2016年12月28日水曜日

ロシアは日本にサーバー攻撃をしているのだろうか

最近、このブログへの閲覧者履歴にロシアからの閲覧者が異常なほど多いことが記録されている。この1週間か10日ほど、ロシアからの閲覧者が毎日100を超えている。

ロシア人に興味のある記事を書いているわけでもないし、記事の中にロシア語が一語でも入っているわけではないから、実際に記事を読むためにアクセスしているわけでもなさそうだ。何か、自動的にアクセスしている感じがする。

閲覧者記録の仕組みもよくわからないから何とも言えないが、スパムの類だろうか。感じが悪いし、不気味だ。

2016年12月19日月曜日

韓国の政治スキャンダルを連日放送する日本のテレビ局は日本の政治に無関心なのか

朴槿恵韓国大統領の政治スキャンダルをめぐって各テレビ局は毎日のように長時間にわたって同じような内容を放送し続けている。日本のテレビ局は、日本の政治に関して詳細な取材をしたり、分析する能力のある人材がいないのか、それとも国民の目を国内政治からそらそうとしているのか、はたまた、そうしたテレビ局はもともと国内政治に無関心なのか無知なのか。

国内政治の問題で採り上げることはいくらでもあると思うのだが、“対岸の火事”よろしく、ああでもないこうでもないと半可通の司会者とレギュラーコメンテーターとで面白おかしく雑談して時間稼ぎをしている。こんな番組のスポンサーになっている企業の広報担当者の社内での評価はどんなものだろうか。

2016年12月12日月曜日

カジノ解禁法案をめぐる議論に思うこと

カジノ解禁法案とやらの国会審議が短時間で終了して衆議院を通過したそうだが、審議の中でIRとかなんとかが頻繁に出てきたので、何か聞いたことがありそうな略語のようだが、何のことかいなと思っていたら、統合リゾート(Integrated Resorts)のことだそうだ。劇場やホテル会議場、公園、ミュージアムなどが集積した観光施設のことらしい。

IRのIは、てっきりIntelligenceの頭文字のことかと早合点して、安倍首相が口にするのは似合わないのにと思っていたら、そうではなかったので、ホッとした。

カジノで私が実際に足を踏み入れたことがあるのは、随分前のことだが、カナダに行った折に、知り合いの知り合いが紹介してくれて格安で宿泊できたホテルに併設されていたかなり大きなカジノだ。聞けば、そのカジノは市内循環の無料バスを走らせていて、お年寄りも小銭を持って気軽に遊び来るということだった。そういえば、スロットルマシーンの前に座る高齢女性もけっこう見かけた。

大当たりして、「これで楽しいクリスマスを迎えることができる」と大喜びしていたが、大当たりといっても10万円くらいだったように記憶している。ルーレットやカードも掛け金の上限が決められていて、たしか、10万円を超えることはなかったと記憶している。

場内の写真を撮ろうとしたら、警備員に止められてしまった。場内は写真撮影禁止、ということだった。

不法カジノで選手生命を絶たれるような処分を受けた有名選手もいるが、日本でも、競輪・競馬・競艇は公認されていて、パチンコも景品を現金と交換できる仕組みがあるから、ギャンブルが全面的に禁止されているわけではない。宝くじも言ってみれば胴元である国や地方公共団体がぼろ儲けをするために行っている公認ギャンブルだ。

カジノ解禁法案の議論の中では、ギャンブル依存症などの問題も指摘されているが、私が問題だと思うことは、統合リゾートの名の下に、十分な審議をしないままに、観光客誘致で経済効果が大きいという理由で簡単に法案を通してしまう政治的手続きのことだ。

外国へ出かけたときに、日本が自慢できることは何かと聞かれたことも多いが、その時に私は、戦争放棄を唱った憲法と、国民皆保険、国民皆年金、銃刀法、麻薬が蔓延していないこと、そして、カジノのようなゲスっぽく荒稼ぎをする施設がないことをあげてきた。要するに、安全で国民に優しくて品格のある国であることを、ある種の見栄を張って自慢してきた。

20代のときにアメリカでホームステイをしていたとき、地方ラジオ局にゲストとして出演したことがある。リスナーの質問に答えるコーナーで、地元のハイスクールの生徒から、「日本の若者には、なんで薬物使用者がいないのか」という質問があった。何かで見たり読んだり、誰かから聞いたようだった。そんなことは考えたこともなかったので、しどろもどろの説明しかできなかった。結局、「よくわからないが、身近にそういう若者を見たこともないし、少なくとも日本の学校で薬物使用者のことが話題になった記憶はない」というようなことをその時は答えた。質問した生徒は、そんな雑な説明にも、「学校に薬物使用者がいないことはすばらしいことだ」と納得してくれた。日本はそうなんだ、と逆に教えられた思いだったし、うれしかった。

今回のカジノ解禁へ向けた動きは、なりふり構わず手っ取り早く金を稼ごうという知恵も理性も働かせずに一攫千金を狙う危うい人間のやることと同じだ。アベノミクスが失敗したことを自らが認めていることがカジノ解禁法案となって現れたのだろう。

国民を危険にさらし、国民に優しくなく、国の品格を落とし続ける政治をいつまで続けるつもりなのか、そして、国民は、いつまで、そのことに気がつかないのか。

2016年12月4日日曜日

タバコの箱に印刷された警告文

愛煙家には、なかなか厳しい世の中になったが、こんな警告文がでかでかと印刷されているのも関わらず、どうして高い金を払ってまで吸い続けるのだろう。不思議で気が知れない・・・

 
ついで、と言ってはなんですけど、冬の朝顔をご鑑賞下さい。この朝顔は、成長はしていて、どんどん伸びてはいたのですが、咲き始めがとても遅くて、育て方に失敗したかなと思っていました。ところが、夏が過ぎてから毎日とても綺麗な花を沢山つけるようになりました。そして、11月に入っても咲いていました。この写真は10月末頃のものです。柿の木に絡みついて咲いています。
 
 
 
これも、ついでです。今年のスーパームーンです。当日が雨でしたので、翌日の11月15日20:46に 撮影したものです。煌々と輝くスーパームーンを手持ち35倍ズームで撮影するのは難しいですね。三脚を用意する面倒を省いたので、50枚撮影しましたが、手ぶれやピンぼけばかりで、かろうじて、これだけが何とかそれらしく撮れた“貴重な”1枚です。ジッと見ると、月面の山が確認できますね。
 
 

2016年11月9日水曜日

トランプ大統領の誕生-アメリカ村の村長選挙で勝利

おおかたの予想通りというか予想を裏切ってというか、期待通りというか期待が裏切られたというか、トランプ大統領が誕生した。

日本のテレビ局は、こぞって特番を組み大統領選を詳細に報じ続けていた。日本はアメリカの51番目の州だという人もいる。属国という人もいる。そんなことを感じさせるほどの熱の入れようだった。

トランプ氏が大統領に選出されることになった背景に関しては色々と言われているし、これからもしばらくは論評が続くだろうが、私の印象としては、アメリカ村の村長選挙で村を守ってくれそうな頼もしい資産家が選ばれた、というものだ。

トランプ氏の一連の発言は、村長(むらおさ)のそれと変わらない。他のところで通用するかしないかは関係ない。一般性や普遍性などは関係無しに、その村独自の論理で押し通し、自村の利益を第一にするという、とてもわかりやすい論法で村人の支持を得た。ということは、アメリカという大国は自他ともに認める世界のトップ・リーダーであることになっているが、実は、とっても沢山の村民を抱えた大きな村であった、ということになるのかもしれない。

さて、その村の長(おさ)に今度は何を土産に何をお願いにしに行こうとするのか、アメリカ村の属村の代官は。

2016年11月5日土曜日

大学入試に導入される新テストをめぐる疑問

文科省は、2020年度の大学入試からセンター試験に替わる新テストを導入するという。

毎日新聞によると、「新テストは思考力や表現力を測るため、国語と数学で新たに記述式問題が出題される」という。そして、「国語は、比較的解答字数が多く難易度が高い問題と、おおよそ80字以下の短文記述式で比較的難易度が低い問題の2種類」が出題されるそうだ。大学からは、「記述式問題を使いたいが、採点業務が大きな負担になる」という意見が出ているという。また、「難易度が高い問題は受験生が出願する大学側が採点し、低い問題は入試センターがA、B、Cなどと段階評価して結果を大学に提供し、大学が評価に活用する」そうだ。そして、「入試センターが担う段階評価の業務は民間の教育業者に委託する方針」とのことである。

定員があって定員以上の応募者があるの基本的な選抜方法には2種類ある。抽選か順位付けである。入試の場合は、応募者の学力が似たり寄ったりであれば抽選でもかまわないだろうが、一般的には順位付けで行われる。

順位付けする方法にも、いろいろある。推薦であっても、応募者多数の場合には順位付けが行われるが、これも一般的には学力を測るためのテストの結果による。そのときに最も重要なことは、その順位付けを受験者をはじめ誰もが納得するものでなければならないということだ。

誰でもが納得するというのは、客観的な採点ができるテストで順位付けがされるということだ。思考力や表現力を測るためだからといって、それが記述式でなければならないというのは、まさに思考力や表現力が乏しい発想ではないだろうか。〇×式であろうと多肢選択式であろうと、思考力や表現力を測ることにはかわりがない。思考力や表現力をできる限り客観的に測定できるものとして〇×式や多肢選択式が“発明”されたとも言える。

〇×式や選択式では、まぐれ当たりが生じる、という意見もあろうが、そうしたリスクがあったとしても、採点者の力量や好みなどに左右されずに、しかも時間やエネルギーを軽減して学力を客観的に測ることができる利点の方が大きいのではないだろうか。

記述式の採点で生じるリスクは、投じる時間やエネルギーのことも考え合わせると、〇×式や選択式よりも遙かに大きい。ましてや、50万人という膨大な数の受験者が同時に受験するとなれば、採点者の数も膨大になる。採点者による違いが微妙であったとしても、順位には大きな差が出るだろう。順位付けは、1点差だろうと10点差だろうと、点数に関わりなく順位で判定されるから、採点者による1点、2点の差が順位に大きく影響する。

段階評価は民間業者に丸投げするというのだから、毎年実施している無駄な全国学力テストで大もうけしている業者にまたぞろ莫大な金額が流れていくことになるのだろう。業者はアルバイトを雇って、適当にA、B、Cのランクを付ければいいのだから、こんなうまい話はないとほくそ笑んでいることだろう。評価された結果は誰が点検するというのだろうか。

採点業務で負担が大きいから反対だという大学側も、その理由はよくわかるが、そんな物理的な理由からではなく、新入生選抜の方法について、大学ではどういう学生をどういうふうにして教育するのか、そのための適切な選抜方法はどういうものかをしっかりと打ち出さなくてはならないだろう。それこそ、大学の思考力と表現力が問われているのである。

2016年11月2日水曜日

東京五輪をめぐる騒動-大金をもてあそぶ面々に嫌気がさす

東京五輪をめぐる騒動に湧いているが、チョットおかしくないか。

五輪は都市が主催することになっている。だから東京五輪と呼ばれている。ところが、いまや、主催都市は名ばかりで、一国を挙げての一大イベントになっている。その都市を国が後押ししたり協賛するのは一向にかまわないだろうが、主催都市そっちのけで、あれやこれやが進められているのは五輪の趣旨に反するのではないだろうか。

そもそも、一都市では負いきれないような企画で五輪招致運動をすること自体がおかしいと思わないのだろうか。今回の騒動の発端は、そのところにある。

100億円単位で減額が可能だとか、どうのこうのと騒いでいるが、誰の金を使うのかチットモ考えていない連中ばかりだ。どうせ誰の腹も痛まないからと、アスリート・ファーストだの、組織委員会だの何とか協会だの、IOCだのと、寄って集って大金をもてあそんでいるふうにしか見えない。

招致運動のバカ騒ぎも、もう止めた方が良い。毎年甲子園で開催される高校野球では、全国の精鋭が最高のプレーを見せてくれる。観客はそれに感動する。アスリート・ファーストの運営ができているからだろう。

高校野球と五輪を一緒にするな、という声が聞こえそうだが、五輪の開催地をギリシャのアテネに固定してしまえばいいことだ。毎回の開催費用や施設更新費用は参加国で分担すればいい。選手にとっては、何も問題はないし、競技施設の善し悪しや気候風土に左右されることなく実力を発揮できるだろう。まさに、アスリート・ファーストだ。記録更新も正確になる。

昔と違って、五論の開催が大きな経済的利益をもたらすなんてことは期待できない。ツケを残すだけだ。

IOCなんて胡散臭い組織は、もう解体・消滅させたらいい。東京都も日本国も、しなければならないことが山積みだろうに、そうしたことをそっちのけで、バカみたいな議論に明け暮れて、いかに大金を投じるかでせめぎ合っている。あきれる。許せない。組織的な公金横領じゃないか。

2016年9月16日金曜日

東京中央卸売市場の築地から豊洲への移転をめぐる騒ぎは日本政治の後進性を示しているのか

東京中央卸売市場の築地から豊洲への移転をめぐる問題が連日報道されている。

ベンゼンに汚染された土地の改良に800億円を超す大金が投入されたが、土地と建物の施工に問題があったということで、安全性が確保されていないということだ。

敷地が広大だからといって、汚染された土地を大金をかけてわざわざ改良して、生鮮食料品を扱う卸売市場を移転させるというのは、どう考えても解せない。

改良した土地の安全を証明するために生鮮食料品でも大丈夫という大規模実験を長期的に実施するということなんだろうか。

長い時間をかけて大勢の委員を参加させて色んな会議が行われたようだが、テレビに出演している元委員の方々は、そんなこと知らされていなかった、ということのようだ。委員会の提言が盛り込まれた報告書も、ほとんど事業には活かされていないようだ。

まあ、公的機関が、外部から専門家や有識者を委員として招いて組織する委員会の議論なんかは、たいてい無視されるか、都合の良いところだけをつまみ食いして、一種のお墨付きとして使われるだけで、尊重されるようなことはない。

専門家や有識者は、それなりに真面目に真剣に正直に議論するだろう。その意味では優れた専門バカは貴重な存在だ。中には、公的機関に迎合するのが自分の役割なんて思い込んでいるただのアホとしか言いようのない専門家や有識者もいて、そういうアホは、そうした委員会の委員として重宝がられているようだが、いずれにしても、議論や提言がほとんど活かされないということでは、専門バカも、ただのアホも同列に扱われている。

公的な機関が行う事業は、始めたら途中で止めない/やめられないことが「自慢」になっている。とくに、大金を投じた事業に関してはそうだ。そして、それを決めて、それを進めた責任者が誰だかがわからないままに、無駄で下らんことが延々と続けられる。そして、それを止める仕組みもない。だから、そうした中で、とんでもない輩がぬくぬくと甘い汁を吸うことができる。そこにまともな政治家は登場しない。

チョット考えれば、何で、そんな危なっかしい土地に生鮮市場が移転することになったのか、おかしくね、と感じるだろう。

2016年9月3日土曜日

防衛予算が増額された-この国の政治家には知恵も知性もないのか

報道によると、防衛省の平成29年度予算の概算要求は5兆円を超えているそうだ。防衛省のウェブサイトに掲載されている「平成29年度概算要求の概要」では、防衛関係費が4兆9,735億円(前年比1,1282億円増、2.3%増)で、「基地対策用の推進」に関わる費用が4,636億円(前年比100億円増、2.2%増)となっている。それぞれの詳細については、ぜひ、上の「概要」に目を通して確認して欲しい。武器・兵器や基地対策費など、要求費目が写真や図解で説明されている。そこで、ここでは、それらについては触れないが、防衛予算の推移の図だけを紹介しておく。

この5年、急激な増加傾向にある。5兆円が防衛費として適切か否かは判断のしようがないが、これだけの予算を投じることができるのなら、国民の生活をもっと豊かにできるのではないか、というのが普通の感覚だろう。国を守る、ということは、国民生活を守り、豊かにする、ということだと思うが、国を守ることを武力を高めるとしか思いつかない政治家には、知恵も知性もないということだ。

知恵も知性もかなぐり捨てて、戦艦大和を建造し、戦争に莫大な国費を投入して国民に多大の犠牲を強いた過去の悲惨な経験が少しも活かされていない。知恵と知性をしぼって、それだけの技術と国費を国民が豊かになるように最大限に活用するようにしていたら、国民は、しなくてもよかった悲惨な経験を強いられずに、日本は、豊かで幸せな素晴らしい国になっていたに違いない。残念である。その轍を踏まないようにしなければならない。子々孫々のために。

2016年8月21日日曜日

今夏の暑さは異常だ

こんなに暑い夏は久しぶりだ。関西に住むようになって丁度20年になるが、これほどの暑さを経験したのは初めてだ。ずっと以前のことだが、徳島に住んでいた頃に、36度を超える暑さを経験した。そのときに知人が、暑さをしのぐには裸で抱き合えばいい、なんてことを言っていた。体温よりも外気温が高いことを気の利いた冗談で表現したつもりで得意になっていたが、品の悪い冗談と顰蹙を買ったりもした。

例年の夏なら窓を開け放っていればほとんどエアコンを必要としない住環境だが、今夏ばかりはエアコンの世話になっている。運良く新電力に切り替えていたので、消費電力の割には料金をかなり抑えられそうだ。

皮膚の中に熱がこもっているような感じもして、これが熱中症の兆しかと水のシャワーを浴びても、水が温(ぬる)くて体が冷えない。この年になって海水浴や川遊びに出かけて溺れてもしたら迷惑をかけるだけだから、お気に入りのガリガリくんナシ味で暑さをしのいでいる。

2016年8月19日金曜日

リオ五輪で吉田沙保里選手が4連覇を逃したのは残念だが・・・

なんやかんやと忙しくてブログを書くことができないでいるが、リオ五輪で日本選手が活躍しているのをチョコチョコ視てはストレスを発散している。

女子のレスリングの活躍はめざましい。前半で3人も金メダルに輝いたので、その後の日本選手も全員が金メダルを獲って欲しいと期待を膨らませていた。とくに吉田沙保里選手が五輪4連覇を達成するのを楽しみにしていた。やってくれるだろうと思って視ていたが、初戦を戦う吉田選手を視ていると、どこか精彩を欠いていたような気がした。鋼のような力強さや躍動感が感じられなかった。

決勝では、逆転を狙って攻めた瞬間に体勢を入れ替えられてしまい、相手のポイントになってしまった。残念であるが、相手の力量が上回っていたから結果は仕方がないことである。

私が言いたいことは、その後の吉田選手の王者らしからぬ振る舞いが、誠に残念であった、ということである。負けた悔しさからか、金メダルを逃した悔しさからか、自らの不甲斐なさからか、傍目をはばからずにマットに泣き伏してしまい、しばらく立ち上がらなかった。

期待を一身に背負い、4連覇を目指したにもかかわらず不本意ながら負けてしまったのだから、彼女の気持ちはわからないでもないが、というより、とてもよく理解できるのだが、王者たるもの、いつかは負ける日が来ることを常に念頭に置いていたはずだし、金字塔を築き上げた王者である自分を負かした相手を笑顔で賞賛してほしかった。そして、悔し泣きにしろ何にしろ、誰もいないところで一人で泣き崩れるのはかまわないだろうが、対戦相手を前にして、王者たるものが負けて泣き崩れるのは、真の王者になりえていなかったからではないか、と思ってしまう。吉田選手の振る舞いは、あまりにも子どもじみていた。そのことが、残念でしかたがなかった。

2016年7月22日金曜日

安倍政権が沖縄県を訴えるという国民無視の暴挙に

報道によると、「政府は22日午前、沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設に関し、県を相手取って地方自治法に基づく違法確認訴訟を福岡高裁那覇支部に起こした」という。

報道では、「地方自治法に基づく違法確認訴訟」なんてスラッと書いてあるが、何のことかさっぱりわからないので、チョット調べてみた。この訴訟に該当する条文は地方自治法の第251条の7である。以下にそれを掲載しておく。ごく大雑把に言えば、都道府県や市町村が、国の指示に従わなかった場合に、それが違法であることを確認してもらうために裁判所に訴えることのようだ。

第二百五十一条の七  第二百四十五条の五第一項若しくは第四項の規定による是正の要求又は第二百四十五条の七第一項若しくは第四項の規定による指示を行つた各大臣は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該是正の要求又は指示を受けた普通地方公共団体の不作為(是正の要求又は指示を受けた普通地方公共団体の行政庁が、相当の期間内に是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じなければならないにもかかわらず、これを講じないことをいう。以下この項、次条及び第二百五十二条の十七の四第三項において同じ。)に係る普通地方公共団体の行政庁(当該是正の要求又は指示があつた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該普通地方公共団体の不作為の違法の確認を求めることができる。
 普通地方公共団体の長その他の執行機関が当該是正の要求又は指示に関する第二百五十条の十三第一項の規定による審査の申出をせず(審査の申出後に第二百五十条の十七第一項の規定により当該審査の申出が取り下げられた場合を含む。)、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
 普通地方公共団体の長その他の執行機関が当該是正の要求又は指示に関する第二百五十条の十三第一項の規定による審査の申出をした場合において、次に掲げるとき。
 委員会が第二百五十条の十四第一項又は第二項の規定による審査の結果又は勧告の内容の通知をした場合において、当該普通地方公共団体の長その他の執行機関が第二百五十一条の五第一項の規定による当該是正の要求又は指示の取消しを求める訴えの提起をせず(訴えの提起後に当該訴えが取り下げられた場合を含む。ロにおいて同じ。)、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
 委員会が当該審査の申出をした日から九十日を経過しても第二百五十条の十四第一項又は第二項の規定による審査又は勧告を行わない場合において、当該普通地方公共団体の長その他の執行機関が第二百五十一条の五第一項の規定による当該是正の要求又は指示の取消しを求める訴えの提起をせず、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
 前項の訴えは、次に掲げる期間が経過するまでは、提起することができない。
 前項第一号の場合は、第二百五十条の十三第四項本文の期間
 前項第二号イの場合は、第二百五十一条の五第二項第一号、第二号又は第四号に掲げる期間
 前項第二号ロの場合は、第二百五十一条の五第二項第三号に掲げる期間
 第二百五十一条の五第三項から第六項までの規定は、第一項の訴えについて準用する。
 第一項の訴えについては、行政事件訴訟法第四十三条第三項 の規定にかかわらず、同法第四十条第二項 及び第四十一条第二項 の規定は、準用しない。
 前各項に定めるもののほか、第一項の訴えについては、主張及び証拠の申出の時期の制限その他審理の促進に関し必要な事項は、最高裁判所規則で定める。
 
法律の専門家ではない小生には、地方自治法に、こうした条文があることが不思議に思えるが、政府にとっては、誠に便利な条文であるとは言えそうだ。政府の言うことに素直に従わないとか逆らう自治体を懲らしめるための手続きを記した条文とも言えるからだ。
 
独裁国家なら、独裁者の言うことを聞かなければ、有無を言わせず強権を発動して従わせるところだろうが、法治国家では、そんなことはできない。だから、一見、民主主義のルールに則(のっと)ったやりかたで政府の言うことに従わせることができる道具として、民主主義国家の中で独裁的政治を進めたいとする政権にとっては誠に便利な条文というわけである。そして、そのことが如実に現れたのが、今回の違法確認訴訟である、と理解できるだろう。
 
ヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)の移設工事に反対して座り込みをしている住民と侵入阻止のために置かれた車両を大勢の機動隊が寄って集(たか)って排除している様子がテレビで放映されていた。恐ろしい光景であった。
 
沖縄県民が反対している米軍基地の辺野古移設事業を力ずくで推し進めようとする政府は、国民を、国民の生活を、国民の幸福を、国民の安全と国家の平和を大切にしようとはちっとも考えていないということだ。
 
地方が自主的に取組みを進める政策を応援し、地方が主役の『地方創生』を実現しますと唱っているのは、参院選前に公表した自民党の政策パンフレットである。言行不一致もいいところである。国民のための政府ではないことに、国民は、もっと厳しい目を向けなければならないだろう。

2016年7月18日月曜日

安倍首相が夏休みをとってゴルフに興じることができるのも・・・

報道によれば、安倍晋三首相は、18日に、山梨県富士河口湖町のゴルフ場で経団連の名誉会長や会長らとゴルフを楽しんだそうだ。経団連のトップらとゴルフを楽しみながら、法人税のさらなる減税や大企業優遇策について話が弾んだことだろう。安倍首相は、24日までの夏休みを河口湖近くの別荘で過ごす予定だという。

別に安倍首相がゴルフに興じようが別荘で夏休みを満喫しようがかまわないし、そのことに何の感想も抱かないが、そうしたことに一国の首相が何の心配や不安を覚えることなく時間とエネルギーを費やすことができるのはなぜか、ということを、少しばかりでも考えただろうか、というのが、報道に接して私の脳裏に浮かんだことである。

戦争ができる国にすることを“普通の国”にすることだと主張する輩が安倍首相のお仲間には多いようだが、憲法を改悪して軍備を拡張し、平和国家から“普通の国”になっても、いまと同じような気分でゴルフに興じたり、別荘で夏休みを満喫したりすることができるだろうか。

こんなことを言うと、お前はバカか、と言われそうだ。オバマだって、金正恩だって、ゴルフに興じたり、夏休みを別荘で過ごすこともあるじゃないか、と。その通りだろう。しかし、チョット違う、とも言えるだろう。トンデモナイ連中によって引き起こされたトンデモナイ戦争によって大多数の国民が辛酸を嘗(な)めさせられた歴史を持つ日本の政治家には、“普通の国”と違う施政感覚と感情を持って、平和であることと平和を維持することの大切さをどの国の誰よりも知っていて、常にそのことを念頭に置いて行動し、日本が平和国家であることを力強く主張して欲しいと期待するからである。

2016年7月13日水曜日

都知事選が面白い-鳥越都知事、古賀副知事、宇都宮副知事、石田副知事の誕生か

連日、マスメディアが、全国放送で都知事選立候補者をめぐる動きを伝えるものだから、都民ではないのに、関心が向いていく。マスメディアの影響力の大きさを実感する。もっとも、改憲問題という参院選後の最重要課題に関わる取材活動をそっちのけだから、どうかとは思うが。

それにしても面白い。

小池某という女性代議士が先陣を切って立候補を表明したかと思えば、俺(俺たち)に何の相談もなく勝手に立候補表明しやがって、とばかりに、親の七光りだけで代議士になった石原某が、あいつなんか自民党は推薦しないとなって、別の候補者さがしに躍起になり、タレントの親ということで一役脚光を浴びることになった桜井某に依頼したが体よく断られてしまい、さあ困ったぞというところで、増田某が自公ほかの推薦で立候補者になった。

対する革新系では、かつての都知事選で二度次点であった宇都宮某が早くに立候補を表明し、その後、本気か洒落かわからないが大勢(といってよいほど)の立候補者が名乗り出たが、特に目立ったのは、タレントの石田某であった。言ってみれば、もっとも勇気のある立候補者かもしれなかった。野党統一の推薦が得られれば、ということであったが、そこに割り込んできたというか、割り込まされたというか、古賀某と鳥越某が立候補者に浮かんできたが、鳥越が出るのなら俺は引っ込むと古賀が撤退し、鳥越は野党4党推薦の立候補者になった。宇都宮も、かつての都知事選で推薦を受けた共産党が鳥越推薦にまわったということもあってか、急遽立候補を取り下げた。

まあ、都民ではない者にとっては都知事選に参加できるわけではないから、アメリカ大統領選と同様に、外野で見物ということになるが、わかりやすい都知事選であるともいえる。この際は、小池某ががんばって増田某と票を分け合い、鳥越都知事が誕生する。そして、立候補しないことになった古賀、宇都宮、石田を副知事にする。これで決まりではないだろうか。

副知事は、地方自治法の第百六十三条で、知事が議会の同意を得て選任することができると定められている。また、副知事を任期(4年)の途中でも解雇できる。東京都の副知事は4人と決められているので、鳥越新知事が誕生したときには、古賀、宇都宮、石田を副知事にすることには何の問題も無いことになる。それでこそ、鳥越立候補者と立候補を表明した3人が東京をよくしたいという気持ちが本気だと言うことが伝わるだろう。

ちなみに、地方自治法の中で副知事に関して書かれているところを抜粋しておく。 

第百六十一条
 1.都道府県に副知事を、市町村に副市町村長を置く。ただし、条例で置かないことができる。
 2.副知事及び副市町村長の定数は、条例で定める。
第百六十二条
 副知事及び副市町村長は、普通地方公共団体の長が議会の同意を得てこれを選任する。
第百六十三条
 副知事及び副市町村長の任期は、四年とする。ただし、普通地方公共団体の長は、任期中にお いてもこれを解職することができる。
第百六十四条
 1.公職選挙法第十一条第一項 又は第十一条の二 の規定に該当する者は、副知事又は副市 町村長となることができない。
 2.副知事又は副市町村長は、公職選挙法第十一条第一項 の規定に該当するに至つたときは、その職を失う。
第百六十五条
 1.普通地方公共団体の長の職務を代理する副知事又は副市町村長は、退職しようとするとき は、その退職しようとする日前二十日までに、当該普通地方公共団体の議会の議長に申し出なければならない。ただし、議会の承認を得たときは、その期日前に退職することができる。
 2.前項に規定する場合を除くほか、副知事又は副市町村長は、その退職しようとする日前二十日までに、当該普通地方公共団体の長に申し出なければならない。ただし、当該普通地方公共団体の長の承認を得たときは、その期日前に退職することができる。
第百六十六条
 1.副知事及び副市町村長は、検察官、警察官若しくは収税官吏又は普通地方公共団体における公安委員会の委員と兼ねることができない。
 2.第百四十一条第百四十二条及び第百五十九条の規定は、副知事及び副市町村長にこれを準用する。
 3.普通地方公共団体の長は、副知事又は副市町村長が前項において準用する第百四十二条の規定に該当するときは、これを解職しなければならない。
第百六十七条
 1.副知事及び副市町村長は、普通地方公共団体の長を補佐し、普通地方公共団体の長の命を受け政策及び企画をつかさどり、その補助機関である職員の担任する事務を監督し、別に定めるところにより、普通地方公共団体の長の職務を代理する。
 2.前項に定めるもののほか、副知事及び副市町村長は、普通地方公共団体の長の権限に属する事務の一部について、第百五十三条第一項の規定により委任を受け、その事務を執行する。
 3.前項の場合においては、普通地方公共団体の長は、直ちに、その旨を告示しなければならない。

おまけとして以下も。

〇東京都副知事の定数条例
 昭和二二年六月三日
 条例第四一号
 東京都議会の議決を経て、東京都副知事の定数条例を次のように定める。
 東京都副知事の定数条例
 都に副知事四人を置く。

2016年7月9日土曜日

安倍首相と自民党が憲法を改正したがる理由がよくわかる動画を視てビックリした

安倍首相と自民党が何でそんなに憲法を改正したがるのかがよくわかる動画をたまたま見つけた。視て、ビックリした、というか、トンデモナイ連中が国政にたずさわっていることが、よくわかる。

これらの動画を見れば、安倍政権がどんなに危ない政権なのか誰でも理解できるだろう。3つばかり紹介しておく。動画をユーチューブにアップされた方に敬意を表する。

動画1(ここをクリックして下さい)

動画2(ここをクリックして下さい)

動画3(ここをクリックして下さい)

追記
自民党の憲法草案と現行憲法との違いをとてもわかりやすい形で表示してくれているサイトを紹介しておく。ここをクリックすると、そのサイトにアクセスできる。ここをクリックすると、PDFファイルに直接アクセスできる。こうした作業をされた方に敬意を表する。

自民党の憲法草案が、前近代的なトンデモナイ代物(しろもの)であることがよくわかるだろう。

2016年7月8日金曜日

今回の参院選は、日本がトンデモナイ国にならないために、とっても重要な選挙だ

参院選投票日が近づいてきたが、イマイチ盛り上がりが感じられない。我が家は郊外の大規模住宅団地の中にあるが、選挙カーや運動員の姿を見かけない。静かなものである。

参議院は良識の府などと言われてきたが、安保法案の例に見られるように、良識ある審議など、これっぽっちも行われずに、衆議院の下請け機関に成り下がっている。そして、参議院議員の多くは、そのことをちっとも恥とも不名誉とも感じない政治的知性も知識も矜持(きょうじ:プライド)も欠けた鈍感で軽薄な輩だ。

そうした輩が数を頼りに乱暴狼藉を働いている。今回の参院選では、与党と、それに与(くみ)しておこぼれを頂戴している幾つかの弱小政党が、そうした輩の数を増やして参議院を問答無用の狼藉の府に仕立て上げようとしている。

そうした狼藉者が参議院の議席の3分の2を占めると、憲法改正の発議が可能になる。安倍首相と仲間たちの言動を見聞きすると、日本が自国のトンデモナイ連中によって引き起こされた悲惨な経験を持っていることを全く知らないか、知ろうとせずに、脳内のどこをどのようにしたらそのような政治的言動ができるの理解に苦しむ。日本をトンデモナイ国にしようとする異国人か異星人ではないかと思えてくる。

良識の府が良識をかなぐり捨てているのなら、有権者は良識を持って、それを正さなくてはならないだろう。異星人から国を守り、平和で豊かな国を創るために。

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自民党の参議院選挙公約を覗いてみた。自画自賛と景気のいい話ばかりで、安倍政権が行ってきた政策に関する詳細な分析と評価には何も触れられていない。

国民の関心が高い社会保障に関しては、「持続的な社会保障制度の確立」が15項目にわたって述べられている。その最初の項目では次のように言っている。

「自立」・「自助」を第一に、「共助」と「公助」を組み合わせ、税や社会保険料を負担する国民の立場に立って、持続可能な社会保障制度を構築するとともに、弱い立場の方には、援助の手が差し伸べられるよう社会保障を充実します。

こんなことを公約とするのは社会保障制度をちっともわかっていないか、本気になって社会保障制度を充実させようなんて、これっぽちも考えていないからだろう。最初に、「自助」・「自立」を第一に、なんて言うこと自体が、そのことを表している。弱い立場の方には、援助の手が差し伸べられるよう社会保障を充実します、っていうのも、社会保障の何たるかを全くわかっていないからだ。社会保障制度の歴史を少しでもかじったことのある者なら、この公約が、時代錯誤の無知蒙昧な狼藉者の知的レベルと政治姿勢を見事に表現していると見抜くことだろう。

2016年7月5日火曜日

今回の参院選における18歳~19歳の投票率が高いことを期待する

今回の参院選から有権者の年齢が18歳以上になった。歴史的な改革とも言えるが、18~19歳の投票率がどれくらいになるか大いに関心があるところである。

以前にも、このブログで書いたが(2014年11月25日)、その中から少しばかり再掲しておく。

下の図は、2013年7月21日に行われた第23回参議院選挙の年齢別投票率である(総務省選挙部公表のデータ)。年齢が上がるほど投票率が高くなっていることが一目瞭然である。70代でも投票率は高く、80代になると急激に低下するが、それでも20代の投票率よりも高い。


上の図と一緒に掲載されている年齢階層別有権者数・投票者数・投票率の表を使って、年齢層ごとに有権者に占める割合(有権者比率)と投票率を掛けて各年齢層が選挙に与える影響力みたいなものを作成してみた(下の表)。

 
20代の影響力は60代の3分の1でしかない。80歳以上と同程度である。30代でも60代の半分である。こと選挙に関しては、高齢層が圧倒的に優勢である。そして、選挙への影響力が拮抗する年齢階層として、20~50代と60代以上とに二分することができそうである。大雑把に言って、働く世代(現役世代)と退職世代(年金世代)とが選挙への影響力という点で拮抗しているということである。しかし、年齢別の投票率が現在と同様であれば、こうした図式も近い将来には崩れることになるだろう。
 
18~19歳人口は240万人という。この若者たちの投票率がどれほどのものになるかで、若年層の選挙への影響力は大きく変わることだろう。現在の20代の投票率と同程度あるいは低いことになれば、若年層の選挙への影響力は益々低下することになる。
 
人口の高齢化が進んでいるので、有権者の高齢化も急速に進んでいる。有権者が18歳以上になったとしても、有権者の年齢構成には大きな変化はない。若年層が選挙への影響力を高めるためには、若年層の投票率が高齢層の投票率を大きく上回るくらいにならなければならない。18~19歳の投票率が若年層の投票率を大幅に増大させることになることを期待したいものである。


2016年6月15日水曜日

舛添都知事の辞任に至るまでの茶番劇から都民は国民は何を学んだか

到頭(とうとう)というか、やっとというか、舛添都知事が辞任を表明した。高額な外国出張費の問題に端を発した“騒動”は、これで一応の決着をみた。この1か月ばかりの間に繰り広げられた茶番劇は、国民を大いに楽しませてくれただろう。

なにゆえ、そんなに楽しませてくれたかと言えば、政治的なスキャンダルの中では、今回の不正行為や疑惑が“ちゃちぽかった”ことと、舛添都知事の言い訳が、誰が聞いてもウソとわかるような言い繕(つくろ)いに満ちたもので、いやはや何ともお粗末で子どもじみていたからだろう。それゆえ、ワイドショウやバラエティ番組の司会者やレギュラー、ゲストらは、“安心して”、舛添都知事をからかいや揚げ足取りの対象にして面白(おもしろ)おかしく論評できたにちがいない。

でもね、と捻(ひね)くれ老人は一人呟(つぶや)く。

あ~あ、面白かった、と全一幕の茶番劇を楽しんでお終いにしてしまったりするようでは、いつまでたっても政治はよくならないんだよね~。

捻くれ老人には、茶番劇からでも学びうることはたくさんあった。消化しきれないほどである。その意味では、舛添前知事には大いに感謝すべきかもしれない・・・

2016年6月14日火曜日

舛添都知事の不適切行為に対する都議会と都庁幹部職員、国会議員の対応に違和感を覚える

舛添都知事に対して都議会の各会派が不信任決議案を提出することを決めたそうだ。これまでの経緯から言えば、ごく自然な流れだと思うが、この段階に至るまでの都議会議員や国会議員、そして、都庁の幹部職員の対応には解せないことが多い。

舛添都知事の国会議員在職中の政治資金不正使用や都知事になってからの公私混同疑惑など、すべてがマスメディアのスクープによって“暴露”されたものばかりであり、その後に続々と浮かんできた疑惑も、記者会見での質疑応答から広く知られることになったものばかりである。

都議会での審議で取り上げられた疑惑も、マスメディアによって既に国民が知っていることがほとんどで、議員は、ただそれらを議場であらためて“おさらい”しているだけである。言ってみれば、原作があって、それを基に脚本を用意し、議員それぞれがへたくそな演技を得意になって繰り広げているだけである。

片や質問を受けて立つ舛添都知事は、すでに原作を十分に読み込んでいるので、というよりは原作の作者であるから、出来の悪い脚本でへたくそな演技で迫ってきても痛くも痒(かゆ)くもない。脚本が、何度でも同じ答弁をするしかないように構成されているから、それに従っていればいいだけの話だ。

都議会議員や都庁の幹部職員、そして国会議員は、マスメディアが報じるまで疑惑の追及も是正もしてこなかったことを大いに恥じるべきである。政治家の不正行為の監視をマスメディアに一任していたり頼りっきりになっていたりするような現在の状況は異常だと認識しなければならないだろう。不正行為や疑惑の追及、それらの是正の過程と結果が、政治家や都庁の幹部職員からマスメディアに流されるのが健全な報道のスタイルではないだろうか。

有権者は、舛添都知事の不正行為を糾弾すると同時に、都議会議員や都庁幹部が舛添都知事の不正行為をいち早く是正しえなかった/してこなかったことに対して異議申し立てをすべきであろう。そして、ワイドショーで熱弁を振るうレギュラーやゲストも、それほどまでに問題を深刻に捉えて、確信に満ちた論評をするのであれば、なぜ告発をしないのか、とても不思議である。

辞職を迫る都議会議員に対して、舛添都知事は、いま辞職すれば、知事選や都議会議員選がリオ五輪開催期間にぶつかるので都合が悪いから不信任決議案の提出を9月議会まで待つよう涙ながらに訴えたということだ。こんなへ理屈を堂々と口にするのは、もはや尋常な精神状態ではないのかもしれない。テニスやサッカーの世界大会が開催中だからといって、アメリカの大統領選の時期をずらしたなどという話は聞いたことがない。

それと不思議に思うのは、副知事という役職である。知事が任期途中で辞任したり失職した場合には、残余期間を副知事が代理で職務を務めることができるようにすればいいことだ。そうすれば、選挙費用も削減できる。議会がしっかりしていれば、知事だろうと副知事だろうと、政策を遂行していく上では何の支障もないだろう。

2016年6月9日木曜日

舛添東京都知事をめぐる茶番劇にはシェイクスピアも脱帽か

日本人が、これほど寄って集(たか)って茶番劇を盛り上げることができるとは、シェイクスピアも感心しきりではないだろうか。

知事の一連の行為は法律上はセーフだという。そして、専門家も素人も、“うん、そうなんだ”と、そのことを素直というかあっさりと納得した上で、道義的に許されないとか、人間性が疑われるとか、セコいとかケチとか、もはや政治の世界の出来事でも法律や制度の問題でもないかのようなお喋(しゃべ)りで盛り上がっている。

悪い奴だとか人間として許されないとか、そんなことなら私だって幾らでも言える、とばかりに、誰も彼もがお喋りの仲間入りをしている。あいつは悪い奴だ、そんなことやって人間として失格だ等々、全国民こぞって(といえるくらい)人格攻撃の嵐が吹きまくっている。

その嵐をまともに受けている舛添知事はと言えば、これも奇妙奇天烈な“第三者による厳密な調査”によって一連の行為は法的な違反行為には当たらないことを“証明”したにもかかわらず、口汚く罵(ののし)られても、名誉毀損で訴えるわけでもなく、“神妙な態度”で反省の弁を繰り返し、心を入れ替えて知事の仕事を続ける“決意”を表明し続けている。

お見事というか、鉄面皮というか、蛙の面に小便そのままに、まさに千両役者ならぬ三文役者を演じている。そして、このときとばかりにベテラン、新人とり混ぜて、まさに有象無象(と言っては失礼か)が大挙して登場し(登場させられ、と言った方が正確か)、これまた絶妙な脇役として主人公の演技を大いに引き立てている。

アメリカでは大統領選が酣(たけなわ)であるが、話題づくりということでは、舛添知事はトランプ候補に負けず劣らずである。

テレビを通じて政治家の不正行為をめぐる騒動が、司会者やコメンテーターの茶化した物言(ものい)いで国民におもしろおかしく伝えられてエンターテイメントに化している。誰でもがコメント可能なように話が進められるので、茶飲み話が延々と続く。そんな番組に大金を払うスポンサーも太っ腹と感心する。

いたずらに時間を費やすということでは、都議会議員も同じだ。地方議員とは言え、一応は政治家の端(はし)くれという自覚もないのか、知性も政治的感覚のかけらも感じさせない演説を入れ替わり立ち替わり繰り広げている。辞任しろとはいうものの、辞任に追い込むだけの方策を用意しているわけではない。だから、舛添知事にとっては痛くもかゆくもない。聞き流しておいて、“ごめんよ、そんなに言うなら、これからは文句が付けられないようにするから、勘弁してよ。なんなら、知事の給料の一部を削減するからさ~”と嵐が過ぎ去るのを待っている。

長い間、舛添知事が行っていたことを、都議会も都庁も辞めさせることができなかったのはどうしてだ、というところに目が向けられていない。江戸時代の悪代官よろしく、私利私欲にまみれて一人で好き勝手にできる時代ではないから、“協力者”や“同調者”、同じように甘い汁を吸っていた連中が少なくなかったことだろう。要するに、組織ぐるみでなければできないようなことをやっているということだ。その連中は、いま、ヒヤヒヤもんだろう。いつ、矛先が向けられる心配で、ひょっとすると、飯も喉を通らないかもしれない。もっとも、そういう連中は図太いだろうから、平気の平左を決め込んでいるのかもしれない。

一度やってみて味を占めたら止まらなかったんだろう。周(まわ)りにいるのは、咎(とが)めるどころか好き放題にさせてくれる物わかりのよい連中で、舛添知事は、その連中を理解のある大事なお仲間と思っていたことだろう。だから、知事職っていうのはなんて楽しい仕事なんだろうと毎日をウキウキした気分で過ごしていたにちがいない。

“あっ、その費用は政治資金でまかなえますよ”とか、“公用車はいつでもどんどん使って下さい。運転手も手当が増えて喜ぶでしょうから”とかなんとか言って、知事のご機嫌をとる太鼓持ちのような取り巻きの官僚がいたことだろう。舛添氏は、都庁の上級役人にとっては、とても御(ぎょ)しやすい知事なのであろう。

遊びに惚(ほう)けさせていればご機嫌で何でも言うことを聞くのだから、無用の外国出張も、航空機のファーストクラスも、高額な宿泊費も、自腹が痛むわけではないので、好きにさせておけばいいと思っていたことだろう。

政治家と金をめぐる問題は止むことがない。政治の世界は利権の温床である。政治家としての資質の問題でもあるが、それを見抜けずに選んでいる有権者にも大いに責任があるというべきだろう。茶番劇を面白がって観劇している場合ではない。

2016年6月4日土曜日

消費税の増税再延期に対する反応やコメントに日本人の政治感覚を疑う

安倍首相が消費税を8%から10%に引き上げることを再延期したことに対して様々なことが言われているが、奇妙に思えることは、再延期が公約違反だと批判して、あたかも消費税を引き上げるべきだというような論調が多いことだ。テレビが放映した街頭インタビューでも、記者がそう仕向けたかのように、公約違反への批判めいた意見や感想ばかりが目立った。

たしかに、野田政権時代に、税と社会保障の一体改革をスローガンに、民主党と自民党が合意して消費税の段階的引き上げを決めた。しかし、消費税を5%から8%に引き上げて税収を増加させたことが、社会保障の充実へ向けた何らかの政策的効果をもたらしただろうか。その間に、年金は減額され、保育所の待機児童や保育士の待遇をめぐる問題は一向に改善されないなど、消費税増税が社会保障政策に何ら反映されることなく今日まで来ている。

その一方で、東京五輪の準備に向けてのお祭り騒ぎと競技場建設に国家予算を湯水のように使い、防衛費を増額し、毎年実施する必要もない全国学力テストや効果が無いままにダラダラと続けている少子化対策に多額の予算を投じている。財政健全化を図るといいながら、有効な手段を案出することもなく、赤字国債を発行し続けている。パナマ文書が暴露した課税逃れについても口をつぐんだままである。

すべてを社会保障費の膨張の所為(せい)にして消費税増税を進めている。たしかに、高齢化が進んで社会保障関連の政策に必要な費用は増大し続けているが、他方では、何の工夫もなく相変わらず効果の乏しい政策に膨大な予算を投じ続けている。財政健全化に本気になって取り組んでいるとは到底思えない。まずは、何でもかんでも社会保障費の膨張にして増税ありきのような子どもじみた財政政策を止めて、少子高齢・人口減少社会に対応した構造改革について政治家全員が本気になって考え、実行することである。それでこそ、真の政治家と言える。そして、国民は、そうしたことを真剣に訴えなければならないだろう。

所得税や消費税など、様々な税金が徴収されているが、国民にとっては税金は安いほどよいし、できれば税金などは無いに越したことはない。しかし、石油産油国のように、国家が莫大な収益を上げうる事業ができればそれも可能だが、そんなことは日本では望み得ない(ひょっとすると可能かもしれないが)。

税金は払うしかないが、払う側としては、納得して払いたい。バカな政治家や官僚が、どうせ自分の金ではないのだからとでも言うように、好き勝手に無駄遣いしているのでは我慢ができないのである。

2016年5月31日火曜日

羽生名人が失冠してしまい残念

第74期将棋名人戦で、羽生名人(45歳)が佐藤天彦八段(28歳)に負けて名人位を失った。羽生ファンの私にとって、実に残念なことである。1勝3敗で迎えた第5局は、将棋ソフトによる検討では、終盤になっても互角の評価が示し続けられたほど緊迫した勝負であった。

終盤入り口では僅差ながら先手の羽生名人が有利とする評価値が出ていたが、佐藤挑戦者は終始一貫して無理のない的確な攻防手に攻めの糸口も見いだせないままに投了に追い込まれてしまった。

これで、羽生さんは、棋聖、王位、王座の三冠に後退した。三冠でも、途轍もなく凄いことだが、防衛すれば名人10期目となって、さらに連覇をと期待していただけに、残念至極である。

羽生さんが名人位を獲得したのが23歳の時だから、佐藤天彦八段が28歳で名人位を奪取したことも驚くことではないが、正直言って、どちらが名人位が似合うかと言えば、はやり羽生さん、と言いたいところである。

でも、熱烈な将棋ファンである私は、佐藤八段が圧勝で名人位を獲得したことを快挙として素直に祝福したいと思う。

将棋界の世代交代には興味がひかれる。名人位をはじめ将棋のいずれかのタイトルをとった棋士も、年齢が上がるにつれて勝てなくなり、下のクラスに落ちていき、再度復活するのが難しくなる。

かつて「神武以来の天才」と呼ばれ、名人位ほかのタイトルを獲得し、多くの棋戦で優勝経験のあるA級在位36期を誇る加藤一二三九段(76歳)は、いまはC級2組で、前年度は10戦全敗である。その加藤九段は、最盛期よりも弱くなったとは思っていない、というようなことを言っていた。

自分より他の人が強くなったのが勝てない理由ということだが、長い期間、加藤九段の成績は下降傾向で推移してきた。これは、加藤九段の力では勝てないほどに強い棋士が多くなったのか、加藤九段が明らかに弱くなったことなのか、興味あるところである。では、羽生さんはどうなのか。いずれ、何かの形で論じてみたいと思っている。

2016年4月20日水曜日

三菱自動車の燃費データ不正は何を教えているか

三菱自動車が不正な燃費データで顧客をだましていたことが発覚した。報道によれば、不正の手口は、タイヤの路面抵抗や空気抵抗などを表す走行抵抗値を燃費が良くなるように改竄(かいざん)して、実際の燃費試験値よりも5~10%高くしたそうだ。カタログ燃費がリッター30㎞だったとすると、実際には、29.70297㎞~29.85075㎞ということになる。なんだか、燃費が向上したようにはちっとも思えないが。

実際の試験燃費と改竄した燃費にそんな小さな差しかないのに、こんなに大きな問題になってしまうことの方が恐ろしい気がする。もちろん、不正なデータでウソをつくことは許されないが、この問題の背景には、凄まじい燃費競争がある。低燃費にこしたことはないが、現在の燃費競争は、小数点以下の数値で行われている。

自動車をよく運転している人は、カタログに記載されている燃費は実際の燃費と大きく異なることを知っている。そして、運転の仕方やタイヤの空気圧、車載物の重量で燃費が大きく変わることもよく知っている。コンマいくつかの燃費の差などは、そうしたことで消し飛んでしまう。

しかし、自動車メーカーは、数字に表される燃費で勝負している。おそらく、開発者たちには、コンマいくつかでも試験燃費を向上させるようにすごいプレッシャーがかけられていたのではないかと思う。考えようによっては、悲しい出来事と言うべきかもしれない。

エコカー・ブームを作ったのは自動車メーカーではなくて国=時の政府である。国土交通省の「自動車燃費目標基準について」というウェブページによれば、1979年以降、以下のように、燃費基準が策定され続けてきている。そして、その過程で、エコカー減税やなんやらで低燃費車を優遇する一方で、燃費基準に達していない古い車には自動車税を上げるという制裁を課してきた。

1979年  6月: エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)制定
1979年12月: ガソリン乗用自動車の燃費基準の策定 (1985年度目標)
1993年  1月: ガソリン乗用自動車の燃費基準の改正 (2000年度目標)
1996年  3月: ガソリン貨物自動車の燃費基準の策定 (2003年度目標)
1998年  6月: 省エネ法改正・・・「トップランナー基準」の考え方の導入
1999年  3月: 乗用車、小型貨物車のトップランナー基準の策定 (ガソリン車は2010年度目標、  ディーゼル車は2005年度目標)
2003年  7月: LPガス乗用車のトップランナー基準の策定 (2010年度目標)
2006年  3月: 重量車(トラック、バス等)のトップランナー基準の策定 (2015年度目標)
2007年  7月: 乗用車、小型バス、小型貨物車のトップランナー基準の策定 (2015年度目標)
2013年  3月: 乗用車、小型バスのトップランナー基準の策定(2020年度目標)
2015年  7月: 小型貨物車のトップランナー基準の策定(2022年度目標)


かつてに比べて自動車の燃費は格段に向上してきたことは確かであり、プリウスに代表されるハイブリッド車やマツダのスカイアクティブの技術は、素直にすごいと思う。軽自動車はもともと普通車や大型車に比べて遙かに低燃費であったが、さらに燃費を向上させるために新技術を次々に開発してきた。これも、また、驚嘆に値する。

しかし、コンマいくつかの燃費向上で販売競争をすることから生じた今回の試験燃費データの改竄事件は、自動車メーカーもユーザーも、自動車の燃費について、色々と考え直す必要があることを教えているのではないだろうか。

三菱製の自動車は好きだった。かつて、スーパーシフトと呼ばれた副変速機を備えたマニュアルミッションのミラージュ(黄色の3ドアハッチバック)に乗っていた。チェンジレバーが2つあって、8速という優れもので、ガンガン走った。軽自動車のミニカ(白色)にも乗っていたことがある。これは、主に妻が使用していた。パワーステアリングが電動式で、長年乗っていたらパワステが時々効かなくなったりして修理に出したこともあるが、近くの修理工場では手に負えなかったことが懐かしい思い出だ。

2016年4月17日日曜日

熊本を中心とする大地震からの一刻も早い災害復旧を

まさか熊本で、と思った人も少なくないだろう。テレビで震度7の大地震の発生が報じられたとき、
熊本で地震が発生するようなことを今まで聞いたことがなかったのに、と思った。亡くなられた方と親族や関係者に心からお悔やみ申し上げるとともに、家を失ったり避難されている方には一刻も早く平穏な日常生活が戻ることを祈るばかりである。

大地震の報に接したときにすぐさま思い出したことは、安倍首相が消費税引き上げの議論の中で、“リーマンショックや東日本大震災のような異変が生じない限り、予定通りに消費税を10%にする”と何回も“力強く”口にしていたことだ。それを聞いたときには、なんて変なことを言うのか、どういう意味なのか、消費税とりーマンショックや東日本大震災がどういう関係にあるのかと訝(いぶか)しく思った。そして、リーマンショックや東日本大震災のために大変に辛い、苦しい、悲しい思いをした人々がたくさんいるにもかかわらず、そうしたことに思いを馳(は)せることなく、りーマンショックや東日本大震災を異変の例として得意げに取り上げる安倍首相の無神経さと知性のなさに、一国の首相の発言かと、ほとほと呆(あき)れるやら腹立たしく思うやら、情けなくなってしまった。

まさか、安倍首相が熊本の地震を予測していたわけではないだろうが、全く以て(まったくもって)奇妙でゾッとする。よもや消費税引き上げを延期する口実にするようなバカげたことを口にすることはないだろうが、これまた首をかしげざるを得ないようなことが報道された。オスプレイを災害復旧に利用するという案が検討されていることを管官房長官が話したそうだ。オスプレイの配備は有耶無耶のうちに既成事実化しているが、これを機会にさらにオスプレイの“有効性”を印象づけようとしていることが見え見えである。これほど露骨に災害をも政治に利用しようとするのが現在の内閣であるということなのか。

地震は恐ろしい。いつ、どこで発生するか、現在の高度に発展した科学でも正確な予測は困難である。50年以内にどこそこで大地震が発生する確率が何%と言われても、それが研究の成果としては評価されるかもしれないが、その成果が防災に直結しているとは誰も感じてはいないだろう。いつ、どこで、どの程度の規模の地震が発生するかは永遠に予測できないことではないだろうか。

地震が起きるたびに地震学者がマスコミに登場するが、そのときの地震発生のメカニズムについての説明と余震への注意を促すばかりである。いわゆる後追いであり、結果の説明にすぎない。

一目で災害の危険があるとわかるところに建っている老朽家屋で今日なお大勢の人々が住んでいる。家屋の倒壊で亡くなられた方には、そうした家屋に住むお年寄りが多い。なぜか。経済的事情で住宅の補修や安全なところに移転することができないからである。阪神大震災でも老朽家屋の倒壊で多くのお年寄りが亡くなった。

地震予知に膨大な国家予算がつぎ込まれているというが、その予算と防災対策や災害救助、復旧のための予算とを勘案したときに、いずれが有意義かを一考することが必要ではないだろうか。

2016年3月11日金曜日

東日本大震災から5年を経てもまだ復興が道半ばなのはなぜか

甚大な被害をもたらした東日本大震災から5年を経た。しかし、復興は、なお、道半(みちなか)ばである。

報道によれば、「避難生活を送る人はなお17万人以上に上り、恒久的な住まいの一つ、災害公営住宅の完成は被災3県でまだ半分にとどまる。政府が決めた集中復興期間は3月末で終わるが、被災地が日常を取り戻すのは遠い」(朝日新聞3月11日朝刊)。

これも報道によれば、これまでの5年間で26.3兆円が復興費に費やされた。そのうちの10.5兆円は復興増税によるものである。この復興増税は2013年から始まり、所得税と個人住民税、法人税がそれぞれ2.1%上乗せされ、2037年まで続く。ただし、法人税に限っては安倍政権の下で2014年までの2年間で打ち切られた。経済成長を促進するためだという理由からである。

復興増税は2037年まで続くが、復興庁の設置期限は2021年3月までで、それまでに復興・創生期間が終了する予定になっている。その間の2020年に、東京オリンピックの開催が予定されている。よくわからない復興計画である。

復興予算に関しは復興庁のホームページに詳細が掲載されているが、とても複雑で、素人にはよくわからない。それらの中から、復興関連予算の過去の執行状況と復興庁の平成28年度予算の概括表をここに掲げておく。

表1

表2

国家予算の使い道に関しては、その道の専門家に聞きたいところだが、これまでに目的外使用や不適正処理が何回か報道された。それにしても、これだけ巨額の予算を費やしているにも関わらず、復興が道半ばで、苦しんでいる被災者がなお多いというのは、たしかに被害の規模は大きかったとしても、復興政策に問題があるといわざるを得ないだろう。どう考えても、本気になって真剣に復興優先の政策を進めているとは思えない。

工学的技術や社会的技術は日進月歩であり、災害復旧にもそれらを総動員することによって、かつてよりは遙かに迅速で効果的な復興が可能なはずである。それができないのは、ひとえにそれらを正しく活用できない/しようとしないで愚策ばかりを弄する輩が莫大な予算を浪費しているからだ。そこには、国民に優しくない政府がある。

東日本大震災の主因は巨大津波だが、迅速な復興を妨げている大きな要因が原発事故であることは論を俟(ま)たない。表1には、「原子力災害からの復興・再生」のための予算が3兆6,952億円が当てられている。表2では、平成28年度には、そのための予算として1兆167億円が計上されている。常識的に考えれば、原発事故が起きていなければ、それだけの予算を生活と生産の復興に集中投入できたら、と被災者のことに思いを寄せる者ならば誰でもが悔しくなるだろう。

なぜ、津波による被害をふせげなかったのか、なぜ、原発事故は防げなかったのか、ということに関する議論はこれまでに繰り返されてきた。そして、そうした議論の中で、しばしば、「想定を超える」とか「想定外の」という表現が使われてきた。これらの表現が用いられるときには、「誰にも責任がない」ことを暗に主張している。

たしかに、自然界のみならず人間界においても、人智を越える事象が生じることは少なくない。しかし、である。少し考えてみれば、人智を超える事象が生じることがある、というのは、人智を超える事象が生じることがあることを想定していることでもある。

人間の素晴らしさは、ある事象の発生を予測でき、それに対処することができることだけではない。いくら精緻で厳密な検討をしても、なお予測不可能なことが生じることがある、ということを想定できる能力を持っていることである。

だから、想定外だから、想定を超えることだからといって、責任を免れたり、責任を問うことをしないことは許されることではない、ということだ。その件に携わって、どのような形にせよ有形無形の報酬を受けてきた者は、想定外とされた事象によって被害が生じた場合にこそキッチリと責任をとらなければならないだろうし、その事象について発言する者は、誰が/どういう立場の者が責任をとるべきかを明確にし、「知らぬ顔の半兵衛をきめこむ」輩を厳しく追及すべきである。

ベーコンの言葉として「智は力なり」は有名である(諸説はあるが)。自然を正しく理解する知識を得れば自然(の猛威)を制御できる、という趣旨の言葉として私は理解してきたが、制御できないことをすることを制御することも人間の知恵である。やろうと思えばできるだろうが、それをやることによって生じる悲惨な/取り返しのつかない結末を考えて、やらない、ということだ。そんなことは誰でもがふつうにそうしている。敢えてやろうとすることを一般に冒険という。冒険家は、普通の人ができないことをやる人ではなくて、普通の人ならやろうと思えばできるけどやらないことをやる人のことをいう。

人間は、できること(可能なこと)はやりたいという欲求に衝き動かされる動物である。たしか、同じようなことを、エーリッヒ・フロムが『希望の革命』の中で述べていて、学生時代に読んだときに、自分だけの思い込みではなかったことに驚きと嬉しさを感じたものだ。科学技術の進歩は、そうした欲求を充(み)たし続けてきた過程でもある。その成果は、豊かで便利な生活と取り返しのつかない悲惨-幸福と不幸-の両方を人類にもたらしてきた。前者は、経済を発展させてきた生産技術であり、それによって生み出された様々な新商品である。後者は、公害病であり、核爆弾(原子爆弾:原爆)に代表される兵器である。

人間は経験から学ぶ、と言われている。しかし、経験から学ぶだけならば、犬猫でもできる。経験から学ぶことは動物一般に備わった能力なのだろう。人間は、経験から学ぶだけではなく、経験したこともないことを想像力(イマジネーション)-人間固有の能力だと私は思っている-を働かせて、それまでは見たことも聞いたこともないものを作り出したり、将来を見通したりすることができる。

ところが、始末が悪いことに、人間は、想像力を膨らましすぎて経験から学んだことを反故(ほご)
にしてしまうことがある。こうなると犬猫以下で、経験から何も学ばなかったと同じになる。「羮(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ではなく、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」になってしまう。

原子力発電も核爆弾も核分裂で生じるエネルギーを利用するということでは同じ原理に従っている。異なるところは、原子力発電は核分裂で生じるエネルギーの大きさを制御しながら利用するのに対して、核爆弾は制御することなくエネルギーを最大限に発揮させようとするところにある。要するに、核エネルギーを制御できる技術を開発できたことが原子力発電の開発を可能にしたということだ。

しかし、東日本大震災の際に生じた福島原発の事故と、その後の対応が教えていることは、原子力発電は、現在の技術では-ということは人間の力では-制御しきれない多くの問題を抱えているということだ。良心的な科学者、技術者であれば、そのことは重々理解しているはずである。そうでなければ似非科学者、似非技術者であろう。あるいは思想を持たない犬猫同然の動物に過ぎない。技術者は思想を技術で表現する、と言った学者がいた。誰だか忘れたが、昔に何かの本で読んだ記憶がある。

原子力発電は、綱渡り的なきわどい冒険と言えるかもしれない。その人個人が自分の欲求を充足するために、他人には何の被害を与えることなく自分の責任でことを処理できるのであれば、冒険は勇気ある行為として賞賛されてもよいだろう。

しかし、今回の原発事故のように、多くの人に被害と迷惑をもたらしたあげくに、いまだに事故処理に手間取っていて、いつ処理が終わるかもわからないままに膨大な国家予算を浪費続けているのは、冒険ではなくて明らかに犯罪である。にもかかわらず、誰も自ら責任を取ろうとしないし、責任の所在を明らかにしようとさえしない。

そればかりではない。原発再稼働が着々と進められている。直近の経験から学ぼうとしないし、想像力も働かせることなく、被害は他人事(ひとごと)とばかりに、あの手この手で言い繕いながら、大仕掛けの手品よろしく制御できないことを制御できるふりをして事を進めている。如何様師も面目丸つぶれであろう。

原子力の安全神話は崩壊した。国民はだまされ続けてきたが、まだ、だまし続けることができると高を括っている。だが、本当に恐ろしいことは、制御できないことを知りながら、科学者、技術者が自分をだまし続けながら原子力発電の安全性を口にすることである。

2016年3月4日金曜日

教員の部活動顧問が社会問題になっている

たまたま学校教員、過酷過ぎる部活顧問労働…百日連続勤務、休みは1年に7日、残業代なしという記事を目にした。

中学や高校の教員を子どもに持つ知り合いが何人かいて、クラブ活動の顧問をしていて、ろくに休みも取れない毎日を送っている、ということは聞いていた。それにしても、上の記事を読むと、ひえー、という感じがする。

部活動の顧問をすると、そんなにも時間がとられてしまうのか、とビックリする。教員としての本務を果たせないのではないかと思ってしまう。教員になると、ほとんど勉強しない、なんて話を聞いたこともあるが、そんなことでは、教員としての研鑽を積むことなんかできなくなるし、そうすることが教員に求められる、なんてことは忘れてしまうのではないだろうか。そして、そうしたことが学校で当たり前になってしまっているとすれば、学校は、もはやまっとうな教育機関ではないことになる。

私は、中学、高校時代を自慢ではないが(自慢しているがな)、運動部で活躍した。高校時代は、早朝練習があったので毎日弁当を2食分もっていったし(早弁と昼食)、週休2日制ではなかった時代だから、土曜日はたっぷり練習時間をとったし、日曜日も午前中は練習だった。夏休みや冬休みには合宿が何回となくあったし、正月もなかった。

大好きだった海水浴も、中学と高校の6年間は一度も行った記憶がない。海水浴は体に悪い、なんてことを聞かされていたし、行く暇もなかった。

そんなクラブ活動漬けで過ごした6年間だが、部活動の練習に顧問の先生が来たのは数えるほどしかなかった。それも、その日ずっと練習を指導したりしたことはなかった。まあ、たまに顔を見せるくらい、というところだった。公式大会の時には付き添ってくれたこともあったと思うが、あまり記憶にないから、大きな大会だけだったかもしれない。

中学時代の記憶では、大会が近い頃に早朝練習があって、そのときには、顧問の体育教員が珍しく体育館に来た。何でそんな記憶があるかといえば、その日に、その先生が、アメリカ大統領のJ.F.ケネディが暗殺されたと教えてくれたからだ。練習を見に来たついでなのか、その事件を知らせるためについでに練習を見に来たのかわからないが、その先生は興奮して話していた記憶がある。運動バカの集まりであった私たちは、そのことを聞いても、ことの重大さを考えることができなかったが、なにか、とんでもないことが起こったということを、その先生の話しぶりから感じた。

高校時代は、卒業生で地元で働いていたクラブの先輩がコーチとして毎日指導してくれていた。そのことは顧問も承知していたし、学校の許可が必要とか面倒なこともなかったようだし、もちろん無給であった。本当にそのスポーツが好きだったことと、強くしたいという思いが強かったのだと思う。ととても厳しい指導だった。自分たちだけでは絶対にできない練習であった。素晴らしいコーチであった(早世してしまったのが残念である)。そのおかげで県内有数の強豪校として常に県大会でベスト3の位置を維持していた(残念ながら国体もインターハイ全国大会も、あと一歩のところで代表にはなれなかったが)。

クラブ活動が試合の勝ち負けを度外視した同好会のようなものならともかく、競技力を高めようとするならば、優れた指導力をもち、熱意に溢れて、その指導に全力を傾けることに本人が満足感・充実感を覚えることができる指導者が必要である。現在の学校のクラブ活動では、運動部であろうと文化部であろうと、かつての時代よりも競技力や技術、技能、設備、用具などのレベルが格段に上がっていることだろう。そうであれば、なおさらのこと、指導に専念できる指導者が必要になろう。こう考えると、一般の教員にそうしたことを求めることには無理があるのは明らかである。

そうした中で、本来ならば、授業の準備や教員としての研鑽を積む時間を削って、疲労とストレスを抱えながら時間外労働として部活顧問をしている、というわけだ。考えてみれば異常な世界であるが、そうしたことが是正されずに続いているのは、部活顧問も教員の本務の一つと思い込んでいる教員が少なからずいるからだろう。そして、部活顧問も一生懸命にやる教員が良い教員とする風潮が教育界にべたーと蔓延(はびこ)っているからだろう。

もちろん、部活顧問も一生懸命にやる教員が悪いというわけではない。私も高校時代に、クラブ活動の顧問をして全国大会の常連になれるような強い運動部を育てたい、という気持ちから高校の教師になりたいと思ったことがある。大学でも運動部に所属して教員免許も取得した。休みに帰省した折には、母校の運動部の合宿に付き合ったりもした。しかし、体を壊して激しい運動を続けられなくなったことから教師になることを断念したほど教師になる動機も部活動だった。そのころは部活動顧問の問題などは考えもしなかった。まあ、筋肉でしかものを考えられないような運動バカで思考も単純だったからだろう。

いまや学校はブラック企業と同じだとも言われている。労働という面では、教職員組合もだらしないというか組合としての機能を果たしていないというか、組合として部活動問題の責任は大きいことを自覚すべきである。教員の本務という面では、問題を放置したままでいる校長などの管理職や教育委員会の責任はとりわけ大きい。

では、解決策としてどういうことが考えられるか、ということになるが、思いつくままに幾つかの選択肢を並べてみよう。

1.部活動を全面的に廃止する。
2.教員の時間外労働に対して時給計算に基づき正規の賃金を支払う。
3.指導者を外部から招聘する/外部に委託する。
4.部活動は生徒の自主的運営に任せ、顧問はその部の管理に当たる。

1は、部活動を学校から切り離すことである。アメリカなどでは、そうした方法で生徒のクラブ活動が行われていると聞いたことがある。生徒にとっては、学校内で行おうが学校外で行おうが大きな違いはないだろう。活動費などは従来通りに学校の負担とすればよい。

2は、若干の手当などということではなくて、時間外手当や休日出勤など一般の労働と同等の賃金を正規の報酬として支払うことである。おそらく相当の金額になるだろう。この場合は部活動顧問を従来通り教員が行うことを前提にしているが、強制ではなく、教員の意志に任せる。いいアルバイトになると思えばやるだろうし、それよりも勉強や家族サービス、休養の時間が欲しいと思えばやらなければよい。

3は、いま流行(はやり)のアウトソーシングである。部活動専属の職員として正規あるいは非正規に雇用するかどうかは契約によることになろう。外部委託の場合には、運動部であれ文化部であれ、専門家が指導することになるだろうから、費用は嵩むだろう。しかし、学校や教育委員会が部活動は必要と考えれば、費用は負担せざるを得ない。

4は、かつて私が経験した部活動のスタイルである。中学生ともなれば、上級生が練習のメニューを作り、立派に部活動を運営できる。高校生なら、なおさらのことである。県大会や全国大会に無縁の部でも、生徒は練習に励み、部活動を満喫できるだろう。

大事なことは、教員として生徒の教育に専念できることである。部活動の顧問をすることも立派な教育活動の一環だ、なんて声が聞こえそうだが、よほど器用か才能豊かで何でも手早くこなすことができる人とか、よっぽど要領が良い人とか、授業や勉強に手抜きすることに全く罪悪感を感じない人とかでないかぎり、教員として教育と部活動顧問の両立を図ることは、相当無理をしないとできないことだろう。

部活動顧問をしないと変な奴とみられるとか自分勝手とみられるとか、そんな風潮は一掃しなければならないだろう。一億総活躍などと戯言を言っていないで、活躍しすぎて苦しんでいる教員や、本務でもないことに強制されて悩んでいる教員のことを真剣に考え、教育現場の悪しき風習を早急に無くすよう、関係者は尽力すべきだろう。

2016年2月21日日曜日

愛車の平成10年式アルトを涙を呑んで手放した

ついに、愛車の平成10年式アルト-4ナンバーの商用車で4速のマニュアル・ミッション-を涙を呑んで手放した。実に悲しい思いだ。

実によく走った。3速でも坂道をガンガン走った。在職中は通勤にも使った。退職してからも、老妻とのチョットした遠出や買い物に、また、妻の買い物や趣味のお出かけにと、まさに活躍した。老妻は、30代後半に免許を取ってから、ずっとマニュアルミッションを運転してきたから、いまでも、このアルトを上手に操ることができる。

自動車税は4,000円で有料道路料金も普通車の半額料金、タイヤも4本で1万円以下、バッテリーも小型なので低価格だったし、オイルも3リッターですんだ。車検もずっとユーザー車検でやってきたので必要最小限の費用ですんだことなど、維持費を気にしないで乗り回すことができた。

燃費は詳しく計ったことはないが、なにしろパワーウィンドウなどの電動装置やらなにやら余分なものが何も付いていないので超軽量でマニュアル・ミッションだったので、優にリッター15キロ以上は走ったようだった。

エアコンも調子がよいし、CD付きのラジオはAM、FMともに音質良好だったし、エンジンの噴き上がりも上々で、エンジン音も良好。まだまだ十分に走る車だったが、老妻に言わせれば、もうボロボロでエンジン音がうるさくて、人がビックリして振り向く(そんなことはないと思うが)から恥ずかしくて載っていられない、ということで、買い換えることにした、という次第。泣く子と老妻にはかなわない、というところか。

下取り価格は0円という査定だった。私にとっては、すごい価値があるものも、市場価格では、そういうことになるというわけだ。個人にとっての価値と市場価値の乖離(かいり)は甚だしい、ということを実感する。馴染みの販売店(ここでこれまでの20年間で5台購入した、といっても総額は中級の新車1台分くらいか)の馴染みの営業マン(既にベテランになって管理職)に、「展示車にしたら」とか「代車で使ったら」とか「ガソリンがまだいっぱい入っているから営業で使ったら」と提案したが、「残念ですが潰されますね」と笑っていた。

というわけで、記念に、その愛車だったアルトを紹介しておこう。ぜひ欲しい、と言われても、残念ながら(誰も残念がらないか)、もう遅い・・・。





 

2016年2月7日日曜日

小保方晴子さんの信じがたい言動を子を持つ親の立場から考える

このブログで、2014年5月12日に、「STAP細胞騒動を子を持つ親の目から考える」と題して一文を認(したた)めたが、小保方嬢が最近「あの日」と題する手記を出版したとの報道に接して、その一文を思い起こした。「親の目から考える」と奇妙な表現を使ってしまった。本来なら「親の目で見る」とか「親の観点から見る」、「親の立場から考える」とすべきところだ。それはともあれ、彼女が何のためにその手記を書き、出版社が何のためにそれを出版したのか理解に苦しむが、彼女も出版社もそうした信じがたい異常な行為がまかり通ることに恐ろしさを覚える。

仮に小保方嬢が自分の娘であれば、そんな手記を出版することなど断じて許さなかったであろうし、出版を企画した講談社に必死になってその企画の取り消しを求めただろう。出版社のいい年をした連中も、自分の娘だったら、と考えたことがあるだろうか。自分の娘が、何度も何度もいたぶられ、恥をさらすことに、親なら耐えられないと思ったことはなかったのだろうか。

STAP騒動の最中(さなか)に、小保方嬢をしたり顔で擁護したり弁明の機会や再実験の場を用意するなどした理研の当時の野依理事長をはじめとする幹部連中や当時の下村文科大臣、兵庫県知事なども、一時(いっとき)でも、親の立場から考えたことがあるだろうか。親なら、娘が犯した不正行為やデタラメを一番よくわかるはずである。そして、正すことができるはずである。本当に娘のことを思うなら、中途半端で曖昧な庇(かば)い立てをすれば、結局は一番傷つくのは当の娘自身であることを知っているはずである。

手記は売れているという。おそらく、興味本位で読む人は少なくないかもしれないし、擁護派が大量に買い占めているのかもしれないが、その手記が大手出版社から堂々と出版された背景として指摘しなければならないことは、STAP騒動の過程で繰り返されてきた多くの茶番の仕掛け人と支持者、支援者が誰も責任をとろうとしないで知らんぷりを決め込んだり無関係を装ってきっちりとした決着をつけないままに放置してきたことがある。

小保方嬢も、もう好い加減にデタラメとごまかしの上塗りを止めて、これ以上おのれの愚かさをさらけ出すことをしないことだ。そのことは、もう十分に知れ渡っているのだから。そして、一日も早く自分自身で決着をつけ、普通の生活に戻ることだ。そのことを誰が説得するかは、もう言わなくてもいいだろう。

聞くところによると、手記には、科学の道を閉ざされて悔しいようなことを書いているという。自分と自分を取り巻く世界を客観視できない者が、科学を口にすること自体が矛盾していることに気がつかなければならないだろう。

人から嘲笑を買いたいのであれば、それはそれでいい。自虐志向を人生観にしていると人々は理解してくれるだろう。しかし、他人を誹謗したり被害者面(ひがいしゃずら)することは許されない。それを続ければ、もう、誰も相手にはしてくれないだろうし、再起の道も完全に閉ざされるだろう。

それにしても、こうした異常な事態を生じさせている連中は許されない。

2016年2月5日金曜日

羽生四冠が王将戦第3局に勝った

郷田王将に挑戦している羽生四冠(名人、王位、王座、棋聖)が王将戦第3局(2月4日・5日)に1勝って2勝1敗と勝ち越した。

羽生ファンの私には気分のよい1日になった。

中継に釘付けにされるほど白熱した戦いであった。読みと構想力が試される力戦調の勝負で、まさに鎬(しのぎ)を削(けず)りあう実に見応えのある一局であった。将棋ソフトの差し手と羽生四冠の差し手では全く異なっていたり、全く同じであったり、解説者の読みと同じであったり、異なっていたりと、中・終盤の攻防にハラハラ、ドキドキしながら楽しんだ。

守勢に回った郷田王将の59手目を6六銀と予想して中継のチャットに書き込んだら、郷田王将がその手を指した。難解な局面の62手目で、ひょっとして2五桂馬と予想して中継のチャットに書き込んだら、羽生四冠が、その手を指した。おおおお、とビックリした。どちらも予想されにくい手だっただけに、うれしくなった。終盤、ソフトの評価値は羽生四冠断然有利を示していたが、81手目に郷田王将が王手をかけた。これは100手まで行く、と中継のチャットに書き込んだら、まさに、その通りになった。というわけで、3勝した気分になった。

前王将の渡辺二冠(竜王、棋王)から王将位を奪取して久々にタイトルを手にした郷田王将も好きな棋士だから、連覇して欲しいという気持ちもあるが、郷田王将には誠に申し訳ないが、羽生四冠には、今期、王将位を奪取して五冠になって欲しいとも思い、複雑な心境ではある。そんなこんなで、次局の熱戦を楽しみにしている。

2016年1月28日木曜日

小保方さんと甘利さんは同類

お騒がせの二人が、同じようなことを言っている。

聞くところによると、小保方さんが手記『あの日』を出版したそうだ。稚拙な書名で、あの日って、どの日?、と茶々を入れたくなるが、読む気はしないし、ましてや買おうとも思わない。

講談社のホームページにある「講談社サイト全体検索」の検索欄に「あの日」と入力すると、「あの日」が書名に入っている本が10冊ヒットした。講談社は、よっぽど、「あの日」が好きなようだ。

講談社からの出版だそうだから、中身は講談の類だろう。講談社にしてみれば、社名に相応しい講談本が出版できたと大喜びなのだろう。

ちなみに、講談とは、「調子をつけて、おもしろく話して聞かせる軍記・武勇談・あだ討ちなどの話」(新明解国語辞典第七版)とか「寄席(よせ)演芸の一。軍記・武勇伝・かたき討ち・侠客伝などを、おもしろく調子をつけて読んで聞かせる話芸。江戸時代には講釈とよばれ、太平記読みに始まるという」(大辞泉)と辞書にはある。

出版されると、さっそく、内容の紹介などがネット上に書き込まれた。そんな中に、前書き部分が公開されているものがあったので、転記しておく。

「STAP細胞に関する論文発表後、世間を大きくお騒がせしたことを心よりお詫び申し上げます。このようなお詫びを申し上げる手段を見出すことができず、これまで心からの反省や謝罪を社会に向けて行えてこなかったことを、本当に情けなく申し訳なく思っております。」

お詫びの言葉があるが、何に対してかと言えば、「世間を大きくお騒がせしたこと」にである。この手のお詫びは、本人が犯した罪悪や違法行為には頬被(ほおかむ)りして、何ら反省する気もなく、罪の意識も覚えることなく、自らの責任から逃れようと体裁だけを繕うときの定番である。

金銭スキャンダルで経済再生担当大臣を辞任した甘利国会議員は、記者会見の冒頭で、「私を巡る今回の週刊誌報道の件で、国民の皆さまにご心配をおかけしていることにつきまして、深くおわびを申し上げる」と述べたと報道されている。

このお詫びも、「国民の皆さまにご心配をおかけしていること」に対してである。国民が心配しているかどうかはお構いなしに、勝手に心配してくれていると決めつけて、自分を被害者の如くに装う。こうしたスキャンダルに、国民は、怒ったり呆れたりすることはあっても、心配することはあり得ないのに。

小保方さんと甘利さんは、自分が行った好ましくない行為や不始末に対する責任を回避して、世間を騒がせたことや国民に心配をかけたことに対してお詫びをしている。こういう慇懃無礼な態度で自己保身を図ろうとするという点で、両者は同類ということになるだろう。

2016年1月1日金曜日

2016年元旦の老人のつぶやき

また、新しい年が明けた。おかしな言い方だが、そんなふうに言うようになったのは、年をとったからか。もう、これまでに何回も新しい年を迎えてきた年齢の人間にとっては、年が改まったことをことさら強調すべき理由もないのかもしれない。

新年を迎えるということは、単に寿命が1年縮むことにすぎない。そして、そのことに何の感慨も違和感も覚えなくなるのも、老成・老熟の証(あかし)と言えなくもない。こう言うと何となく気が利いた屁理屈のようだが、まあ、本当のところは、ただ何事にも鈍感になっただけだったり、気力が衰えただけだったり、ただ単に諦めや面倒くささの気持ちが増幅しただけかもしれない。

年をとるということは、そういうことなのかもしれない。ところが、いまや、アクティブ・エイジングとかなんとか言って、元気で活発な老い方がやたらに賞賛されたり推奨されたりしているようだ。

たしかに、80歳、90歳になっても元気で活動的なお年寄りも少なくないし、60代や70代は今の時代ではお年寄りとは言えないかもしれない。それはそれで結構なことだが、本人も社会も老いを素直に受け入れることができることも大事なことではないだろうか。そして、そうしたことができるようにするにはどうしたらよいか、ということに政治家や知識人は知恵を絞って欲しいと思う。

さて、話は変わるが、今年は申(さる)年ということだ。明治41(1908)年生まれの父親の十二支(じゅうにし)である。生きていれば107歳になる。母親は大正4(1915)年の卯(う)年うまれで、生きていればちょうど100歳である。有名人であれば生誕100年祭を祝うところだ。

毎年のことだが、正月には何かと十二支が取り上げられる。そして、それにちなんだ動物が話題になる。今年は申年だからと猿が登場するが、申と猿とは本来なんの関係もない。

十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥で、それぞれの音読みと訓読みを記してみると、次のようになる(括弧内の左が音読みで右が訓読み)。

子(し:ね)・ 丑(ちゅう: うし)・ 寅(いん:とら)・卯(ぼう:う)・辰(しん:たつ)・巳(し:み)・午(ご:うま)・未(び:ひつじ)・申(しん:さる)・酉(ゆう:とり)・戌(じゅつ:いぬ)・亥(がい:い)

一説によると、もともと暦(年月日)や時間、方位を表す十二支を誰でもが覚えやすいようにと動物を当てたということだ。語呂合わせや駄洒落の類が、言ってみれば、立派な伝統や文化になったというわけだ。何でも長く続くと、そういうことになる。伝統だ文化だといって持ち上げているものも、その始まりを辿(たど)ると、言ってみれば、ごく些細なたいしたことではないことが多い。

まあ、「新年明けましておめでとうございます」と年のはじめに素直におめでたい気分にはなれることは悪いことではない。そうした気分が、今年1年ずっと続くような平和で安全な年であってほしい。年寄りは、そうした年になるように一踏ん張りしなければならないだろう。そして、いまの年寄りは十分にそうしたことができるはずだ。人類の幸福を祈って元旦の呟(つぶや)きとしよう。