2014年8月27日水曜日

理研の会見を視聴した-相変わらずのおふざけで世界に大恥をさらして平気な神経に呆れた

またまた腹立たしい会見を4時間も視聴してしまった。

午後1時半から始まった会見の第1部は、「研究不正再発防止をはじめとする高い規範の再生のためのアクションプラン」についての説明だった。最初に野依理事長が挨拶に立って、そのプランの意義について語ったが、まるで他人事のようで、自らの責任については何も言及しなかった。呆れてものが言えない。同席の川合、坪井の両理事も、自分たちが所属する組織の問題という自覚がないのではないかと思うような無責任な態度に終始していた。とくに、野依理事長は、もう完全に、知識人の体(てい)を成していなかった。くどくどと、わかりきったことを、しかも、自分がしていることと、いま話していることの矛盾を少しもわかっていないで口をとんがらせて話していた。見ていて恥ずかしかった。早くお引き取り願いたいものである。

これまで明々白々な不正行為に対して何もアクションを起こさなかったのに、研究不正再発防止も何もあったものではない。「高い規範の再生」などという言葉が、一体、どこから出てくるのか。笑ってしまう。あきれてしまう。

不正行為をきっちりと処分してこそ、不正再発防止を口にすることが許される。いまや理研はアノミー(無規範)状態である。不正を処分できずに、責任も取らない。そんな人間が、「高い規範の再生」を恥も外聞もなく口にする。不正を放置しておいて、これから調査を進めることをアクションプランに入れている。呆れてものが言えない。

第2部では丹羽博士の検証実験で、Nature論文に発表した方法ではSTAP細胞はできないことが明らかになった。コツや手技の上手下手の問題を残しているようなことを言って、それが小保方晴子に実験をさせる理由だそうだが、なんで、そんなに回りくどい無駄なことをするのか理解に苦しむ。異常だ。

更に条件を変えて実験を続けるそうだが、それは検証実験ではなくて、新規の実験だろう。新規に実験することは何の批判も受けないだろうが、それには、それまでの不正行為に関わる問題に決着をつけてからだろう。

今回の会見も、これまで同様に、遊びかおふざけの域を出ない。4時間もかけて行われた2部構成の今回の会見で、理研は、予算だけは潤沢に与えられていて外見は立派だが、組織の中身はと言えば、理念も知性も常識もない連中が牛耳っているとんでもない組織であることを自ら堂々と公言したことになる。世界の一流研究機関に伍する科学研究機関とは到底言えないことを世界に強烈にアピールしたということである。それは、まさに世界に大恥をさらしたことであり、そうしたことを平気でやれる神経に呆れたというか、そうした組織が大手を振っていることに恐怖さえ感じる。

理研なんかなくても、日本の科学研究が世界に後れを取るなんてことはない。なにを勘違いしているのか。日本が真に科学立国になるためには、こんなどうしようもない組織をまずは解体・廃止することであろう。そうしたことをキチッとできないのなら、その程度の国として世界は見るだろう。ノーベル賞受賞者だからと無条件にただただありがたがって無為無策の理事長が居座ることを許している国を世界は尊敬などしないであろうし、日本は依然として文明が開化していない前近代的な後進国と嘲(あざけ)るだろう。恥ずかしいことである。

2014年8月24日日曜日

STAP細胞問題と下書き博士論文問題は、いつになったら決着がつくのか-おふざけは大概にしてほしい

小保方晴子嬢をめぐる2つの処分問題-STAP細胞論文の不正行為に対する処分と剽窃満杯の下書き博士論文で不正に博士の学位を取得したことに対する処分-の決着がまだついていない。一体全体、どうなっているのか。

理研の発生・再生科学総合研究センター(Center for Developmental Biology: CDB)の「センター長戦略プログラム」のページには、以下のように、相変わらず、「細胞リプログラミング研究ユニット 小保方 晴子」と記載されている。


その中身を見ると、以下のように、「本研究ユニットは研究活動停止中です」とある。

 
センター長戦略プログラムの一つとして残っていて、小保方嬢はユニットリーダーとして在籍しているが、活動は停止中だというのである。活動していなくても在籍しているのだから給料は出ているのだろう。しかも、センター長戦略プログラムということだから、センター長が責任を負う直轄プログラムの研究ニットのリーダーとしての待遇を得ているということである。
 
上で最初に掲げた図にも見えるが、センター長戦略プログラムの中には、STAP細胞の再現実験を行っている丹羽仁史博士の「多能性幹細胞研究プロジェクト」もある。「lab web」の中の「protocol」をクリックすると、以下のようなページが現れる。
 
 
 赤字で、NEW!と書かれているところに、「Essential technical tips for STAP cell conversion culture from somatic cells」というのがある。これは、STAP論文が発表されてから、国内外でSTAP細胞の再現ができないという批判に対して丹羽博士が責任著者になって2014年3⽉5⽇にNatureに発表し、その後、2014年7月3日に取り下げられたものである。にもかかわらず、いまでも、丹羽プロジェクトのサイトでは、NEW!として掲載されていることは何でだろう。単に修正あるいは削除し忘れたのか、そのやりかたで再現実験しているからなのか、それとも、絶対的な自信を示すためなのか。
 
「細胞リプログラミング研究ユニット」のページにしろ「多能性幹細胞研究プロジェクト」のページにしろ、STAP細胞問題に関してCDBおよび理研本体も、何が問題であり、どのような解決が図られなければならないかを真剣に、本気になって考えているとは到底思えない内容である。
 
早稲田大学も同様である。大げさな記者会見を開いて前代未聞の調査報告を公表した後に、「本学は、3月31日に設置した「先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」(以下、委員会)より、本日、調査報告書をご提出いただきました。報告書の内容につきましてはこれから早急に精読した上で、委員会の報告結果を十分に尊重しながら、本学としての対応を決定してまいりたいと存じます」という早稲田大学鎌田薫総長のコメントを7月19日に出して以降、学内外からの多くの批判にも一切答えることをしていない。早急に精読などしていないのではないかと勘ぐってしまう。
 
いつになったら対応を決定するというのだろうか。誰にも明らかな不正行為満載の下書き論文と杜撰な学位審査に対してを処分を下すことに、何でそんなに時間がかかるのか不思議で仕方がない。しかも、早稲田大学のウェブサイトの総長メッセージのページでは、「早稲田大学は、教職員・学生・校友が一丸となって、国際社会において確固たる存在感を示すことのできる大学となることを目指すとともに、深い学識と豊かな人間性を備えた有為の人材を地球上の至る所に送り出して参ります」と高らかに唱っている。私は早稲田大学とは何の関係もない人間だが、学位論文の不正に対して適切に処分を下せない総長の言葉としては恥も外聞もなく、よくそんなことをヌケヌケと言えるものだと、誠に恥ずかしい思いがする。
 
STAP細胞問題と下書き博士論文問題の対応には、“遊び”というか“おふざけ”というか、真剣みが感じられない下品な芸能人のバカげた言動が重なってしまう。知性の府と思っていた所が、実は知性のかけらもない人間が知性人ごっこをしていたにすぎなかったということなのか。もう、そんなおふざけは大概にしてほしいものだ。
 

2014年8月23日土曜日

床屋さんの老人割引

妻と買い物に出かけた折に、偶々(たまたま)車中から「ヘアーカット 大人1,500円」の看板を掲げた床屋が見えた。これも、偶々、今朝、「床屋に行った方がいいじゃないの」と言っていた妻は、すぐに看板を指さして、「行ってきたら」と言った。そこで、行き先のスーパーが近かったので、そこの駐車場に車を入れて、私は床屋へ、妻はスーパーへということになった。

床屋に入ると、中は広くて理容椅子が10台もあり、従業員も5~6人はいただろうか。すぐに、「5番へどうぞ」と声をかけられたので、見渡すと、それぞれの倚子の前にある鏡の横に大きな番号が書かれていた。座るとすぐに、「どのようにしますか」と聞かれたので、「全体に短くして、後ろは刈り上げて下さい」と頼んだ。頭頂部を中心に髪がすっかり薄くなってしまった私は、正直言って、「どのようにしますか」と尋ねられても答えようがないのだが、まさか、「床屋に来るまでもないんですがね」とは言えないので、散髪しがいがあると思われるほどに髪の毛が残っている後頭部を刈り上げてもらうことにしているのである。「全体に短くして」というのは、単なる枕詞(まくらことば)である。

ひげ剃りは料金に含まれているのだが、床屋で髭や顔を剃ってもらったり、頭を洗ってもらうのは好きではないので、それらを全部断って、散髪(カット)だけにしてもらった。

バリカンやハサミを使って手際よくサッサッと散髪していく。ものの10分もかからなかったんじゃないだろうか。大きな鏡を持ってきて頭の後ろに掲げて、「どうですか」と聞いてきた。前の大鏡に後頭部が写るわけだが、近眼で眼鏡を外しているので、ぼんやりとしか見えない。まあ、いつものことだが、眼鏡をかけてくれることもないので、「ええ、いいですね」、なんて適当に言ってしまう。すると、「では」と言って、別の人を呼んで、「ひげ剃りや顔そりはなし」と告げた。散髪する人と剃る人は別の人が行うのが、低価格床屋の方法のようだ。分業だな。おそらく、散髪技術が未熟な人や無資格者が剃ったり洗ったりするんだろう。鬢長(びんちょう)を整えたり首筋を剃ったり、耳毛カッターで耳たぶに生えている毛を除去してくれた後にドライヤーをかけながらブラシで髪を整え、最後にハサミで余分な毛をちょんちょんと切って終了。

倚子から立ち上がる際に、鏡の前の箱に入っていたビニールでカバーされた名刺大のカードを指して、「使いますか」と聞かれた。見ると赤字で「200円引き」と書かれている。老人割引カードである。即座に、「はい。60歳以上です」と答えて、それをもってレジへ足を運ぶ。1,300円に8%の消費税104円を足して、1,404円。クレジットカードが使えるというのでカード払い。何か、すごく得した気分で、年金生活者にはとてもうれしい。

気分良く店を出る。入店してから15~20分くらいじゃなかったろうか。妻に電話すると、「えっ、もう終わったの」と驚いていた。ずっとずっと昔に、アメリカ東部の小さな町でホームステイしていたとき、ホストファミリーに連れていかれた小さな理美容室で、女性の理美容師が、ハサミと櫛だけで、それこそ10分もかからずにパパッと散髪し、洗髪もひげ剃りも何もなくて完了を告げられて驚いたことがある。それまで日本ではそんな経験が無かったからだ。ホストファミリーに聞くと、それがふつうのようだった。日本では、床屋に行けば、待ち時間も含めると1~2時間かかっていたのがふつうだった。

料金は忘れてしまったが、ものすごく安いと思ったことだけは記憶している。たぶん、いまの感覚で言えば、1,000円もしなかったと思う。ひょっとしたら、500円ほどだったかもしれない。ホストファミリーは国際的な社会奉仕団体の会員だったことと、その地域には、その理美容室しかなかったから、特別安い理美容室に連れて行ってくれたわけではなく、ふだんから利用している店だった。当時でも、日本では、床屋に行けばけっこう金がかかったから、アメリカでの散髪が安くて早いことに驚いたり感心したりした。

夫婦で床屋をしている親戚がいる。ずっと以前のことだが、料金が何千円もするので、「もっと安くすれば、お客さんを大勢呼べるのに」と言ったところ、「組合で料金が決められていて、その料金でないと店を続けられない」というようなことを言っていた。いつ頃からかわからないが、あちこちで低価格床屋を目にするようになった。それ以来、通勤途上や出張先でも、目にすると入って散髪してきた。これもかなり前のことだが、東京で1,000円の表示を見て、それほど髪の毛が伸びていたわけではないが、何となくうれしくなって入ってしまったことがある。

それとは反対に、これもずっと以前のことだが、海外出張の際に、出発時刻まで大分時間があったので、成田空港内の床屋で散髪したときに、たしか4,500円だったと思うが、料金の高さにビックリしてしまったばかりではなく、えらい後悔をしたことがある。

バングラデシュやマレーシアの農村で、道ばたで営業している床屋に散髪してもらったことも何回かある。木やプラスチックの倚子に座って、前の道を横切る人や車や牛を見ながらの散髪である。これも手際よく、サッサカ、サッサカと散髪してくれる。私はしてもらったことはないが、ひげ剃りもする。ハサミやカミソリは手入れがいいのか、路上の床屋とは思えないほどの切れ味だ。もちろん、料金は超格安。散髪技術も悪くはない。気に入らなかったことは一度もない。

床屋という言葉は、いまは、あまり使わないのかもしれないが、私にとっては、理容室や理髪店、ヘアサロンなどよりもしっくりする。床屋さんとは言えるが、理容室さんや理髪店さんとは言いにくい。ましては、ヘアサロンさんでは気持ち悪い。老人割引で散髪してくれる優しいお店は床屋さんと呼ぶのが相応しいと私は思っている。

2014年8月21日木曜日

広島の土砂災害が教えていること-災害の多くは人災だ

広島の土砂災害の映像を見て、またか、と思った。直接の原因は集中豪雨であるが、過去にも集中豪雨による土砂災害は全国各地で何度も繰り返されてきた。

何度も繰り返されてきたということは、それが自然現象によるものだとしても、もはや自然災害と呼ぶことはできないだろう。人災であるということだ。

危険なところには住まない、住まわせないというのが、防災の大原則である。住まない、というのは住む側としての個人の判断と責任に関わることであり、住まわせない、というのは政治や行政の判断と責任に関わることである。この両者の判断と責任は同列に論じられるべきものではなく、政治や行政の判断と責任の方がより重要であると私は考える。要するに、災害の危険なところに住むことを政治や行政が許していることが、同じような災害を繰り返し発生させている、ということである。だから人災だと言いたいのである。

そうは言っても、と反論がすぐに聞こえてきそうだ。

日本国憲法第22条には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と居住と移転の自由が記されている。もちろん、他人の土地に無断で住宅を建てたり、市街化調整区域など居住用住宅の建設が規制されているところには自由に住んだり、移転することはできないが、基本的には、どこに住もうが本人の自由であり、制約されることはない。たとえ、そこが災害の危険がある場所であったとしても、強権的に居住を禁止することは基本的人権を侵害することになり、憲法違反になるという論理も成り立つ。だから、そこに住むか住まないかは個人の判断と責任に委ねられる。災害の危険がある場所に住んでいることも、危険を承知か否かは別にしても、居住の自由の観点からは非難される筋合いではないということになる。

とはいうものの、危険を知っていて知らんぷりをする、というのはあまりにも人道にもとる行為である。土砂災害に関しては、「宅地造成に伴う崖崩れ又は土砂の流出による災害の防止のため必要な規制を行うことにより、国民の生命及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉に寄与することを目的とする」宅地造成等規制法が既に昭和36年に制定されている。この法律が制定されたきっかけは、昭和36年梅雨前線豪雨である。全国で、死者302名、行方不明者55名、負傷者1,320名、住家全壊1,758棟、半壊1,908棟、床上浸水73,126棟、床下浸水341,236棟など、大きな被害が発生した。

しかし、この法律が施行されて以降も、土砂災害による人命や財産の被害は後を絶たない。今回の広島の土砂災害でもそうだが、災害現場の映像を見れば、何でこんなところに、こんなにたくさんの住宅が、という印象を持つ人も多いのではないだろうか。確かに、災害が発生する前には、そうしたところは、地価も安くて眺望も良い快適な環境であったであろう。開発業者や住宅販売会社にとっては利益率が高く、購入者にとっては買い得感が高かったのかもしれない。

そうした場所でも、昔から住んでいて種々の規制の適用を受けない場所を除けば、宅地を造成する際には、上記の宅地造成等規制法などによってそれなりの防災対策が施されて都道府県等の認可を得ているわけだから、災害が生じたことは、それらの対策や認可に誤りがあったということである。

ところが、こういうときには、いつも、予想を上回るとか想定外の、ということが言われて、対策や認可の誤りとはしない。しかし、予想を上回るとか想定外の、というのは、予想や想定が適切ではなかったということであり、人智が及ばない現象が生じたということではない。

災害発生の危険があるとされる地域に十分な防災対策を施そうとすれば、そのための費用は莫大になる。その費用を地価に反映させようとすれば、おそらく、都心の一等地と同じとまでは言わないが、既成市街地の地価と同じか、それを上回るくらいになるだろう。開発業者や住宅販売会社はそこまでして宅地を造成しようとは考えないだろう。造成しても多くの人が購入できる価格で提供できないからである。

防災対策を施して造成しても販売できる価格を設定できる限りでの防災対策にとどめているから宅地が造成され、住宅が販売されているのである。豪雨の予想や土砂流出の想定も、その限りでの予想や想定ということになり、認可もその想定内での認可である。

ひとたび災害が発生すれば、尊い人命が失われ、物的損害を被ることになる。被災者の生活は破壊される。災害救助と復旧活動に莫大な時間と労力、費用が投入される。おそらく、本気になって十分な防災対策を講じたとしたら要したであろう費用と同じか、それを上回る費用が生じる。もっと、ちゃんと防災対策をしておけば良かったと思うことになるだろう。

余談であるが、かつて仕事でバングラデシュに滞在したときにサイクロン災害に遭遇した。私自身に被害はなかったが、土で固められた堤防の上や大河の中に残る中州など危険地域に建っていた竹で作られたバラックに住んでいた人々の大勢が命を落とした。居住してはいけない場所を不法に占拠して住んでいたのだが、中央省庁の役人が言うには、「そうした人々を排除することは簡単だが、そんなことをすれば彼らは住むところを失う」ということであった。途上国の防災対策の難しさを知った思いであったが、いまの、日本は、そうした事情からではなく、災害危険地域に多くの人が住んでいる。

我が家にも土砂災害の危険地域を色塗りしたハザードマップが配られているが、危険地域を知ったとしても、それが防災にどれほど役に立つかは疑問である。危険地域や、その周辺に住む人にとって避難の参考にはなるかもしれないが、住宅を失い、そこに住めなくなってしまえば、生活は破壊される。事前に避難できて命が助かっただけでも幸いだとは喜べないだろう。

こと、防災に関しては、本気で進めようとするならば、危険なところには住まわせないことと、宅地を開発する場合には最悪の事態を想定して、それに十分に対応できるだけの防災対策を施すか、自然が猛威を振るっても被害が生じないようにしなければ絶対に許可しないことを強権的に進めるしかない。中途半端な対策は無駄である。

日本は宅地に適した平地が少ないと言われて、急傾斜地や山裾、河川流域など災害の危険が想定される場所に多くの宅地を造成してきた。そうした宅地は、どこもかしこも中途半端な防災対策を施しただけである。同じような災害が繰り返されていることは人災であることをしっかりと認識し、様々な言い訳や理屈で糊塗することなく、本気を出して対策に取り組まなければ悲惨な災害を繰り返すだけになる。

2014年8月19日火曜日

どうしようもないテレビ番組がなんて多いことか

退職してからテレビに接する時間が増えた。面白くて感心する番組も少なくないが、どうしようもない番組が実に多いことかと驚いている。

「なんだ、この番組は。ゾロゾロとわけがわからないような連中がたくさん出ていて、くだらん」と言うと、「見なければいいのに」と娘の一言。たしかに。視なければ、そんな批判めいた言葉も出てこない。うん、正論だ。

でも、そんな番組がたくさんあって、いつもいつも放映されているのだから、視聴者が大勢いるということなのだろう。でなければスポンサーがつかずに番組も制作されないはずだ。

では、そんな大勢の視聴者って、どんな人たちか、ということになるが、まず第一に、テレビを視る時間があって、第二に、そうした番組に興味・関心をもっていて、心底楽しめる人、ということであろう。これでは至極当然のことで面白くも何ともない。

仕事で心身共に疲れていて、息抜きやストレス発散のためにバカバカしい番組とはわかっていても、あえてそうした番組を視聴している人もいるかもしれない。番組の内容自体には関係なく登場する「タレントのないタレント」が好きだから視ている人もいるかもしれない。病気やケガで長く床に臥(ふ)せっている人にとっても、いっとき気を紛らわすには良いのかもしれない。

聞くところによると、そんな番組に出ているだけでも何千万円とか億を超す収入を得ているらしい。どんな仕事にも、それなりの苦労があり、努力が必要だが、それに見合う報酬ということになると、どうなんだろうか、それよりも遙かに低い収入で世のため人のために働いている人たちが多いことを考えると、大いに矛盾を感じてしまう。

そして、そんな番組のスポンサーになる企業がこんなにもあることに驚くというか呆れるというか腹が立つのは私だけだろうか。近年では、企業の社会貢献とやらで色々とわけのわからないことをやっているようだが、優れた番組のスポンサーにはなっても、くだらん番組のスポンサーには決してならないことも立派な社会貢献だと思うのだが、どうしようもない番組がたくさん作られ、そうした番組に出演するどうしようもない「タレントのないタレント」が理解しがたい高収入を得ているのは、そうした番組に大金を出すスポンサーがいるからである。

かつて、テレビ番組の低俗性に対する批判として一億総白痴化と言われたことがある。テレビ放送が一般化し、放送形態も多様化してものすごい数のチャンネルがある今日では、テレビによって国民が皆バカになったとは誰も思っていないだろうから、そんな言葉での批判は意味のないことであるが、番組の制作担当者や放送局、スポンサーは、もうちょっと、考えてほしいと思う。

私は、何をテレビに求めているのか、などと自問することが多くなったが、さすがテレビ局、さすがタレント、さすがこの会社がスポンサー、といったような番組を楽しみたいものである。

2014年8月17日日曜日

夏の終わりを告げるツクツクボウシが鳴いた

きょう、17日、今夏初めて、ツクツクボウシが鳴くのを聞いた。

毎年のことだが、クマゼミ、アブラゼミの喧噪が終わりに近づくのと交代にツクツクボウシが鳴き出す。若い頃は夏が過ぎる合図のようで、とても残念な気がしたものだが、いまでは、ほー、ツクツクボウシが鳴き出したか、と言うくらいの感慨しかない。寂しいと言えば寂しいことだが、いつまでも、夏・夏・夏・夏、ココナッツ、とは言ってられない年になった、ということなんだろう。

昔は、お盆を過ぎたら(お盆に入ったらだったかもしれない)蝉を捕ったらいけない、なんて言われていたけど、けっこう、ツクツクボウシを捕った記憶がある。

そのうち、カナカナカナという声もしてくるだろう。夏風邪が、まだ完全に治っていないので、くしゃみやら咳やら鼻水、微熱で絶不調が続いている。

2014年8月16日土曜日

夏風邪をひいてしまって、ひどいめにあった

妻の風邪がうつったようで、急ぎの用があって15日までに済ませなければならなかったのに、久しぶりに何日も寝込んでしまった。

12日に微熱と頭痛、気管支炎で調子が悪いな、と思っていたら、13日からは37.6℃の高熱が続いてダウンしてしまった。ガラガラ声になり、食欲もなくなり、丸3日間、水枕や氷嚢の世話になった。保冷剤を首回りに当てたりと解熱を試みたが一向に熱が下がらず、かといって大汗をかくでもなく、うつらうつらと布団で過ごした。

市販の感冒薬や解熱剤も効かずに、昼夜(ひるよる)なく、だるさと、時折、ピシッ、ツンッ、シクッとくる頭痛に悩まされ続けた。

今朝7時頃に飲んだ解熱・鎮痛剤が効いたようで、一眠りしたら若干熱が下がったようなので、近くの内科医院に妻に車で連れて行ってもらった。軽快してから医者に行くというのも変なことだが、少しでも動くのが辛かったからだ。昔なら、すぐに往診を頼むところだったが、いまは、往診してくれるお医者さんも少ないのだろう。往診なんて考えもしなかった。

診察してもらい、解熱剤や胃薬等の4種類の薬を4日分処方してもらった。国保で1,050円だった。処方箋を隣接の薬局へ持っていき、薬代金710円を支払った。

夏風邪はバカがひく、というが、不規則な生活が続いていたことから、感染して、回復も遅くなったのだろう。体調管理がちゃんとできないバカ者が夏に風邪をひいいてしまったというお粗末の一席である。

2014年8月13日水曜日

日本学生支援機構の暴挙-奨学金を返済しない人を訴える件数が急増している

報道によれば日本学生支援機構が2012年度に奨学金を返さない人に対して起こした訴訟は6,193件にのぼり、8年前の100倍を超えたという。すさまじい勢いで増加している。

借りたものを返さなければ訴えられるのは当然であるが、こと奨学金に関しては、そんな一般常識で納得がいくようなものではなさそうである。

日本学生支援機構というのは、かつての日本育英会を母体として、平成16(2004)年に発足した。その事業の中心は育英会と同様に奨学金の貸与である。私も、学部、大学院を通じて育英会の奨学金を借りていた。当時は、学部8,000円/月(自宅外。自宅生は3,000円/月)、修士課程23,000円/月、博士課程33,000円/月だったと記憶している。国立大学の授業料は月1,000円だったから、学部でさえ、授業料の8倍あったことになる。学生寮の費用が3食付きで3,000円~4,000円だったから、仕送りなしでアルバイトもしなくても、授業料を含めても奨学金だけで大学生活が送れたことになる。実際、私の回りには、そんな学生がたくさんいた。食事付きで1日1,000円というのが最も率の良いアルバイトだった。

家庭教師をすれば、月に3,000円くらいにはなった。私も、一時期、中学生と高校生の姉弟に体育の実技指導も含めて全科目を教えたことがある。いま考えると恐ろしいことだが、高校生の姉の方がクラスでの順位が急上昇してボーナスをもらったことがあった。ところが、演劇青年だった私が公演の準備で忙しくなった時期に何回か家庭教師を休んだところ、クラスでの順位が急降下して、以前の順位に戻ってしまった。もともとの成績順位が下3分の1だったから、ちょっとテストの点がよくなれば成績が急上昇したのだが、成績の急降下はひとえに家庭教師を休んだ私の責任ということになって、即刻クビになってしまった。演劇の公演が大成功だったので、そのときは、まあ仕方がないと諦めたが、もう二度と家庭教師はするまいと思って、以来、家庭教師はしたことがなかった。

話がそれてしまったが、奨学金を借りても、教育職や研究職に10年以上(だったと思うが15年以上だったか)勤務すれば返済免除になった。私の友人・知人にも、そうした特典の恩恵に与った者も何人かいる。もちろん、利子付きではなかったし、在学中に借りた奨学金の総額も、学部4年間で384,000円、修士課程2年間で552,000円、博士課程3年間で1,188,000円だから、学部から博士課程まで借りても総額は2,124,000円であった。

現在はどうかといえば、日本学生支援機構のウェブ上にある奨学金貸与・変換シミュレーションで計算した結果を表にまとめてみたら以下のようになった。第一種奨学金は利子なし奨学金で、第二種奨学金は利子つき奨学金である。ここでは利子を上限の年利3%として計算している。実際にはこれまでの金利は1.9%が最大で、近年では1%前後である。貸与額が第一種と第二種で違っているのは、このシミュレーションでは、そうした金額しか選択できなくなっているからである。



利子無しの第一種奨学金を月51,000円(なんで中途半端な額を選択させるのか不明だが)を4年間借りると、貸与総額は2,448,000円となり、これを180回(15年間)で返済するとなると、毎月13,600円になる。2年間の修士課程で月に88,000円借りると、総額は2,112,000円で、毎月12,571円を168回 (14年 )にわたって返済することになる。3年間博士課程で毎月122,000円を借りると総額は4,392,000円で、毎月18,300円を240回(20年)にわたって返済することになる。合計すると貸与総額は8,952,000円にも上る。
 
第二種奨学金であれば利子が加わるから返済総額は1千万円を超える。ビックリである。よくもそんな大金を学生という働いてもいない者に貸すかと日本学生支援機構は太っ腹のようにも見えるが、しっかりと連帯保証人を立てさせていて、返済が滞ってしまうと裁判で取りたてるというのであるから、低利で貸し付けるとはいえ一般の金貸しと異なるところはない。
 
貸与額や返済総額がこんなに高額になった背景には、日本学生支援機構になってから、奨学金の元になる金=原資の出所(でどころ)が多様になって、貸与総額が大幅に増加したことによる。その多くは利子付き奨学金である。

日本学生支援機構の年報平成24年度版に掲載されている「奨学資金原資内訳」の表に基づいて図を作成してみた。第一種奨学金の原資2,876億4,026万円と第二種奨学金の原資8,139億1,494万円を併せると1兆1千億円を超えるが、そのうちの74%は第二種奨学金の原資である。

 
第一種奨学金の原資のうちで返還金等充当分は1,884億4,652万円で、原資の66%を占めている。残りの34%は国庫からの交付金と借入金である。借入金ということだから、日本学生支援機構は、国から借金して奨学金を貸与しているということである。


「日本学生支援債権」、「財政融資資金借入金」、民間資金借入金」、「返還金等充当分」を合計すると、1兆8,045億2,694万円になるが、その中から財政融資資金等償還分9,906億1,200万円が差し引かれて8139億1494万円が平成24年度の原資になる。上の図の各原資の割合は、財政融資資金等の償還分を差し引く前の1兆8,045億2,694万円に対する割合である。償還分9,906億1,200万円は、当初原資1兆8,045億2,694万円の54.9%に当たる。
第一種と第二種を合わせると、返還金等の充当分は原資総額の49.6%である。日本学生支援機構は、「奨学生が卒業後に返還するお金が、次の世代の奨学金として使われます。 日本学生支援機構の奨学金は、先輩から後輩へとリレーされていくものです」と、あたかも奨学金は貸与、返還のサイクルで100%まかなわれているかのように説明しているが、実際には、返還金が奨学金に充当される割合は半分程度である。
 
第二種奨学金に関しては、返還金等充当分は3576億2,194万円である。原資のわずか20%にすぎない。残りの80%のうち、最も大きいのは「財政融資資金借入金」であり、8,203億円である。全体の45%を占めている。
 
財政融資というのは、財政投融資の3つの手法-財政融資、産業投資、政府保証-のひとつで、財務省の財政投融資に関するページでは次のように説明している。桃色部分は私が色づけしたものである。奨学金の原資として融資することは、「確実かつ有利な運用」になっているということである。
 
 財政融資とは、財政融資資金を活用し、政策金融機関、地方公共団体、独立行政法人などを通じて政策的に必要な分野に対して行う融資です。この財政融資資金は国債の一種である財投債の発行により調達された資金や、政府の特別会計から預託された積立金・余裕金などが原資となっています。平成13年度の財政投融資改革以前の資金運用部資金(現在の財政融資資金)は郵便貯金・年金積立金からの預託金が原資の大部分を占めていましたが、財政投融資改革により郵貯・年金との制度的なつながりは解消され、現在は財投債が主な資金調達手段となっています。
  財政融資は、国の信用に基づき最も有利な条件で資金調達しているため、長期・固定・低利での資金供給が可能であるという特徴があります。また、財政融資資金は財政投融資特別会計の財政融資資金勘定において経理されていますが、財政投融資特別会計の財政融資資金勘定は一般会計からの繰入れを行わない独立採算で運営されているため、確実かつ有利な運用を行うことが求められています。
 
考えてみれば、奨学金の原資として融資するということは、確かに確実かつ有利な運用と言える。融資元にすれば、一人当たりの融資額はたいしたことはないが、連帯保証人を立てさせて膨大な人数に奨学金として融資することは、他の融資先に比べて遙かにリスクが小さいと言えるだろう。
 
財務省の資料を用いて平成26年度の財政融資計画を一覧表にしてみた。
 
 
日本学生支援機構への融資額8,596億円は、財政融資総額11兆7,616億円のうちの7.31%にすぎないが、22機関に中で堂々の第3位に位置している。上位の2機関-日本政策金融公庫と地方公共団体-は別格であるので、それらを除くと、諸種の独立行政法人や金融機関の中ではダントツである。要するに、日本学生支援機構は融資先として悪くはないということである。そうであれば、融資額を増額することに躊躇する必要はないということになり、結果的に奨学生をどんどん増やすことが可能になる。
 
民間資金借入金」は、民間金融機関からの借入金である。都市銀行や地方銀行、農協など合わせて93の金融機関が入札に参加している。借入金利は、ほほ0.1%である。
 
日本学生支援債権」は、財政投融資を利用している日本学生支援機構が発行する財投機関債のことで、年に数回発行されている。平成26年6月の発行で35回目となる。金利は、0.152%である(平成24年2月の第26回発行から第35回発行までの10回の平均は0.172%である)。証券会社を会場にして投資家向けの説明会なども積極的に行っており、資金調達に熱心である。そうした説明の中では、日本学生支援債権は、格付投資情報センター(R&I)の格付でAA、日本格付研究所(JCR)の格付ではAA+と高格付であり、日銀適格担保要件も充足していると、優良商品であることも強調されている。平成26年6月には、第36回日本学生支援債券発行のため受託会社として、三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社、みずほ証券株式会社、ゴールドマン・サックス証券株式会社の3社を共同主幹事として選定している。
 
 以上のように、日本学生支援機構は、奨学金の原資の多くを民間から調達することによって奨学金貸与者を増やしてきたのである。
 
下のは、奨学金の推移を示したものである。第一種奨学金の貸与額と貸与人数が横ばいなのに対して、第二種奨学金のそれらは急増していることがわかる。これを、図の左にある囲みの中で自画自賛しているように、奨学金を受給して学びたいという学生の増加に対応した良策と見ることができるだろうか。
 

民間から資金を調達するということは、金利の返済を伴う。低金利で借り入れたとしても、借入金の規模が大きければ返済金は多額になる。奨学金の貸与者を大幅に増加させたことが返還遅延者の増加を生むことになり、未返還額も増大した。そこで、あわてて取り立てを厳しくしようと裁判に訴えることになった、ということだろう。
 
しかし、返還率から見れば、「当年度分(当年度に回収期日が到来するもの)の回収率は、第一種奨学金が96.5%、第二種奨学金が95.7%」(平成25年度)であるから、それほど悪いとは言えない。損益計算書やキャッシュフローを見ても、日本学生支援機構は“きわめて健全な経営”ができている。3か月や1年くらい返還が遅れているからといって、先に見たように、「奨学生が卒業後に返還するお金が、次の世代の奨学金として使われます。 日本学生支援機構の奨学金は、先輩から後輩へとリレーされていくものです」といったもっともらしい理由で遅延者を犯罪者のごとくに訴えるのは、理不尽と言えるほどの暴挙であろう。
 
さーさー皆さん利用して下さいとばらまくだけばらまいて、莫大な借金を背負わせたまま卒業させるような現在の奨学金制度は根本から考え直さなければならないだろう。高い授業料をそのままにしておいて利子付きの奨学金を与えて返還に苦労させることが学生支援と言えるであろうか。日本学生支援機構という組織のあり方自体も検討すべき時期にきている。 
 

2014年8月10日日曜日

台風11号接近中

大型の台風11号(ハーロン)が接近中で、雨と風が凄まじい音を立てている。大音声を発していた蝉も、どうしたのやら、すっかり音(ね)を潜めている。停電しないかと不安である。


気象庁発表のデータは次の通り。

<10日10時の推定>
大きさ -
強さ -
存在地域 鳴門市付近
中心位置 北緯 34度25分(34.4度)
東経 134度30分(134.5度)
進行方向、速さ 北北東 30km/h(15kt)
中心気圧 970hPa
中心付近の最大風速 30m/s(60kt)
最大瞬間風速 45m/s(85kt)
25m/s以上の暴風域 南東側 170km(90NM)
北西側 130km(70NM)
15m/s以上の強風域 南東側 500km(270NM)
北西側 390km(210NM)

いま、午前10時過ぎ。2階の北東角の部屋でこれを書いているが、四方八方から猛烈な風と雨の音が聞こえてくる。グォーン、ビュイーン、グーン、ブィーンという渦巻く風が住宅を揺らしている。断続的に叩きつけるような雨が、バシャ、バシャ、ザーッ、ザーッと音をたてて横殴りに吹きつけている。猛烈としか言いようがない。

伊勢湾台風と狩野川台風を経験している私は、台風の恐ろしさを身をもって知っている。幸いに、いま住んでいるところは、河川の氾濫や土砂崩れなどの心配のないところだが、それでも、この凄まじい風と雨の音には恐怖を感じる。

窓を開けて外を見ると、雨が塊のようになって横に跳んでいっている。周囲の家の屋根で跳ね返っては方向を変えて跳び跳ね回っている。どの家も雨戸を閉めてひっそりとしている。
・・・・・・・・・・・・・
午後2時半には風も雨も治まった。外に出てみると、風で引きちぎられて、たくさんの葉っぱや小枝があっちこっちと散らばっていた。道路にも濡れ落ち葉がべたーと大量にへばりついていた。明日は、落ち葉の掃除で大変だ。

柿の実も強風で大分落ちてしまった。まだ、成木になっていないが、毎年、時期が来ると収穫するのを楽しみにしているのでがっかりした。でも、特にこれといった被害がなかったので安心したが、妻が風邪で寝込んでいたので、イマイチ気持ちが晴れない一日であった。





2014年8月7日木曜日

理研の声明に唖然とした-どうして何もわからないのか

理研は、笹井副センター長の死という不幸な事態を受けて、次のような声明を出した。

2014年8月7日
独立行政法人理化学研究所

STAP細胞問題にご関心を寄せられる方々へ

再生医学分野を世界的に先導してきた笹井芳樹 発生・再生科学総合研究センター副センター長の早すぎる死を防げなかったことは、痛恨の極みです。笹井副センター長に謹んで哀悼の意を表すとともに、ご家族に心からお悔やみ申し上げます。
今、大切なことは、この不幸がこれ以上周辺の関係者に影響を与えないことであると認識しております。波紋が社会的に大きく広がる中で、関係者の精神的負担に伴う不測の事態の惹起を防がねばなりません。


3月以降、STAP論文の著者たちが、多方面から様々な批判にさらされ、甚だしい心労が重なったことを懸念し、メンタルケアなどに留意していたところですが、今回の事態に至ってしまったことは残念でなりません。
現在、当該論文著者のみならず、現場の研究者、特に若い研究者たち、技術者、事務職員ならびにその家族、友人たちの動揺と不安は深刻であり、非常に大きな心労を抱えている者もおります。理研は、今後もあらゆる方策で、こうした心身の負担軽減を講じていく所存ですので、皆様にも、ぜひこの状況をご理解とご協力いただきたくお願い申し上げます。

理研はSTAP研究論文にかかる問題の解明と、研究不正再発防止のための提言書等を踏まえた改革のためのアクションプランの策定に真摯に取り組んでおります。理研自らが、社会の要請に応えるべく、一刻も早く研究に専念できる環境を再生することが何よりも重要であると考えております。そのためにも、いましばらくの時間と静寂な環境を与えていただくことを切にお願い申し上げます。

この声明には、理研は相変わらずSTAP細胞問題について何もわかっておらず、わかろうとしない、ということが、実によく表れている。少しも変わっていない、変わろうとしないことがよく表れている。極めて異常な組織と言わなければならないだろう。

自らの不始末が不幸な事態を招いたことには一言も触れず、STAP細胞問題をめぐって多方面からの様々な批判にさらされたことが不幸の原因であると責任転嫁をしている。「STAP細胞問題にご関心を寄せられる方々へ」という表題自体に、そうした理研の態度が表れている。そして、ぬけぬけと、「いましばらくの時間と静寂な環境を与えていただくことを切にお願い申し上げます」とあたかも文句を言うなとばかりに、慇懃無礼な要求で結んでいる。

開いた口がふさがらない。この声明は、野依理事長の承認を経て出されているだろうから、野依理事長は、もはやSTAP細胞問題を本気になって解決しようと思っていないということなのだろう。これを機に、理研の幹部は総辞職すべきである。改革委員会がCDBの解体を提言したことは、解体以外に問題の解決は図られないと考えたからであろう。そして、そのことは、不幸な事態を招いた後でも、この声明に見られるように、何もわかろうとしない現在の理事長はじめ理研幹部には問題解決を期待しても無理であることを見通していたことになる。

2014年8月6日水曜日

理研CDBの笹井副センター長の自殺と理研の対応

理研CDBの笹井副センター長が自殺したことを知って、何ともやりきれない気持ちになった。

前日に夜更かしをしたので5日は朝寝坊をしてしまった。ごそごそと冷蔵庫を開けて牛乳を取り出していると、夏休みを取って在宅している娘がタブレットを持ってきて、笹井氏が自殺を図ったことを報じる記事を私に見せた。

テレビやインターネットが続々と報道しだした。これからも、しばらくは様々な形で取り上げられるだろうが、私の関心は、何よりもまず、こうした事態を招いた理研や理研の監督官庁である文科省のこれまでの対応に向けられている。直接的には、CDBの竹市センター長や理研の野依理事長、下村文科大臣など、関係組織の管理運営責任者らしからぬこれまでの言動に向けられている。そして、その関心には激しい憤りが含まれている。

科学研究において日本はもとより世界の先導的組織と自他共に認める理研の管理運営に当たってきた竹市氏と野依氏は、STAP論文の不正が暴かれてからこれまでの間に、世界に名だたる科学者らしからぬ言動を繰り返し、問題の解決をダラダラと先延ばししてきた。そして、文部科学行政の最高責任者である下村大臣は、そうした言動にお墨付きを与えるような発言を繰り返してきた。

STAP細胞の検証実験などと言う世界の笑いものになっている奇策を弄して組織と既得権益を維持することに汲汲としてきた。そして、それに操られる/乗じるかのように奇妙奇天烈な言動を繰り返す似非博士号持ちの女性が世間の注目を集めてきた。

詳しいことは門外漢にはわからないが、笹井氏は、これまでに類い希なる研究成果をあげてきたと言われている。そして、今後もノーベル賞級の研究成果をあげることが期待されていたようだ。そのために、笹井氏の死に対しては、世界的な頭脳を失ったと残念がる論調が目立つ。しかし、その論調には違和感を覚える。

死を悼む気持ちは私も同じであるが、もし、優れた数多くの研究実績をもつ彼が、今後とも期待に応えて研究に邁進する気持ちを持っていたのなら、自ら命を絶つことなど絶対にしなかったであろう。優れた研究者であった彼にとっては、生きるということは研究を続けることであり、優れた研究成果を発表し続けることであった。

STAP細胞問題の一連の流れの中で、当初は、輝かしい研究実績と理研という揺るぎない一流研究機関に支えられてそれほど大きな問題が自分に降りかかることなくSTAP騒動は終焉すると考えていたのかもしれないし、周囲の対応にも期待し、信頼していたのかもしない。センター長や理事長、文科大臣なども頼もしく思えたのかもしれない。

しかし、不正や疑惑が次々に取り沙汰されるようになる一方で、ダラダラと問題の解決を先延ばしし続け、いつ決着がつくかわからないように、次から次へと奇策を打ち出してくる理研の対応に、いわば出口無しの心境に追い込まれたのではないだろうか。そうした中で、彼は、これまでの研究生活では経験したことのない回復不能な失態をしでかしてしまった、と強く意識するようになったのではないだろうか。

かといって、洗いざらい話して身を軽くするというには彼は理研CDBきっての管理運営に長けた行政マンでありすぎたのではないだろうか。そして、周囲も自分をそうした人間として見ていることを重々承知していて、その期待にも応えようとしていたのだろう。

そうしているうちに、いつ、どのような形で決着がつくか不透明のまま、気がつけば自分の力では最早どうすることもできない状況に至っていたと感じていたに違いない。出ることも引くこともできず、地力を発揮できる場を喪失した感が強くなっていったと推察される。そして、いずれ何らかの形で決着がついたとしても、もはや従来通りの研究生活を続けることなどできるはずもなく、研究者としての自分の命は終わったと確信あるいは納得したのだろう。この段階では、誰の言葉も励ましも彼には響かなかったと思われる。

報道によれば、遺書が4通も残されていたという。小保方嬢宛ての遺書には、「研究は楽しかった」、「STAP細胞を必ず再現してください」、「あなたのせいではない」、「新しい人生を一歩一歩進んで行ってください」といった記述があったという。どういう経路でそうした遺書の内容が報道されたのかわからないし、内容の真偽のほども不明だが、4通もの遺書を認(したた)めたのは、そして、遺書には謝罪の言葉も書かれているようだが、そうした行為は、名を成した研究者としての、また有数の研究機関の管理職としての矜持を保つ最後のメッセージなのだろう。

笹井氏は犠牲になったと言おうとしているわけではないが、こうした事態を招いたことを理研の幹部や文科省は自らの責任問題として真剣に考えなければいけない。

笹井氏の自殺によってSTAP問題の解明が遅れるとか検証実験に支障が出るなどという的外れの議論もあるようだが、ノーベル賞受賞者であり世界に名の知れた野依理事長に期待されることは、まっとうな超一流の科学者としてのプライドをかけて、純粋に学術的、科学的観点から問題に向き合い、是々非々の態度と行動でリーダーシップを発揮し、全力をあげてSTAP細胞問題や関連する問題を洗い浚い(あらいざらい)俎上(そじょう)に載せて、一つずつ迅速に片付けていくことである。そして、竹市センター長は、それを全力で補佐することが、笹井副センター長の死に報いることでもあろう。野依氏も竹市氏もそうしたことができる人物であると期待するからであり、管理者としてそうしなければならないと考えるからであり、加えて、覚悟のないダメ老人として晩節を汚すようなことをしてほしくないからである。

そうした対応が、理研CDBの名誉を傷つけ、存続を危うくするものであったとしても、そんなことは、科学の発展を担うことに一生を捧げ、そのことを誇りとする者にとっては極々些末的なことであろう。正しい事実認識に基づいて判断し、行動すれば何事にも恐れることはない、というのが科学者の真骨頂であることは野依理事長が最もよく理解していることであろう。そして、そうした判断と行動で問題解決に当たる理事長を頂く組織であれば、研究者は安心して誇りを持って科学研究に邁進できるであろうし、真摯な態度で不正などすることなく研究に励む研究者であれば、誰でもが心底応援しようと思うだろう。そうしたことが、結果的にどんな形になろうとも、組織と真面目な研究者を守ることになるのである。

STAP細胞問題をめぐって明らかにされてきた様々な不正や疑惑を放置したまま常識では考えられないような対応を続けていれば、さらに不測の事態を招きかねない。目眩まし的で無駄に予算を浪費している検証実験とやらを速やかに止めて、早急に一つひとつ問題の決着を図っていくことが、いま理研に求められているのである。悲惨な結末を迎えないためにも、挽回の機会はいまを措(お)いてないことを肝に銘じてほしい。

2014年8月4日月曜日

STAP細胞問題に対する理研の声明は慇懃無礼このうえない

理研は、 日本学術会議幹事会が平成26年7月25日に出した声明を受けて、STAP細胞事案に関する理化学研究所の対応についてと題する広報記事を4日に公開した。

色々ともっともらしいことを言っているが、要するに、まさか日本学術会議幹事会がそんな声明を出すとは思っていなかっただろうから、あわてて、これはまずい、ということで、10日ばかりかけて、釈明文のようでもあるし、反論文のようでもあるような、へんちくりんというか慇懃無礼な自己防衛論を唱えたというところであろう。

もっとも、日本学術会議も、日本学術会議の声明としてではなく、幹事会の声明などという中途半端な形での声明だから、どこまで本気か訝る向きもあろう。理研も、その程度の声明かと高を括っているのかもしれない。「今後とも、日本学術会議のご協力とご支援をいただきたく存じます」なんて書いているが、日本学術会議幹事会の声明なんて屁でもないと思っているのであろう。

横道にそれるが、「STAP細胞事案」という表現にちょっと違和感を感じたので『広辞苑』にあたってみた。すると、次のような説明があって、参照語に「案件」があげられている。「事案」と「案件」には大きな違いがあるようだ。

じ-あん【事案】
(処理の対象とするしないにかかわりなく)問題になっている事柄そのもの。
あん‐けん【案件】
処理されるべき事柄。議題とされる事案。「重要―を処理する」


なるほど、「事案」というのは、処理の対象にしなくてもよい事柄についても使われる言葉なんだ。日本学術会議幹事会の声明も「STAP細胞事案に関する理化学研究所への要望と日本学術会議の見解について」 と題されている。揚げ足を取るわけではないが、日本学術会議にとっても理研にとっても、STAP細胞問題は、案件ではなくて事案にすぎないというわけだ。もっとも、日本学術会議や理研がそこまで考えて「事案」を用いたかどうかは定かではないが、「捏造」とはなんぞやとか「悪意」とはなんぞやということも議論されたことがあるから、よ~く考えて「事案」を用いたんだろうと考えるのは穿(うが)ち過ぎか。

以下は、理研の声明である。理研のサイトにアクセスするのが面倒くさいという人のために転載しておく。桃色部分は転載に際して着色した。これまでの理研の対応が、そこで言っていることと大きくかけ離れているにもかかわらず、よくも、ぬけぬけと、という印象を持たれる方が多いのではないかと思う。理研のこうした対応の背景には何があるのだろう。

2014年8月4日
独立行政法人理化学研究所

STAP細胞事案に関する理化学研究所の対応について

独立行政法人理化学研究所(以下「理研」)の研究者が発表した論文が科学の信頼性を損なう事態を引き起こしたことに対し、我が国の科学界を代表する日本学術会議にもご心配をおかけしていることをお詫び申し上げます。今回、日本学術会議幹事会よりSTAP細胞事案に関し、平成26年7月25日付けで声明が出されたところですが、理研としての本件への対応について、改めて説明させていただきたいと存じます。

理研は、STAP細胞事案について、研究不正の有無、科学的検証、研究論文の取扱い、そして再発防止に向けた取組み、の四つを基本方針として対応しております。

理研は、今回の事案への対応を、わが国の研究機関の範となる組織体制、運用の構築、さらに社会の信頼を再度得て社会へ貢献するための改革と位置づけて取り組んでおります。理研のあるべき姿を念頭におき、国民、科学界をはじめ各界の方々の意見や国際的な水準も考慮して改革を進めてまいります。今後とも、日本学術会議のご協力とご支援をいただきたく存じます。

研究論文の取扱と研究不正の有無

論文の取り扱いについては、理事長からの勧告等に従い、著者らの申し出により平成26年7月2日に既に2篇とも取り下げられました。

しかし、「研究論文の疑義に関する調査報告書」(平成26年3月31日)以降に新たに指摘があった科学的な疑義を踏まえ、「科学研究上の不正行為の防止等に関する規程」(平成24年9月13日規程第61号)に基づく予備調査を開始しています。予備調査では、後述の、保全されている STAP細胞株などを科学的に解析した結果も考慮いたします。仮に、調査により新たな不正が認定される場合には、共著者の処分の重さに影響する可能性があることから、同報告書による認定に基づき進められてきた懲戒委員会における審査を一時停止しています。この調査の結果が明らかになり次第、検証実験の帰趨とは関係なく、処分の審査を再開する所存です。

科学的検証

一般的に、科学界では論文撤回は、その論文で主張された内容が「なかった」ことを意味します。他方、理研が行ったSTAP現象のプレス発表により、社会が将来の再生医療の可能性について大きな期待を抱くこととなりました。論文が取り下げられた時点においても、社会の中に理研が真相を解明し、STAP現象の有無を明らかにすべきであるという意見が多くあると認識しています。

このため、理研は、発生・再生科学総合研究センターに保全されている STAP細胞株などを科学的に解析するとともに、STAP現象の有無を明らかにするための検証実験を行う社会的責務があると判断しました。保全されているSTAP細胞株の科学的解析については、発生・再生科学総合研究センターはもとより、理研が有する解析能力を最大限に活用し取り組んでおります。検証実験については、まず、平成26年4月1日より相澤実験総括責任者と丹羽研究実施責任者の下で、論文で報告された方法のみならず、他の分化細胞からの誘導の可否についても検証実験を進めています。

また、小保方研究ユニットリーダーにはNature論文で報告したプロトコルに沿って、高い透明性を確保するための措置を講じた上で、本年11月末までと期間を区切って検証実験をさせています。「研究不正再発防止のための提言書」(以下、「提言書」という)においても、自身により、2篇の論文ないし平成26年3月5日に理研により発表されたSTAP現象誘導プロトコルによる範囲内での、STAP現象の再現実験を行うことと指摘されているところです。

再発防止に向けた取組み

理研は、提言書等を踏まえて、研究不正再発防止改革推進本部(本部長:理事長)において改革のためのアクションプランの策定作業を進めています。理研の考えは、今後、アクションプランにおいて早急に提示してまいります。