こんなにしっかりしているものかと感心した。「もう夏休み?」と聞くと、24日からだという。「夏休みか、いいね、何して遊ぶの」と聞くと、「勉強する」と言う返事。たまげた。「えらいね、どんな勉強が好き」と聞くと、「図工」とのこと。「いいね、おじさんも図工好きだったな、絵を描いたり船を作ったりしたよ」と言うとと、「風鈴を作った」と言う。「へー、ガラスで?」と聞くと、「ううん、粘土で」とのこと。老少交換の一幕である。

入浴後にその温泉で遅い夕食を摂った。とんてき定食は豚肉も御飯も盛りだくさんで、完食したのは良いが、帰宅してからも満腹感が続いて、なかなか寝られそうもない。そこで、この雑文を書きながら消化を待つことにした。食べ過ぎはいかん。自分の年をよく考えなくては、と反省した。と、まあ、そんな老人の一日であった。

2015年7月17日金曜日

新国立競技場の建設計画が白紙に戻った-茶番劇の第二幕か

森喜朗古墳とも揶揄された新国立競技場の建設計画を白紙に戻すことがきまったということだ。テレビのニュースで、安倍首相が「国民の声を聞いて・・・」などと言っているのを見て、まあ、何と、いけしゃあしゃあと、と思ったのは、私一人ではないだろう。安保法案では国民の声を完全に無視していたのに、である。

白紙に戻すことを決めたのは、これもテレビで自民党議員が言っていたことだが、そうしないと、安倍政権や自民党にとって不利になるからである。そこには、不合理な血税の大盤振る舞いに対する国民の批判は全く念頭に置かれていない。

最新のおもちゃをもらえることになって大喜びで友だちや親類縁者に自慢するかのようにはしゃいでいた五輪組織委員会会長の森喜朗元首相(日本ラグビー協会名誉会長)はとても残念がっていたそうだが、首相経験者ともあろう者が、事態を全く理解できていないことに開いた口がふさがらない。

借金まみれの国で、しかも、東日本大震災からの復興のための施策を実施するために必要な財源の確保に関する特別措置法 (平成二十三年十二月二日法律第百十七号)を制定して、震災復興のために平成25年から平成49年までの長期にわたって復興特別税を徴収し続けるというのに、原発事故の処理に解決の目途が立たないままに多額の税金を投入し続けているのに、道路や橋梁の老朽化対策が急がれているのに、少子高齢化対策が遅々として進まないのに・・・。

するべきことが山ほどあるのに、お祭り騒ぎで、はしゃぎ回っているときではない。

オリンピックにケチをつけるわけではないが、開催地の決定プロセスにしろ運営にしろ、FIFA(Fédération Internationale de Football Association:国際サッカー連盟)の汚職事件にも見られるように、胡散臭いことが多い。スポーツという美名に隠れて私利を図り、私欲を充たそうとする輩が跋扈していることには、ほとほとうんざりする。そこに、頭で考えることなく、筋肉で考えるが如くの思考回路に同期(作動を時間的に一致させること:『広辞苑』)させる連中が群がって知性なき言動を繰り返す。そして、そのツケを平気で国民に押しつける。勘弁して欲しい、というより、許しておけない。

質素であっても、世界一流のアスリートが競技に全力を出せる環境を整えることは十分に可能であろう。国民に不必要な負担をかけることなく、さすが日本だ、と言われるほどの創意工夫をしてこそ、国民がこぞって祝福できるオリンピックになるはずである。

2015年7月16日木曜日

台風11号接近中

大型で強い台風11号が接近中だ。この台風は、「ナンカー」と名付けられている。

気象庁が16日18時50分に発表(16日18時の実況)したところでは、次の通りである。

  大きさ             大型
  強さ               強い
  存在地域           室戸岬の南南東約90km
  中心位置           北緯 32度30分(32.5度)
                      東経 134度30分(134.5度)
  進行方向、速さ       北 20km/h(10kt)
  中心気圧          960hPa
  中心付近の最大風速  35m/s(70kt)
  最大瞬間風速         50m/s(100kt)
  25m/s以上の暴風域    南東側 190km(100NM)
                  北西側 150km(80NM)
  15m/s以上の強風域    南東側 650km(350NM)
                  北西側 440km(240NM)

 
日本地図の大部分が赤と黄色で塗られている。全国各地に警報・注意報が出ている様子が一目瞭然である。我が家の近くには土砂災害危険区域があり、「避難準備」が出されている。隣家の方が雨合羽を用意していると、妻に話していた。ヒューヒュー、ゴーゴーと強風が吹きまくっていて恐ろしいが、まだ、雨はそれほど降っていない。私は、庭で栽培しているミニトマトで完熟しているのをせっせと収穫した。大ぶりのボール一杯になった。今年のトマトは酸味が強い。私は酸っぱいのが苦手だから、収穫はするが、食べるのは専ら妻である。
 
雨戸を閉め、懐中電灯も用意して万全を期しているが、台風の怖さに震えている。

安保法案が衆議院で野党欠席のまま可決された-

強力な台風11号が間もなく四国・近畿を直撃しようとしているいま、衆議院で、自民、公明、次世代の賛成多数で安保法案が可決された。民主、維新、共産、社民の各党の議員は採決の前に退席した。、生活の党は本会議に出席していなかった。

採決前の野党党首の反対演説は筋の通ったものだったが、安倍首相は、無表情で、時折は不敵な表情で、また、隣席の石破大臣と言葉を交わしながら、“なに言ってんだ、喋るだけしゃべっておけ”と腹の中で言っているかのように何の反応もせずにじっと時間の経つのを座して待っていた。

新聞各紙のネット上の速報もNHKのニュースでも、安保法案が衆議院で可決されたことから、参議院で可決も議決もされない場合であっても、憲法の「60日ルール」に従って再度衆議院で出席議員の3分の2で可決されれば、法案は成立することから、今国会での成立は確実になる、と報じている。60日=2か月先であるから、9月14日から会期末の9月27日までの間に安保法案は成立するということである。こういうときは憲法に従う、というよりは、憲法を利用するという小賢しくて陰湿で身勝手な体質がもろに現れている。

「法案成立が確実になる」という報道には違和感を覚える。もう、何を言っても、しても、無駄ですよ、と聞こえる。マスメディアが法案成立の見通しを政府に代わって/お先棒を担いで国民に広報しているかのようである。

民主主義の基本原則とは言え、ただただ、数の論理で事が進められている。違憲だろうと何だろうと、数で押しまくれば非も是になるという暴挙である。そこには、知性のかけらも、人間的な心情も、国民と国の将来に対する責任感も何も感じられない。

正当な手段・方法では対抗できない、効果がない、というときには、人間は絶望感に襲われるか、ルールを無視した暴挙に出る。ふつうの人間は後者を選ばないから、絶望感や無力感、虚無感に襲われて何もしなくなるか、無関心になる。かつて学生闘争に身を投じた学生たちが味わった挫折感もそうであろう。

しかし、相手の思う壺(つぼ)に陥らないためには、一時の感情に身を任せることなく、しつこくしつこく、澤地久枝女史が語る「絶望せずにモノ言う勇気を」もち続けることが何よりも大事である。日本人にもっとも欠けている勇気が、そうしたしつこさではないだろうか。そして、そのことが、これまでに多くの人を犠牲にし、心情の欠けた傲慢で無知蒙昧な輩どもの身勝手な独断専行を許してきたことを肝に銘じなければならないだろう。

2015年7月15日水曜日

安保法案が衆院特別委員会で強行採決された-同じ日に羽生棋聖が棋聖位8連覇を達成した

私にとって悲喜混在の一日であった。

安保法案が衆院特別委員会で強行採決された。とても悲しいことだ。そして、怒りに震える。全てがルールなしに進められている。独裁政権の専制政治である。テレビ各局がこぞって中継すると思っていたら、どこも中継していなかった。くだらない番組を垂れ流していた。日本のマスメディアのレベルを象徴している。

羽生棋聖(名人、王位、王座)が挑戦者の豊島七段を3勝1敗で退け、棋聖位8連覇(通算14期)を達成した。これは、故大山康晴十五世名人の7連覇を抜き、棋聖位では新記録である。羽生ファンの私にはとてもうれしいことだ。ルールをキチッと守り、運に左右されることなく、年齢や経験の長さを問わずに一人で嘘偽りのない真っ向勝負をするのが将棋で、そのことに感動を覚える。

数を頼りに、数の暴力で違憲行為を遮二無二進めている安倍首相と安倍内閣、自民党、公明党にとって、日本国民は愚かで従順で臆病者で御しやすい民族なのかもしれない。

大学改革とやらが進められているが、その構想の中には、日本国民の知性の向上などということについては一欠片(ひとかけら)も触れられていない。さもありなん、というところだ。

いま安保法案を絶対に阻止しなければ、日本は前近代国家の烙印を押される

安倍違憲内閣は、安保法案を強行採決しようとしている。トンデモナイ事態だ。

いま、安保法案を阻止しなければ、日本国民は、無知蒙昧で前近代的な思考しかできない政治家にいいように操られる底抜けにおめでたい民族として世界の笑いものになる。

かつて平和と護憲を唱っていた公明党も、好戦的な危ない政党に変身してしまった。

自衛隊員のリスクがどうのこうのとトンチンカンな議論がされていて、これも信じがたいことであるが、集団的自衛権が行使できるようになってもリスクは高くなることはないなどと言う輩がいる。集団的自衛権を行使するということは、自ら進んで戦争に荷担することである。安倍くんをはじめとする無知蒙昧な連中が自ら進んで戦争に出向くというわけではない。日本という国がである。

そのことは、戦争になっても、俺には/俺たちには絶対に危険は及ばないようにと、あれやこれやの手段を尽くすことができるあくどい連中を除いて、自衛隊員であろうとなかろうと、国民の誰にでも危険が降りかかるということだ。そんなことは、過去の戦争から否という程(いやというほど)学んでいるはずである。

いま、NO(ノー)を突きつけなければ、バカでおっちょこちょいの政治家の片棒を担いで、子々孫々(ししそんそん)まで重いツケを残すことになる。

2015年7月12日日曜日

安保法案が可決されるようでは日本は立憲主義国家ではないということになる

国会で自民党安倍内閣の安保法案と、民主党と維新の党が提出した領域警備法案とやらが国会で審議されているが、肝心要(かんじんかなめ)の違憲論議から安全保障論議(というより国防論議)に比重が移ってしまっている。

幕末から明治維新後しばらくの間の憲法が制定されていない中での国防論議のようだ。まるで、司馬遼太郎が『翔ぶが如く』で描いた前近代的な政治状況だ。

こんな法案を採決の俎上に載せようとする政治家は、立憲主義を否定する(というより、まったく理解していない/できない政治的に無知な)トンデモナイ輩(やから)だ。そうした輩が数を頼りにトンデモナイ法案を出して、国民の安全と平和な生活を守るためなどと全く心にもないことを屁理屈をこねて押し通そうとする。

無知蒙昧で気概だけある始末に負えない輩だ。そんな輩に日本を任せて、悲惨な経験から立ち直って営々と築き上げてきた立憲主義的平和国家を一夜にして崩壊させてなるものか。

2015年7月9日木曜日

新国立競技場の改築費に2520億円を投じるそうだ-お金持ち日本は無駄遣いしたい政治家が多い

テレビのニュースが伝えるところによれば、オリンピックのメイン競技場に予定されている新国立競技場の改築費に2,520億円を投じることが決まったそうだ。斬新なデザインだから、当初の予定より大幅に高額になっても仕方がないそうだ。

日本はお金持ちなんだね~。無駄遣いしたい政治家が沢山いて、財政健全化計画というのは、無駄遣いするために消費税を上げ、社会保障費を削るということと理解しているようだ。要するにバカなんだね。事業計画の見積もりもチャンとできずに、そんなに軽費がかかるんなら、そんなのはダメだ、と言えない。まあ、見栄っ張りのバカどもに任せている国民もバカということになっちゃうか。

そんなにお金をかけるんだから、後生大事にして、世界遺産かギネスに登録申請するんだろうな。

国民生活の安定と向上のためにすることは沢山あるだろうに、そっちは予算がないとか何とか言って出し渋り、見栄えだけに莫大な費用を出費することは厭わない。頭の構造がどうなっているのだろうか。世界の笑いものになる。

王位戦-羽生王位が第一局に勝利

昨年A級に昇級して八段になった28歳の若手強豪広瀬章人の挑戦を受けている第56期王位戦七番勝負の第1局で、後手番の羽生善治王位(名人、棋聖、王座)が122手で勝ち、王位防衛に幸先のよいスタートを切った。

上記の王位戦中継サイトと個人で配信している中継サイトの両方で熱戦を堪能した。羽生ファンの私には、先日4日に、これも若手(25歳)のホープ豊島将之七段の挑戦を受けている棋聖戦での勝利も合わせて、広瀬・豊島両挑戦者には申し訳ないが、実に愉快な気分である。

王位戦の第1局は難解な押し合いが続いたが、終盤にはじわじわと優勢になっていった。将棋ソフトの評価値も最終盤には4,000を超えるまでになった。圧勝ということだ。45歳の羽生4冠の棋力は凄まじいというほかはない。感動ものである。

2015年7月8日水曜日

高齢化と人口減少が進むのは豊かな社会の証拠

総務省が最近公表した住民基本台帳による人口統計によると、2015年1月1日現在の老年人口割合は25.60%だそうだ(下の表:総務省発表の資料の一部を加工)。人口のちょうど4分の1が65歳以上ということになる。平成25年から1.5%ポイント増加している。実数で言うと、185万6,582人の増加である。すごい勢いで増加している。急速な高齢化が進んでいることがわかる。

 
日本住民と外国人住民とを分けて見ると、日本住民の老年人口割合は25.90%で、外国住民のそれは6.98%と、両者に大きな差がある。外国人住民が日本の老年人口割合を、ほんの僅かではあるが、引き下げていることがわかる。老年人口とは逆に、年少人口と生産年齢人口では、外国人住民がそれらの割合を、これもほんの僅かではあるが、引き上げている。
 
日本における外国人住民の割合は2%未満に過ぎない(下の表:総務省発表の資料の一部)。そのことが、日本の年齢別人口構成に外国人住民が与える影響をごく僅かなものにしている。
 
日本人住民の人口は減少を続けており、この1年で27万1,058人も減少している。これに対して外国人住民は増加しているが、わずかに6万人強にすぎない。 
 
比較する資料がまちまちだが、日本に外国人住民の割合は、先進産業国の中では韓国と並んで極端に小さい(下の表:法務省入国管理局の資料)。
 
 


 どの国においても、外国人住民の年齢は総じて若く、出生率も高い。日本の高齢化が先進産業国の中でも急激で、出生率が低くて人口減少を続けているのは、他の先進産業国に比べて外国人住民の割合が極端に小さいからだろう。だからといって、移民の奨励などで外国人住民を増やせばいい、と言おうとしているわけではない。ただ、事実がそうなっているということだ。
 
30年くらい前のことだが、徳島の山村で、ある家の縁側に腰掛けて眼前の迫る杉山の美しさに見とれていたとき、「この頃では子どもの声も聞かないし、物干し竿に掛かっている洗濯物も、以前にはたくさん見かけた可愛らしい子どもの服なんか全然見なくなって、爺(じい)さん、婆(ばあ)さんの古くさい洗濯物ばかりだ。それに、子どもたちには、いい山だと言っても、山ばかり見て暮らせは言えないし、村を出て行ってしまうのも仕方ないことだよ」と話しかけられた。
 
若年人口の流出による過疎化が山村を急速に高齢化させていった例だが、それから30年を経た今日では、都市近郊の住宅団地でも、子どもの歓声や歌声が以前よりもずっと少なくなった。
 
その代わりと言うべきか、朝早くから元気に歩き回るお年寄りの姿が目立つようになった。そして、老男老女(とくに老女ら)のお喋(しゃべ)りの声が賑やかになった。が、それも、次第にあまり聞かれないようになってきた。老いが重なり、外でお喋りする体力も気力も低下したり、亡くなる人も増えてきたからだろう。
 
高齢化が進み、出生率が下がり、ひいては人口減少が進むのは、社会が豊かだからだ。社会が豊かになれば高齢化が進む。そして、中国のような一人っ子政策をしなくても、出生率は低下する。低い出生率が続けば高齢化が進む。低出生率と高齢化が続けば、死亡数が出生数を上回って人口は減少する(人口の自然減が進む)。
 
上で取り上げた総務省の資料によれば、2014年1月1日から12月31日までの1年間の出生者数は、日本人住民では100万3,554人と調査開始(昭和54年度)以降最少で、外国人住民では、1万4,449人と前年より増加している。死亡者数は、日本人住民では、127万311人と調査開始(昭和54年度)以降最多で、外国人住民では6,654人と前年より減少している。
 
その結果、日本人住民の自然増減数は、26万6,757人の減少になり、外国人住民は、7,795人の増加になっている。
 
先進産業国=豊かな社会は、どこでも日本と同じように高齢化が進んでおり、出生率も低い。その社会が豊かになれば、そうした現象が必然的に起こるということだ。そして、それは、避けられない現象であり、ふつうの成り行きなのである。
 
日本は、上で見たように、外国人住民の割合が極めて小さい。そして、外国人住民の転入-転出の差し引きは5万人程度であり、外国人住民の自然増を加えても、外国人住民の増加は年に5~6万人ほどである。要するに、日本は、日本人住民(母国人)がほとんどを占めていて、住民構成から言えば、いわば閉じられた社会である。その結果、日本は、「豊かな社会になれば高齢化と低出生率が進み、人口が減少する」という現象が典型的に現れている国なのである。
 
こう考えると、高齢化を止めることも、出生率を上げることも、人口減少を食い止めることも、とても難しいことがわかる。極論すれば、豊かさを追い求めようとする限り、そうしたことは不可能ということになる。
 
人口減少を食い止めようと出生率を上げるためのあれやこれやの政策が講じられてきた。しかし、どれもこれも功を奏していない。言ってみれば、無駄を繰り返し続けている。平成27年度予算でも、地方創成関連予算の中で、「若い世代の結婚・出産・子育ての希望をかなえる」予算として1,096億円が、「社会保障の充実」予算の中で、「子ども・子育て支援」予算が5,189億円が計上されている。
 
しかし、「高齢化・低出生率・人口減少」が豊かな社会にしっかりと組み込まれた遺伝子であるとすれば、突然変異を引き起こすくらいの強烈な刺激を与えるような少子化対策でなければ実効性は期待できないだろう。日本の将来を本当に考えるなら、安保法制などを議論したり、アジア開発銀行(ADB)と連携してアジアのインフラ整備に今後5年間で約1,100億ドル(約13兆2,000億円)を投じると大見得を切っている暇はないのではないだろうか。

2015年7月2日木曜日

ギリシャの経済危機と日本の債務残高-財政健全化計画と安保法案は矛盾する政策

ギリシャの経済危機が報じられている。

NHK News Web によれば、ギリシャが抱えている債務残高は、今年3月末時点で、日本円にして約42兆円(3130億ユーロ)に上る。債務の内訳は、IMF(国際通貨基金)に210億ユーロ余、ヨーロッパ中央銀行に270億ユーロ余、EU=ヨーロッパ連合に約1840億ユーロだ。

債務残高が大きいことに加えて、返済期日が迫っていることも、ギリシャ経済を危うくしている。これもNHK News Web によれば、IMFへの15億4000万ユーロ余(2070億円)の返済は期日の30日になっても実行されずに、債務「延滞国」扱いとなった。来月13日にも約4億5000万ユーロを返済しなければならない。加えて、14日には、およそ8400万ユーロ分の円建て国債、いわゆる「サムライ債」の償還期限を迎えるほか、20日には、ヨーロッパ中央銀行が保有する国債の償還で、およそ35億ユーロを返済しなければならない。さらに、来月中旬から下旬にかけて合わせて8億ユーロに上る国債の利払いも控えているほか、8月にもヨーロッパ中央銀行に対し、およそ32億ユーロの支払いもある。

要するに、ギリシャは借金まみれの国ということだが、日本も債務残高が1,000兆円を超えているのだから、借金まみれということでは同じだ(下の表:財務省資料)。


ギリシャと違うところは、債務のほとんどが国債と地方債で、それらを購入しているのがほとんど日本国内の金融機関であるということだ(下の表:日本銀行調査統計局2015年6月29日発行の参考表から抜粋して作成)。

(注1) 国債等は、「国庫短期証券」「国債・財融債」の合計。また、国債等は、一般政府(中央政府)のほか、公的金融機 
    関(財政融資資金)の発行分を含む。
(注2) 金融仲介機関は、預金取扱機関、保険・年金基金、その他金融仲介機関から構成されるが、*ではその他金融仲
    介機関のうち公的金融機関を除いている。
(注3) その他は、「非金融法人企業」「対家計民間非営利団体」「非仲介型金融機関」の合計。
中でも、中央銀行(日本銀行:日銀)の購入比率が26.5%と大きい。日本政府が国債を発行して、それを日銀が購入して、日本政府が日銀に金利を支払う。素人には、その仕組みがイマイチ理解できないが、政府が支払う金利は税金だから、結局は国民が金利を負担することになる。何か、他人の金を貸したり借りたりして政府と日銀がマネーゲームをして遊んでいるような感じだ。まあ、他人の金だから気にしないで動かせる、という感じかもしれない。本当は身内の大切な金を預かっているんだが、そういった感覚は全くないんだろうな。

外国や国際金融機関から多額の借金をしていれば、ギリシャのように返済期日までに約束通りに返済しなければ大事になるし、借金返済のために借金をするということも、そう簡単には許してくれないだろうが、国内で政府と貨幣を製造する中央銀行が、ナアナアでやっているから、多額の返済をしながら多額の借金をするという自転車操業が可能になっているのだろう。

財政健全化計画とやらで、2020年までに赤字から脱却すると大見得を切ったが、せいぜいそれくらいか、という感じだ。確実にできることは、消費税増税と社会保障費の削減だけで、経済成長戦略などは期待だけだから、債務残高が激減するわけでも国民生活が豊かになるわけでもない。

いつでも戦争ができる国にすることを熱望している内閣なら、当然のことながら軍事関係に予算をつぎ込もうとするだろう。艦船や航空機、車両、それらの燃料、諸々の軍事システム、人員等々にかかる費用は莫大になる。

エコだ省エネだとか何だかんだといっても、軍用の艦船や航空機、車両などに費やされる燃料が少しばかりでも増えれば、高度な技術を用いたハイブリッドや電気自動車で燃費を競い合っていても、それで節約できる石油の国内消費量などは何の効果もなくなる。常に臨戦態勢を整えておくということは、膨大な量のエネルギー源を消費することであり、究極の反エコ、反省エネであるということだ。

こう考えると、財政健全化計画と安保法案は、本来なら真っ向から対立する政策ということになる。そのことに知らんぷりして政策を進めようとする安倍内閣は国民を愚弄しているということである。そして、そのことに気づかない国民は、全くもっておめでたい、と言わざるを得ない。

2015年7月1日水曜日

安倍首相の戦後70年を記念する談話への関心

安倍首相の戦後70年を記念する談話に関心が高まっているが、たまたま興味深い記事を見つけた米国の学者8人、「私なら70年談話をこう語る」と題されたネット上の記事だ。その中で、『太平洋戦争終結70周年に考える-8人のスタンフォード研究者による終戦の日の談話-』という出版物が紹介されている(上記書名をクリックすれば全文が読める)。

これは、スタンフォード大学ショーレンスタイン・アジア太平洋研究センター とフリーマン・スポグリ国際研究所 に所属する8人の日本研究者が、自分が日本の首相だったら、どのような談話を発表するか、という観点から書かれたものだ。その中には、村山談話(1995年<平成7年>8月15日の戦後50周年記念式典に際 して、内閣総理大臣の村山富市が閣議決定に基づき発表した声明)と小泉談話( 2005年<平成17年>8月15日の戦後60周年記念式典に 際して、内閣総理大臣の小泉純一郎が閣議決定に基づき発表した声明)も収録されている。

詳細は上記の出版物に直接当たって欲しいが、私は、その内容もさることながら、これを企画した編者の星岳雄(ホシ・タケオ)氏とダニエル・スナイダー氏、そして、その求めに応じて“談話”を書いた8人の日本研究者(編者らを含む)のこのような希有と思われる試みに感心する。

首相談話で議論になることは、かつての日本の行為に対する反省と謝罪(お詫び)に関してである。戦後生まれの人間にとって、正直なところ、戦後50年も、60年も、そして70年も経って、なお、反省と謝罪が首相談話の重要課題になることにはとても違和感を覚える。もちろん、日本が犯した過去の不始末に目を瞑(つむ)るとか、反省や謝罪が必要ではないと言うのではない。これまで長い間、過去の不始末に決着をつけずに、いつまでも後世の人間に付けを残し続けるのか、ということである。

30年ほど前(戦後40年を経ていた)のことだが、仕事でマレーシアの開拓農村に滞在していたことがある。ゴムや油椰子(オイルパーム)の林に囲まれた方々(ほうぼう)の集落を回ったが、ある日、村の集会所のような所で昼食休憩をしていたときに、どことなく古めかしい小銃を持った中年の警備員が親しげに話しかけてきて、テーブルの向かいに座った。外国人が珍しかったようだ。テーブルの上に、ドンと小銃を置いたのには驚いた。

一緒にいたマレーシア人が、私が日本人で、仕事で来ていることを話した。警備員は、ますます親しげにあれこれと話し、聞いてきた。私はマレー語がわからなかったので、同席のマレーシア人の通訳で雑談していたのだが、彼が時折苦い顔をして警備員に話していたので、何を話しているのかを聞いたところ、日本の占領時代のことだという。日本兵の銃剣で追い立てられて椰子の木に登って逃げたという話を祖母から聞いたということだった。

警備員は、とりたてて私を責めているような感じはなかったが、ジッと見つめられたときには複雑な心境になった。いま、この村にいる日本人は私一人と思うと、日本を代表して謝罪しなければならないのか、とも思ったが、口から出たのは、「そんなことがありましたか。その兵隊はとても悪い兵隊でしたね。おばあさんは、とても恐ろしかったでしょうね、くやしかったでしょうね」、「でも、そのことに私が日本人だからといってここでお詫びしたりするつもりはありませんし、過去に悪行を犯した日本人と一緒にしてほしくはないです」というものだった。警備員もマレーシア人も、その後に交わした会話の中で、私の言ったことに理解してくれたようだった。彼は、重そうな小銃を手にすると、笑顔で去って行った。

同国人だからと言って、いまの世代が前の世代が犯した悪行の責めを負わなければならないなんてことはない。いつまで経っても反省と謝罪の議論が繰り返されているのは、悪行を働いた者たちの責任をハッキリさせることなく、皆が納得できるようなしっかりとした決着をつけないままにズルズルと先延ばして来たからである。

その間に、外向きには中途半端な反省やら謝罪やらでお茶を濁すようなことをし、内向きには自国民が無知蒙昧かのように幼稚な手練手管(てれんてくだ)を弄(ろう)して恰(あたか)も戦前回帰のような言動を繰り返してきた。そして、それに同調したり、指示を与えたりする輩が跋扈し、少なからぬ国民がそれを許してきた。

安倍首相の談話は閣議決定を経ることなく個人の談話として発表することも検討されているという。時の総理大臣が戦後70年を記念する談話を個人談話として発表することに何の意味があるのだろう。“ああ、首相談話ね。あれって、個人の単なる呟(つぶや)きでしょ。その程度のことは、みんなツイッターでやってるよ”ということだ。無責任きわまりない。それこそ国民を愚弄するものではないのか。愚民扱いである。国民は何と馬鹿にされていることか。そして、また、決着させることなく、日本は、日本人は「反省と謝罪」を歴史的遺物として後世に引き継いでいくことになる。

日本国憲法は、戦前の愚かな独善者が犯した悪行に対して内外に向けて反省と謝罪を表明したものであり、二度とそのような悪行を起こさないことを権力の地位に座る者に誓わしめたものである、と私は理解している。憲法の前文は次のように述べている。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」たのであり、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と宣言したのである。そう宣言した以上、この憲法に則(のっと)って、速やかに過去の悪行に対して国内外が納得しうるような決着を速やかに図るべきであった。そうすることなく、平和憲法を蔑(ないがし)ろにするような言動を相も変わらず繰り返している。

私は、現行の日本国憲法は、他の何にも増して日本人が誇りうる世界遺産に相応しいと思っている。憲法が世界遺産に登録されている例を知らないし、世界遺産の登録をめぐる運動やら駆け引きには胡散臭(うさんくさ)さやバカバカしさを感じてはいるが、日本政府が日本国憲法を大事にし、世界遺産に登録したいという態度を示せば、過去の悪行に対して本気になって決着をつけようとしていると国内外に理解してもらえるに違いない。

私の父は、終戦時に満州(中国東北部)でソ連軍の捕虜になり、シベリアに2年間抑留された。帰国できたが、抑留中の過酷な捕虜生活で体はボロボロになっていた。帰国後何年もしないうちに長い入院生活を余儀なくされ、多くを語ることなく亡くなった。誰からも、どこからも心底からの謝罪の言葉を受けたことはない。かつての戦争で犠牲になった途轍(とてつ)もない多くの人々もそうだろう。

上辺だけの、形だけの哀悼の意らしきもの、謝罪らしきもので取り繕われてきた。それでも日本人は、自国の権力者に対して類い希なる寛容の精神を示してきた。そのことにいい気になって/図に乗って、過去を清算する努力を怠り、付けを残したまま、時には過去の過ちを美化し、再び過ちを犯そうとするかのような言動を繰り返している。そして、そうしたことを支持する輩が欲得尽(よくとくずく)で群がっている。

もう、反省と謝罪の議論で振り回されるのはご免である。過去を清算する決意を表明し、日本が真の平和国家として世界から尊敬され、羨望の的になれるような首相談話であることを願わずにはいられない。