2014年8月21日木曜日

広島の土砂災害が教えていること-災害の多くは人災だ

広島の土砂災害の映像を見て、またか、と思った。直接の原因は集中豪雨であるが、過去にも集中豪雨による土砂災害は全国各地で何度も繰り返されてきた。

何度も繰り返されてきたということは、それが自然現象によるものだとしても、もはや自然災害と呼ぶことはできないだろう。人災であるということだ。

危険なところには住まない、住まわせないというのが、防災の大原則である。住まない、というのは住む側としての個人の判断と責任に関わることであり、住まわせない、というのは政治や行政の判断と責任に関わることである。この両者の判断と責任は同列に論じられるべきものではなく、政治や行政の判断と責任の方がより重要であると私は考える。要するに、災害の危険なところに住むことを政治や行政が許していることが、同じような災害を繰り返し発生させている、ということである。だから人災だと言いたいのである。

そうは言っても、と反論がすぐに聞こえてきそうだ。

日本国憲法第22条には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と居住と移転の自由が記されている。もちろん、他人の土地に無断で住宅を建てたり、市街化調整区域など居住用住宅の建設が規制されているところには自由に住んだり、移転することはできないが、基本的には、どこに住もうが本人の自由であり、制約されることはない。たとえ、そこが災害の危険がある場所であったとしても、強権的に居住を禁止することは基本的人権を侵害することになり、憲法違反になるという論理も成り立つ。だから、そこに住むか住まないかは個人の判断と責任に委ねられる。災害の危険がある場所に住んでいることも、危険を承知か否かは別にしても、居住の自由の観点からは非難される筋合いではないということになる。

とはいうものの、危険を知っていて知らんぷりをする、というのはあまりにも人道にもとる行為である。土砂災害に関しては、「宅地造成に伴う崖崩れ又は土砂の流出による災害の防止のため必要な規制を行うことにより、国民の生命及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉に寄与することを目的とする」宅地造成等規制法が既に昭和36年に制定されている。この法律が制定されたきっかけは、昭和36年梅雨前線豪雨である。全国で、死者302名、行方不明者55名、負傷者1,320名、住家全壊1,758棟、半壊1,908棟、床上浸水73,126棟、床下浸水341,236棟など、大きな被害が発生した。

しかし、この法律が施行されて以降も、土砂災害による人命や財産の被害は後を絶たない。今回の広島の土砂災害でもそうだが、災害現場の映像を見れば、何でこんなところに、こんなにたくさんの住宅が、という印象を持つ人も多いのではないだろうか。確かに、災害が発生する前には、そうしたところは、地価も安くて眺望も良い快適な環境であったであろう。開発業者や住宅販売会社にとっては利益率が高く、購入者にとっては買い得感が高かったのかもしれない。

そうした場所でも、昔から住んでいて種々の規制の適用を受けない場所を除けば、宅地を造成する際には、上記の宅地造成等規制法などによってそれなりの防災対策が施されて都道府県等の認可を得ているわけだから、災害が生じたことは、それらの対策や認可に誤りがあったということである。

ところが、こういうときには、いつも、予想を上回るとか想定外の、ということが言われて、対策や認可の誤りとはしない。しかし、予想を上回るとか想定外の、というのは、予想や想定が適切ではなかったということであり、人智が及ばない現象が生じたということではない。

災害発生の危険があるとされる地域に十分な防災対策を施そうとすれば、そのための費用は莫大になる。その費用を地価に反映させようとすれば、おそらく、都心の一等地と同じとまでは言わないが、既成市街地の地価と同じか、それを上回るくらいになるだろう。開発業者や住宅販売会社はそこまでして宅地を造成しようとは考えないだろう。造成しても多くの人が購入できる価格で提供できないからである。

防災対策を施して造成しても販売できる価格を設定できる限りでの防災対策にとどめているから宅地が造成され、住宅が販売されているのである。豪雨の予想や土砂流出の想定も、その限りでの予想や想定ということになり、認可もその想定内での認可である。

ひとたび災害が発生すれば、尊い人命が失われ、物的損害を被ることになる。被災者の生活は破壊される。災害救助と復旧活動に莫大な時間と労力、費用が投入される。おそらく、本気になって十分な防災対策を講じたとしたら要したであろう費用と同じか、それを上回る費用が生じる。もっと、ちゃんと防災対策をしておけば良かったと思うことになるだろう。

余談であるが、かつて仕事でバングラデシュに滞在したときにサイクロン災害に遭遇した。私自身に被害はなかったが、土で固められた堤防の上や大河の中に残る中州など危険地域に建っていた竹で作られたバラックに住んでいた人々の大勢が命を落とした。居住してはいけない場所を不法に占拠して住んでいたのだが、中央省庁の役人が言うには、「そうした人々を排除することは簡単だが、そんなことをすれば彼らは住むところを失う」ということであった。途上国の防災対策の難しさを知った思いであったが、いまの、日本は、そうした事情からではなく、災害危険地域に多くの人が住んでいる。

我が家にも土砂災害の危険地域を色塗りしたハザードマップが配られているが、危険地域を知ったとしても、それが防災にどれほど役に立つかは疑問である。危険地域や、その周辺に住む人にとって避難の参考にはなるかもしれないが、住宅を失い、そこに住めなくなってしまえば、生活は破壊される。事前に避難できて命が助かっただけでも幸いだとは喜べないだろう。

こと、防災に関しては、本気で進めようとするならば、危険なところには住まわせないことと、宅地を開発する場合には最悪の事態を想定して、それに十分に対応できるだけの防災対策を施すか、自然が猛威を振るっても被害が生じないようにしなければ絶対に許可しないことを強権的に進めるしかない。中途半端な対策は無駄である。

日本は宅地に適した平地が少ないと言われて、急傾斜地や山裾、河川流域など災害の危険が想定される場所に多くの宅地を造成してきた。そうした宅地は、どこもかしこも中途半端な防災対策を施しただけである。同じような災害が繰り返されていることは人災であることをしっかりと認識し、様々な言い訳や理屈で糊塗することなく、本気を出して対策に取り組まなければ悲惨な災害を繰り返すだけになる。

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